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【エッセイ書こ!】餃子

ラジオやポッドキャストの遠くの誰かが話してくれるようなお便りコーナー、長年過ごしていたはずなのに知らなかったぽろりと出る友人の聞いたことのないエピソード。
そういうのが大好物だし、意外性があってもっと聞きたい!!
ということで、そういうエピソードをとにかく収集したいと思って企画しました。
とにかく、普段文章を書いている人、いない人、久しぶりに書く人、誰でも文章力、文章作法などにとらわれず自由に書いて欲しいです。

そんな、拙い誘い文句でエッセイを募集させていただきました!
三回目となる今回は「餃子」
手作り、中華料理店、冷凍餃子。手作りも皮から作ったり、中華料理店もピンキリ、チェーンも個人もあったりと、多種多様多彩!!
生きてて食べたことない人はいないとすら言ってもいいんじゃないかというぐらいに、食生活に結びついた餃子!
そりゃあ、語りたいこともいっぱいあるはず!
というわけで、早速集まったエッセイという名の思い出に触れて行きましょ~!
寄稿してくださった皆さん、本当に素敵なエピソードたちをありがとうございます!
読んでいて、餃子と一言でいっても色々あるんだなと思わされるばかり。どれも情景がありありと浮かぶ、美味しそうな文章でした。

あ、お名前のほうは敬称略させていただきますね。
ロゴの方は左手さん(@hidari10z)に作ってもらいました!


餡を包む/ロナルド始澤(@Ronald_SHIZAWA)

 餃子の皮を包むのが苦手である。
 それさえなければ、餃子に関して言えば十分作りやすい料理になるだろう。
 私は埼玉県生まれで、亡くなった母は栃木県民、祖母も栃木県民ということで、餃子には縁があった。我が家の中では餃子は伝統料理に近しい立ち位置にある。日本に定着したのは戦後のことなので「何が伝統料理だ!」と、突っ込まれてしまえばなにも言えなくなるのだが……。
 餃子を包むことが出来ないというのは、餃子という料理のポテンシャルを最大限引き出せなくなるということで、非常に侮れない。限界まで無駄なく餡を詰めて、餡を押し込めつつひだを作って閉じる。ここにテクニックが必要なのだ。そうすれば、焼く際に肉汁が漏れず、ジューシーな餃子に仕上がる。
 年老いた父などはこれが非常に上手い。自分が包もうとすると、ひだが破れるか、ひだを作るとき餡が飛び出してぐちゃぐちゃになってしまうのだ。これに関しては回数をこなして、大量に失敗を出す必要があるが、仕事でもないのでそう毎日餃子を包むわけにもいかない。
 家庭の味を作るのはちょっとした細かな差異。それの積み重ねによる味の差と、芯のように変わらない部分の組み合わせというのが家庭料理を成り立たせると思っている。
 引き継ぐにも、子供の頃から慣れ親しんだ味であるという必要がある。だから引き継げたとしても、伝える術と、引き継いでくれる家族がいなければ、とあるひとつの家の味は簡単に消えてしまう。
 とはいえ、自分の家の餃子を引き継げたとしても、自分が独身である限りは私の代で終わってしまう。
 どんなものでもいつかは終わるが来るのはわかっているのだけど、引き継ぐ者もいなければ伝統は簡単に消えてしまう。それは、家族であれ、料理であれなんであれ……個人的なものである以上、あっという間に積み重ねた物はなくなってしまうのだ。
 そこにあるのは、どうしようもない儚さと、どうすることも出来ない無力感。それを人生の味と表現していいのか、今の自分にはわからない。

・あとがき
 包むという行為に内包されている様々な意味、物語というようなことって以外と重要じゃない? と思いながら筆を執ってみました。いつか自分も餃子を上手く包める日が来るのだろうか……

・コメント
自分の家の餃子、いいですね~何が入っているんだろうと興味がそそられました。
餃子を通して、伝承の儚さと無力感的なものを垣間見て、餡を包むにもいろんな側面があるな、としみじみ。

ひとり飯、最高!/あおきひび(@hibiki_livelife)

 今回の募集テーマを見たとき、真っ先に思い浮かんだことは「最近餃子食べてないな~」だった。
 ので、食べに行った。向かったのは近所のリンガーハット。餃子五個と長崎ちゃんぽんのセットを注文した。
 まずは餃子からいただく。タレにつけて一口かじると、嗚呼、パリパリサクサクでもちもち感もある、この皮! 中からは甘い肉汁とニラの香りが。舌をちょっと火傷しつつも、ハフハフと口に運ぶ。
 残り二個になったところで、タレに柚子こしょうを加えて味変。爽やかでパンチの効いた風味が絶妙だった。
 餃子を平らげたところで、ちゃんぽんの方に取りかかった。まずはスープを一口すする。とんこつ風味の優しいあじわいだ。そして、これでもかと乗せられた野菜たち。キャベツにもやし、にんじん、コーン、豚肉、きくらげ、かまぼこ等々……。麺は太めでやわらか。ボリュームたっぷりな一皿だ。食べ終えるころにはお腹がパンパンになってしまった。あー、食った食った。大満足。
 ちゃんぽんといえば、私が女子高生だった頃、修学旅行先の長崎で、名物であるちゃんぽんを食べたことを思い出した。自由行動中に班のメンバーと食べたそのちゃんぽんは、かなりの大盛りだった。私含むその場の全員が食べ残してしまったという、少し気まずい思い出がある。
 気まずいといえば、班決めの時の出来事。友達がおらずひとり余った私は、優しいクラスメイトたち三人から(半ば温情で)班へと入れてもらった。班が決まった後の昼休み、私は三人から「一緒にお弁当を食べないか」と誘われた。365日ぼっち飯の私にとっては願ってもない有難き申し出だった、はずだったが。
 私は彼女たちの誘いを断った。その理由は今となってもよくわからないが、おそらく孤独を極めていた私は妙なプライドを発揮して「情けはいらぬ、我はぼっち飯を貫くのみぞ」みたいな意地を張っていたのだろうと推測できる。結果、私は班の中でたいへんに浮いた存在となった。修学旅行での出来事はあまり思い出したくない記憶だ。
 実際、女子たちのグループの中で食べるお弁当は、ほとんど味がしなかったのだ。食い意地の張った私は、無理してみんなに合わせるよりも、早々にひとり飯を楽しむ方向へとシフトした。負け惜しみと言われれば、そうかもしれない。
 しかし、ひとりで食べる飯は美味い。これは確かだ。今回餃子を食べに行くにあたって、町中華ではなくチェーン店を選んだのは、ひとり客でも入店しやすく気楽だったからだ。高校生の頃から、自分の気質はたいして変わっていない。
 人目を気にせず、ただ目の前の美味い一皿に没頭する。ひとり飯は最高においしい。それでいいじゃないか。今はそう思っておくことにしよう。熱々の餃子で舌を火傷しながら、そんなことを考えた休日の昼だった。

・あとがき
 リンガーハットから帰ってすぐにPCの前に座り、この文章を書きました。食レポは鮮度が命だと思ったので。
 書いてるうちにだんだん餃子の話からそれていってしまいましたが、ギリギリ規定内だと思わせてください……!

・コメント
秀逸過ぎる食レポに思わずつばを飲んでしまいました。湯気まで伝わってきそうで最高です!! 火傷……餃子に火傷はつきもの……肉汁ぶわぁ、ですもの。
その若さで、ひとりで食べる飯は美味い、の境地まで到達しうる強さに痺れる憧れるぅ!!
私もリンガーハットでは絶対餃子のついてるセット頼むから、急激に生きたくなりました。ちゃんぽんの汁につけるのもまた美味しいんだこれが。


偏り/水畠聖子(@wakuwakuwahhoi)

 餃子。誰が言うまでもなく美味しい。
 餃子。私の自炊人生の強力な助っ人だ。業務スーパーの餃子をご存知だろうか。成城石井とか、そういうところで日々食事のメニューを考えている人などはまず見たことがないだろう(いつかはそっち側に行ってみたいものだ)。
 この餃子はすごい。「肉肉餃子」で調べてみるといい。冷凍で30個、綺麗に揃えてパックに鎮座している。価格は驚きの218円。一個あたり7円。素晴らしい。私のような貧乏庶民にはありがたすぎる金額設定だ。意味がわからない。冷凍だから日持ちするし、もし見つけたらとりあえず買って冷凍庫の隅に入れておくと、急に腹が減ったけれども何もない午前3時などに、大いに役に立つだろう。結構場所をとるが。
 味はというと、正直それなりの値段ゆえ、それなりの味がする。しかしそこで文句を言ってはナンセンスだ。一個7円の餃子と街中華の餃子、どっちが美味いかなんて、そりゃ。でも、しっかりと餃子の味がするし、調理法次第ではこの餃子は「化」ける。安いが故にたくさんのバリエーションを展開させられるのがこれのいいところだ。私はこの餃子をそのまま中華スープのもとを溶け込ませた汁にぶち込んで「餃子スープ」にして食べるのが好きだ。案外、これが侮れない。ごま油をスープにひと回しするだけで店に出せそうな味になる。就職ができなかったらこれを目玉にした中華料理店を出したい。店の名前は「舐ーname―」にする。中華料理に対する態度が舐めくさっているので。
 安いので毎日毎日こればかり食べていた時期がある。朝は食べないので昼、晩。大学に持っていくお弁当にも入れていた。
 私は知った。人はコスパだけで食事をすると精神が摩耗してしまうことに。とにかく荒んでいた。「餃子鬱」になっていた。その頃の哀れな私は自らが「餃子鬱」に罹っていることを自覚できていなかった。ただ「食事の時、いつも楽しくないなア……。」とぼんやり思っていた程度だった。
 とにかく、生活にハリがない気がする。本も読んで勉強もして、絵を描いて動画を見て家事をして……と充実した生活のはずなのに、どうにもうだつが上がらないままだった。青空のイメージができているのになぜだか気持ちが晴れず、何か、心の鬱屈を埋める何かを欲していた、「何か」がなにかわからずに!
  私は苦しんでいた。定型的な「苦しみ」というにはあまりにも生ぬるい苦しみだったが、それでもなおどうしたらいいのか絶えず心を惑わせ、いたずらに崩していた。満たされているにも関わらずどこか満たされないアンビバレンスな悩みが、常に心の奥底で影を落としているのであった。(思春期に感じた、いたずらに虚無を心にかかえるあの感じに似ている気がする。思春期なんて歳はもう過ぎ去ってしばらく経つが)

 しばらくすると、バイトの給料が入ってきた。こりゃーええわい宴じゃ♪ と私は踊り出した。それぐらいお金が大好きだ(執着しすぎもよろしくない)。今日は外食しちゃおうかな! と「外食」の文字がよぎり、気がついた。今、私は人の料理を食べられる権利を有しているのだよ、と。
 バッと目の前が広がった。街で店を通り過ぎる度に灰色に埋め尽くされていた飲食店の外観にデカデカと「アンロック」と書かれている。南京錠が外されている図が目に浮かぶ。そうか、飲食店ってアンロックするものだったんだ。このお賃金があれば「飲食店」の鍵を開けられるのか!
  気づいた私は早々に目の前のラーメン屋に駆け込んだ。今思うとなんで中華から離れないんだよと突っ込みたくなる。中華料理はお財布に優しくていいですよね、大体。
 ラーメンの大盛りをタッチパネルで注文する。メニューを見ながら待ち、弾着を待つ。腹の虫が高速回転。
 店員さんが天使に見える。天使はラーメンの大盛りを手にしていた。半ば奪うようにしてラーメンを啜る。この口は餃子を食べるためだけにあるわけではなかったのだ。ラーメン用の口でもあったらしい。獣のように貪っていく。
 正直、その当時感じた味の詳細は覚えていない。ただひたすらに美味しかったとしか覚えていない。「外食」がアンロックされた喜びがきっと、おいしさに相乗効果をかけていたのだろう。
 それから私はラーメンを狂ったように食べ、「ラーメン鬱」になったのでした。学ばない。終わり。
(ps 今は脱しました♪ それと餃子鬱を三度経験しています。間抜け)

・あとがき
業務スーパーは、味方だよ♪

・コメント
業務スーパーにドハマリしていた時期があるので、ありありとその餃子が思い浮かびました。私は、500gの水餃子派でしたが、餃子スープにするのは一緒。
相変わらず、店の名前は「舐ーname―」とか、餃子鬱なんかの言葉選びが最高すぎて(だってツッコミどころ多すぎるんだもん!!)一人ゲラゲラ笑い転げていました。
外食に行ったときの、飢えの描写も素晴らしくて、コミカルでとても楽しく読ませていただきました!


しあわせのじかん/七穂(@nanaho59)

 皆さまは、どんな時に幸せを感じますか。
 趣味に熱中している時、気の置けない誰かとおしゃべりしている時、自然を感じている時――。うまく言葉にできなくとも、きっと十人いれば十通りの幸せな時間の過ごし方があると思います。
 ちなみにわたしはというと、誰かとおしゃべりしたり、おいしいものを食べたりしている時に、幸せだなあ、と感じることが多いです。
 話は少し変わりますが、わたしは食べることが好きで、もはや自分ではそれを趣味だととらえています(ふくれ上がるエンゲル計数に、それを趣味とするほかない、というところが実情ではありますが……)
 食べ物の貴賤はといません。1本3,500円近くするパフェを食べて、おもしろい食材とそのくみあわせに知的好奇心がみたされてワクワクを感じますし、チェーン店の居酒屋でビール片手に気のおけないだれかと楽しくおしゃべりをしながら食事をするのもだいすきな時間です。要は楽しければそれでOKなのです。
 今回は、わたしが覚えている中でいちばん幸せを感じた瞬間の話をしようと思います。
 それはコロナ禍まっただ中の、カフェでだれかとおしゃべりすることすらかなわない時期のことです。前までは、休日になれば毎週だれかしらと飲みに行くような生活をしていたのに、休日であるのにもかかわらず、自分以外だれもいない家にこもっている毎日に飽き飽きしていました。
 そんな中、SNSでとある記事をわたしは見つけたのです。それは、はてな匿名ダイアリーに投稿されたある記事でした
参考:https://anond.hatelabo.jp/20200328190842

 内容としては、『とにかくぎょうざを作れ』というものでした。感化されやすいわたしは、すぐさまアマゾンでブルーノのホットプレートを買い(たこ焼きプレートや鍋までついている、ピンク色のおしゃれなやつ)、知人に連絡をとりました。当時仲がよかったある知人は、わたしの家に来て、よく遊び相手をしてくれたのです。
 というわけで、わたしは知人とおうちでぎょうざパーティーを開催しました。
 材料を近所のスーパーで買い込み、まずはわたしが野菜をきざみます。野菜を切ることが何より苦手で大きらいなわたしは、荒いみじん切りにしかできず、横で見ていた知人に、 「もう少し細かくできない……?」  と指摘をうけ、多少のイライラをかかえながらも、白菜やねぎ、ニラなど大量の野菜を切っていきます。
 大きなボウルに野菜と豚肉と調味料を入れ、まぜる作業に入る時、わたしは手でこねるつもりでいましたが、知人は、 「そんなことしなくても、スプーン二本でまぜるようにやればいいんだよ」  と、わたしに教えてくれました。ぎょうざというものは、手をベタベタにしながら作るものだと思っていたので目からうろこです。コペルニクス的転回です。
 そして、大量に買い込んだぎょうざの皮であんを包んでいきます。わたしはあまり慣れていなかったのですが、ぎょうざを包むのになれた知人からのレクチャーを受け、ぶかっこうながらも包んでいきました。個数が多いので時間がかかるのですが、だれかとしょうもない話をしながら包むこの作業もそれはそれでゆかいな時間であったりします。
 いよいよ焼きに入ります。母がぎょうざ焼きマスターであるため、ぎょうざをまともに焼いた試しがないわたしに代わり、知人が焼いてくれました。最後にごま油を回しかけて香りづけをするといい、やってくれたのですが、そのせいなのか焼き上がりは少々べちゃっとしたぎょうざになりました。知人は申し訳なさそうでしたが、わたしはあまり気にしません。手づくりなんてそんなものです。
 ぎょうざが焼きあがったので、あらかじめたいておいたご飯をお茶わんに盛り、ビールでかんぱいです。部屋はあたたかな日差しが差し込んでいます。昼から飲む酒ほど、おいしいものもありません。
 もちもちした皮をかむと感じる野菜のあまさと肉のあぶら。それをビールで流し込む。これをこころよいと言わずになんと言いましょう。
 そして、「おいしいね」と言いあい、その『こころよい』という感覚を自分以外のだれかと共有できる時間。これこそがわたしの幸せだとこころの底から感じました。
 ぎょうざを焼きながらビールをあおり、食べるだけ食べておなかがいっぱいになり横になった時の、おなかもこころもみたされて幸せとしか言えない感覚は今でもよく覚えています。
 高いお金をかけなくても、とくべつな体験をしなくても、幸せというのは案外近くにころがっているものなのだと、ぎょうざを作って食べるという体験から知りました。
 思わぬところで出会える幸福な体験に、まためぐりあえることを願い、こころをとぎすまして、わたしは日々をすごしています。

・あとがき
漢字をひらいて書くのってやっぱりセンスなんですね(苦笑)

・コメント
餃子にはビール!! 同士よ~と叫びたくなりました。
友達と二人で、餃子を作っているその過程のいじらしさが、目に浮かぶようで新鮮でした(器用だと思いこんでいたので……)
そして、記事を読んでホットプレートをすぐさま買ってしまうその行動力たるやいなや。食への探究心が、現れていて最高過ぎる……またそのホットプレートを使うときは呼んで下さい!!

餃子にはビール!/柊とち(@tochi2go)

 餃子と言って思い浮かぶのは、今はもう懐かしさすら感じるコロナ禍。
 と言うのも、その時は外出を自粛するように言われていて、私は付き合って半年ぐらいの彼氏と(なんていうタイミングで付き合い始めたんだっていう)予定を合わせて連休をとっていた。

 付き合い始めて初々しい頃、連休なんて言ったら、じゃあ外出自粛だし互いに一人でいるかーとはならないぐらいには二人とも不真面目で、私はその彼氏の家にお泊まりに行くことになった。

 その頃は、ご時世もありお家デートがメインになっていたこともあり、ボドゲにどハマりしていた。
 気になったゲームがあれば、密林で購入したり、予算を決めて買いに行ったりした。
 半額出してもらえるので一人では買えなかったものまで買えるし、なんと言っても相手もいる。控えめに言っても最高だった。
 そんなこんなで、タギロン、アズール、カルカソンヌ、ナインタイル、クオルト、ブロックス、コリドール、果てはチェスまでに手を出して、ほぼ一日中盤面を睨み合って、勝った負けたの大人気ないほどの大騒ぎ。色気など皆無である。ちなみに、使い過ぎて途中で頭が痛くなった。

 まあそんなことをしていると、お腹が減る。
 と言うことで、近場のスーパーぐらいはいいだろうと、スーパーに繰り出し、じゃあ何にするか、と言うことで、餃子、明日の朝はホットケーキに決まった。
 ブラブラと見知らぬスーパーで迷いながら、適当に酒と餃子の材料をあれこれと言いながらカゴに入れていく。
 買い物程度の外出もだいぶ気晴らしになった。お酒のコーナーでは、飲んだお酒や今までの失敗談なんかを話し、お餅のとこでなぜか雑煮の話になった(出身地がそれぞれ関東関西なので)
 外部からの刺激で話す会話も円滑になり、無駄なものまで買い込んだのを覚えている。

 そうそう。
 餃子。皮は既製品のものをもちろん買いましたとも。
 あれって、大家族用に出来てません?? 何枚あんのよ、って毎回思う。
 だけど、具も沢山買っていたので、むしろ具が余ったほど。っていうか、とにかく安上がり。ズボラなので、千切りキャベツなんかを使ったりしていた。
 ちまちまとさっきまでボードゲームで白熱していた机で餃子を詰める作業は地味に楽しく、むしろ、こんな時期だから手間がかかるのは良かった。
 なぜか、その時のBGMは私が気になっていた大科学実験という番組だった。
 私は、学のない文系だったので、なんでなんでと理系の彼氏に聞き、得意げに解説するその様子に、すげー! ともう可愛い子ぶることを忘れていたのに、丁寧に教えてくれた。
 感心しながら包み終わったところで、フライパンでじゅうじゅうと餃子を焼いた。
 餃子は、フライパンに詰めに詰め、三回分ぐらいあったけれど、ビールというブーストがあれば、全く満腹感に歯が立たなかった。やっぱり、餃子にはビールでしょう?
 というか、餃子って適当に作っても美味しい、と思い知らされるばかり。ペロリと全てを平らげた。
 楽しかった、美味しかったね、またやろうと、餃子会? は、そうして、幕を閉じた。

 それから、その彼氏とはそのしばらく後に同棲をすることになり、面倒な時は大体冷凍餃子にお世話になっている。並べて焼くだけ。最高じゃないか。
 ちょっと通話で飲みたい時にも、冷凍庫に入れとけば、お役立ちだ。ちなみに王⚫︎餃子が私のお気に入り。
 ちなみに、手作り餃子をしたことは、その後一回もない。そろそろ初心を思い返してやるべきか、と思っている今日この頃である。

・あとがき
惚気じゃんって言われるかもしれない。惚気だよ。黒歴史にならないことを祈る!!

むにゃむにゃの旅/かろでな(@Zimbelstern0618)

 私の餃子の原点は母方の祖母の家にある。祖母の家に行くと、餃子とナポリタン(これがまたバターが強くて豚肉とベーコンとウィンナーが入って、えらくがっつりしている)と山のようないくらが出てくる。それらを炊き立てご飯でぐるぐる食べるのが小さい頃からの幸せだ。そして焼く前の餃子をお土産に持たせてくれる。皮に弾力があって普通に香味が効いていて程々に肉肉しい、東日本においては多分取り立てて特徴が無いと言われる部類の餃子だと思う。洋食とか中華とかの括りがよく分からない頃にこれを刷り込まれてしまったから、今も私の中でこういうど真ん中な餃子とナポリタンはセットだ。「ナポリタンといったら餃子だよね」なんて言ったら大抵の人は「ハァ?」と返すだろう。思えば美味しい餃子にまつわる私の記憶は、大抵変わった人間と紐付いている。作り手で言えば、閉店時間が「やる気が無くなったら」なおじいちゃん。「メシ足そうか?まだ餃子あるだろ?いくらでも足しちゃる」と乱暴な気前の良さを発揮したかと思えばお釣りをこちらに計算させてくるおばあちゃん。「餃子ってさ、自分のばあちゃんが作ったのが一番美味しいんだよな」という名言を残した友人は自称火星人である。  さて、大河ドラマが好きな私は京都に遊びに行くことが多い。最初は史跡目当てだったが、段々京都という都市そのものが好きになり、気づけば文化財公開にかこつけて京都の空気を吸うこと自体が目的になっている節がある。一番思い出深い餃子のお店も京都にあった。過去形なのは昨年店主高齢で閉店してしまったからであり、この文章は半分そのお店への感謝と追悼だ。
 みぶ操車場近くの、夜九時まで空いていて有難いその小さなカウンター町中華は、ポパイ、ジンギスカン、カレーラーメン等、古い町中華の文化を残していて、とりあえず宿も近くで取ることにする位何を食べても美味しかった。勿論餃子もだ。箸でつまむと破ける位薄皮で、香味はあっさり控えめ、野菜率が高い餡は微塵切りの最早“飲める”ような餃子。焼き餃子も水餃子も“飲めた”。九十近いおじいちゃんの覚束無いながらも流れるような美しい料理姿を眺め、ビールと餃子を飲みながらお気に入りのジンギスカンを待ち、ほろ酔いで宿まで歩くのが京都の夜の最高の過ごし方だった。
 カウンターにいる面々はいつも濃かった。工事現場バイトの先輩らしき人に延々泣きながら親友の彼女に好かれてしまった相談をしている(その割にはよく食べる)大学生、正直堅気に見えない黒づくめスーツのオールバックおじさま、厨房に向かって愚痴る職業不明ギラギラメイクバブリーお姉さま……とまあ、偶々かもしれないが行けば大体どこかはみ出していそうな人達がいた。かと思えば買い物カートを曵いたおばあちゃんがお持ち帰りが出来るのをのんびり待っていて、はみ出た人間だけが固まっているでもなく、普通に表の場所の一部として溶け込んでいるのが心地良かった。
 そんな風なので地元の人しかいないと思ったのだろう、人に教えられて来た社長さんにおすすめを訊かれたまま一緒に呑んだこともあった。飄々とした文化人でR大で教鞭を取っていたこともあるらしいその社長さんは、京博に龍光院の曜変天目を見に来たと話すと嬉しそうに茶器を焼く話をしてくださった。むにゃむにゃ喋られるので半分位何を言っているか分からなかったが、先妻さんのツテで蒋介石と関わっていた話を聞いたり、国光の所持証を見せていただいたり、(ここには書けない)胡乱な事情で疎遠気味なご子息に代わって携帯電話の操作を教えて差し上げたりしたのは楽しかった。
 その夜はおじいちゃんが疲れていたのか、注文したキモの唐揚が来なかった。暖簾を降ろして「やっと仕事が終わった」と言うような軽やかな面持ちで餃子の仕込みを始めたものだから、私も社長さんもキモ唐のことは言わなかった。「注文忘れられてるなあ。まあ良いか」とそのままジンギスカンでビールを空にし、お店を出てからレシートを見て「ビールの勘定も忘れてるなあ」と苦笑した。別れ際に畑で育てているという立派な巨峰を軽トラの荷台から下ろしてお土産に持たせてくださったが、ホテルで食べたら驚く程甘かった。お礼の手紙を送ったらこれまた立派な丹波大納言を送ってくださった。
 どことなく怪しい社長さんの色々と気にしない性分もまたお店に溶け込んでいた。詳らかに語っても仕方無いので割愛するが、セクシュアリティやその他のどうしようも無い部分で毎日のように他人とのズレを感じてしまう私にとって、ゆるくむにゃむにゃした所を受け入れ合うそのお店は、一義的な“ちゃんとした人”を外れても不審にも哀れにもならないという京都の魅力を凝縮した場所だった。お皿の上で綺麗に並ばず乱雑に転がる餃子は、あの場にいた私達だ。美味しくて楽にいられて、面白い縁も出来た。有難う大宮京珉。一生私の京都の一番です。

 昨年の秋の初め、支えにしている写真家兼詩人の個展が東京で開かれたので見に行った。その方は人や草木がそこにあること、変化すること自体を受け入れる。一義的でない在り様を肯定できるというのは、楽でもあり、変わっているとされるが故に苦しいことでもあるが、その両方を写せて言葉にできる所がとても好きだ。
 生の写真が放つ光を自分の中の薄暗い所に収め、詩集に「良い旅を」と書いていただいた。「良い旅を」という言葉に、生きていても良い、でも、生きてほしい、でもなく、貴方は生きられる、という確信の上で背中を押されたような心地がして、今日という日を自分でも祝いたいような気分になって近くの町中華に歩いた。夏の残火の為に終了間近のとりごま冷し中華を、ビールの為に餃子を頼んだ。香味を抑えた肉団子のような餡が厚い皮に包まれた焼餃子は、ふかふかでどこかピロシキめいて絶品だった。自分のこれからがけして昏くはないことを自分の目以外のレンズで知ることができた日のビールは人生で一番美味しかった。あの日のビールの味を忘れることは無いだろうと思う。
 その日以来、考えることの余計さを放棄したい日はその町中華に行く。あっさりした餡、「炒飯」でなく「焼飯」という響き。あの日のことだけではない。成り立ちこそ違うが、京都の中華と似通う断片が、結果的にそこには存在している。餃子や濃くて辛いカレーをカウンターで一人頬張っていると、他人の見出したこの世界の光を真っ直ぐ受け取れたあの日のことや、京都を手繰り寄せて、この世界で生きてゆけることの確認ができる。ピロシキみたいな焼餃子と、もちもちでもやし等が乗せられていてタレの甘さが癖になる水餃子の間で迷っている時、私は自分を手離さずにいられている感覚を得られる。
 そもそも餃子は最初から、生きているだけで喜んでくれる人の料理なのだ。だから私も誰かの餃子職人になろうと思う。食べ物の記憶はきっと支えとなる記憶を手繰りやすくする。私が一番人を思って作ることのできる料理は、きっと餃子だろう。それがど真ん中餃子になるか、飲める餃子になるか、ピロシキ餃子になるか分からないが、美味しいと喜んでもらえる餃子を研究していきたい。自分でもどんな餃子になるか、今からわくわくしている。

(ちなみにですが……)  社長さんは昨年、茶畑を荒らす猪を退治すべく鉈を持って歩いていたら警察を呼ばれたそうです。

・あとがき

 やる気がなくなったらお店を閉めるおじいちゃんも飲める餃子を出すので、そういう餃子文化が京都にはあるのだと思います。  思い出が多過ぎてわちゃっとしてしまいましたが、「餃子食べるか」という気分になっていただければ嬉しいです。

・コメント
餃子とナポリタンに始まり、雑多な住宅街に潜む街中華の多様性をくぐり抜け(飲める薄皮餃子食べた~~~い!!!!)、むにゃむにゃおじいさん、キモ唐を忘れ去っている(意図的なんじゃないか)おじいさんまでに色々突っ込みどころが多いはずなのに、情緒が揺さぶられて突っ込みを忘れて読みふけってしまいました。

「良い旅を」という言葉に、生きていても良い、でも、生きてほしい、でもなく、貴方は生きられる、という確信の上で背中を押されたような心地がして~ の一文が個人的には好きすぎて、確かに旅って生きてなきゃ出来ないし、死にたい人は旅に出ないもんな(いや、分かんないけど)と思いながら読んでいました。
からの、だから私も誰かの餃子職人になろうと思う。がやたらと響く。餃子のようにぎゅっと包んだ思い出、ごちそうさまです!!


チャオズロード/かわせみ色のひすい(@aoi_kawasemi)

じゅわ~っす。ぼく餃子くん。
あっつあつに湯気たった水気を帯びた薄皮に、
ほっくほくに肉汁が絡んだやわらかく蒸された餡。
ほんのり辛みがかった濃いめのタレをつけて口にすると、最高に美味しいでしょ?

つけだれは醤油、ラー油、酢のミックスが主流なのかな?
小皿にお酢をひたしてに、胡椒をたっぷりふりかけるたれもあるよ。
油っぽさがない、さっぱりとした味わいが通好みなんだって。

でも、これは日本の焼き餃子の話ね?

水餃子、蒸し餃子、揚げ餃子またちがうのさ。
まだ食べたことない人はぜひ一度味わってみてよ。
そのひとくちが、きみの世界が一変するかもしれないよ?

世界で思い出した。
ぼくはいろんな国で親しまれているんだ。
生まれは、みんな中国だと思ってたりする?
そのとおり。
たぶん紀元前の春秋時代頃だって。
明王朝の時代の頃……日本だと戦国時代かな?
その頃には、いま食べられているような餃子になったみたい。

それから、ぼくはあちこちの世界を巡ることになった。

まずモンゴル。ホーショールという名の揚げ餃子になったのさ。
餡のお肉が、羊だったり、牛だったりするところが一味ちがう。
ネパールにも行ったよ。
そのときはモモと名乗ることになった。彼らはトマトソースにつけるのを好んだ。
アジアの果てだと、トルコにもいったなぁ。
マントゥといって、水餃子に似た感じかな。
味付けはニンニクと香味で、プレーンヨーグルトをかけて食べるのさ。

さぁトルコまでいったから、次はヨーロッパだ。

まずロシアだね。「ペリメニ」と名乗っていったよ。
ウクライナじゃ「ヴァレーヌィク」って呼ばれた。

それからポーランドとスロバキアは「ピエルク」、イタリアでも「ラビオリ」と名乗っていた。他にも北米や南米にもいったけど、話が長くなっちゃうから割愛するね。
もし興味もったなら、またの機会に。
それか、調べてみてもいいかもしれない。きっと、おもしろいことがわかるよ。

さてアメリカからぐるっと回って、次は日本だ。
江戸時代ごろにつたわって、明治時代にはもう普及していた。
最初は中国みたいな水餃子、蒸し餃子みたいだったけど、
他の国と同じようにだんだん土地柄に合った焼き餃子が主流になったみたい。
土地といえば、宇都宮と浜松には、めちゃくちゃ気に入られてね。
いっつもうちの餃子が一番だ!っていってる。
ウケるよね。
え?他のまちでもいってるって?
たしかにいろんなまちが、ぼくを売りにしてくれているよね。
嬉しいよね。

さて最後に、中国に戻ろう。

中国だと水餃子……茹でて湯切りした皮の厚い餃子が主流なんだ。
ただ地域によってすこし異なるみたい。
例えば華南や華東だと、揚げ餃子や蒸し餃子が親しまれているとか。

あと中国では、餃子は縁起ものとして扱われているところがおもしろい。
発音(チャオズ)が交子(子を授かるの意)と同じことから、子孫繁栄だったり。
また「交」には「末永し」という意味もあり、長寿や王朝の永続の祈願だったり。
そんなことから、結婚式で新郎新婦が食べるという習わしもある。
びっくりだよ。

とこんな感じで、地球を一周しちゃった。
ぼくにまつわる話は世界中にある。
そして、ぼくを食べたひとりひとりにも、その人にしかない物語があったりするんだ。。

たとえば。

食べ放題のお店にいって、連結した机にあふれんばかりの餃子を乗せたとか。
宇都宮にいって餃子を食べようと行きたい店をリサーチしていったのに定休日だったとか。
ひさびさに帰った地元がいつのまにか餃子を推していたとか。
しかも全然売っている店がみつからない。
やっとみつけたところで出てきたのは薄茶色の巨大餃子で、二度びっくり…とか。

ひと皿の餃子のその向こうには、あふれんばかり出汁の香ばしさのような歴史と物語がある。

・あとがき

餃子にまつわるエピソードがまったく思い浮かばなかったから、じゃあ餃子ってどんな食べ物か調べてみた。思っていたよりずっと奥が深いぞ、餃子くん…!ということでネタにした
せっかくなので、「餃子がしゃべったら、かわいくない?」
と思った勢いで、餃子くんをキャラクターにしてしゃべらせてみた。
当然、これはエッセイか??
となったけど、物は試しだとつっぱしってみた。
あと前回とは、文体の雰囲気を全然変えたかったのもある。
とりあえず読んだ人がぎょうざ食べたくなったら、今回は満足。

・コメント
餃子知識を得た! 世界中で似たようなものなのに呼び方が違うっていうのが不思議。っていうか世界は、何かを包みたがっているんだとしか思えない規模で、餃子が好きなんだなぁ、と実感。
マントゥ気になる! 味付けはニンニクと香味で、プレーンヨーグルトをかけて食べるって、ヨーグルト!? どんな感じなんだろうか……
餃子の幅は広い……


皆さん書いてくださってありがとうございます!! 美味しそうで、お腹が空いてくるエピソードばっかりで、はふはふしながら餃子を食べたくなりました。

さて次回のテーマは「コンビニ」です。
身近な存在であり、誰もは一度は言ったところではエピソードもたくさんあるはず!
こぞってご応募お願いしまーす!

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