駆逐艦涼月が眠る「軍艦防波堤」のことをご存じですか?

 今回は、都政問題でも小池知事ネタでもありません。以下、少しだけお付き合いください。

 4月3日、北九州市の若松地区で毎年恒例の「軍艦防波堤を語る会」が開催されました。私も日帰りで参加、会の主催者であるMさん、Sさんらと情報交換をしました。。。と言われても何のことやらチンプンカンプンですよね。失礼しました。

 軍艦防波堤とは、戦後の物資不足の時代に三隻の船が防波堤代わりに沈められた場所を指す呼称です。響灘の埋め立て地に位置しています。昭和20年4月、沖縄海上特攻に戦艦大和を護衛して出撃した駆逐艦冬月と涼月、そして第一次大戦で地中海まで遠征した柳の三隻が眠っています。

 なかでも涼月は、米軍機の猛攻により艦橋と二番砲塔の間に直撃弾を受け大破、前進がままならず半分沈んだ状態で後進を続け佐世保港に帰還した奇跡の艦艇です。帰還後に艦内を捜索したところ、艦首付近の弾薬庫の中から三名の兵士が痛ましい姿で発見されました。彼らが弾薬庫を内側から密封したおかげで、涼月はかろうじて浮力を保ち生還できたと言われています。

 実は、死を賭して艦を守った三名の方のお名前は、一人を除いて長らく判明していませんでした。涼月のナンバー2だった倉橋氏が戦後書かれた著書によって、お一人は一等主計兵曹江藤虎蔵氏であることがわかっています。しかし、あとのお二人が誰なのか、「軍艦防波堤を語る会」でも正確につかめていませんでした。それが今回、そのうちのお一人の甥に当たる方からMさんに連絡が入り、語る会の当日、直接お話を聞くことができたのです。亡くなられたのは、高角砲弾庫長の國場勇氏です。甥御さんとは語る会以降、連絡を取り合っており、今後、もう少し詳しく事柄をまとめて何かの形で発表したいと考えています。

 自己紹介が遅れました。なぜ私が軍艦防波堤や駆逐艦涼月にこんなに入れ込んでいるのか、ちゃんとお話しする必要があります。沖縄海上特攻の時、駆逐艦涼月の艦長だったのが、私の母方の祖父だからです。海軍中佐平山敏夫と申します。1971年に亡くなるまでの6年間、実家で一緒に過ごしていました。ただ、祖父から戦争の話は一度も聴いたことがありませんでした。

 私自身は時代の影響もあって若い頃は左翼的な心情が強く、太平洋戦争に関しても極めて批判的な態度を取っていました。それが齢50歳の頃、そうはいっても歴史の事実は後世に伝える必要があると自覚するようになり、13年前、小学生だった息子を連れてMさんに会いに出かけ、初めて軍艦防波堤を訪れました。以後、Mさんとともに当時まだご存命だった乗組員の方々を捜し当てて直接お話をお伺いするなど、細々と活動を続けてきました。その一旦を11年前に物語としてまとめたのが「軍艦防波堤へ 駆逐艦涼月と僕の昭和20年4月」という本です。昨年、久しぶりに表紙を全面リニューアルしました。イラストを描いていただいたのは、語る会のSさんです。

 軍艦防波堤の存在は、地元でも「知る人ぞ知る」というレベルに止まっています。北九州でタクシーに乗っても、運転手の人は「へー、そんな場所があるんですか、知らなかった」と言う程度です。まず、知ってもらうこと、できれば現地に赴いて直に感じてもらうことが大切だと思っています。

 ロシアのウクライナ侵攻によって、戦争は不確かなイメージからリアルな現実に変貌しました。そんな中、もし軍艦防波堤や駆逐艦涼月のことに関心を抱かれたなら、さらに深く知っていただければありがたいです。

軍艦防波堤連絡会 http://suzutsukimamore.web.fc2.com/ 

「軍艦防波堤へ」 https://www.amazon.co.jp/%E8%BB%8D%E8%89%A6%E9%98%B2%E6%B3%A2%E5%A0%A4%E3%81%B8-%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6%E5%87%89%E6%9C%88%E3%81%A8%E5%83%95%E3%81%AE%E6%98%AD%E5%92%8C%E4%BA%8C%E3%80%87%E5%B9%B4%E5%9B%9B%E6%9C%88-%E6%BE%A4-%E7%AB%A0/dp/4754101790/ref=sr_1_1?crid=3A4RWBGPMWH2S&keywords=%E8%BB%8D%E8%89%A6%E9%98%B2%E6%B3%A2%E5%A0%A4%E3%81%B8&qid=1649208652&s=books&sprefix=%2Cstripbooks%2C204&sr=1-1





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