【SS】どっちなんだろうか

 恋をしてるってどんな時に分かるの、そんな会話が後ろから聞こえてきた。
 寒風吹きすさぶ、駅のホーム。振り向くと、そこには寒いのに足を晒して立っている女子高生が三人ぐらいいて、きゃあきゃあと楽しそうに話している。
 きっと彼女たちのうちの一人が、好きな人でもいると言ったのだろう。

 恋なんて、気づいたらもう何年もしていないな。最後に人を好きになったのは――
 そんなふうに思いが自然と巡りそうになったところで、電車がホームへと滑り込んでくる。ごぉっと大きな音と、眩しい光を撒き散らしている。
 そこでふっと意識が現実へと戻った。危ない。良かった、思い出す前で。
 電車は、徐々に減速していく途中で、くっきりと彼女たちのうちの一人の言葉が耳に入った。
「その人が目の前にいないのに、考えていたら、じゃない?」
 それを聞いて、じゃあ終わった恋も思い出してしまえば、また恋になってしまうんだろうか、と人知れず苦笑いをして、眩しい車内へと歩を進めた。

***

「あ、」
 何かを思い出したように、彼女、花は声を立てた。
「なに」
「手、荒れてる」
 あぁ、とそんなことか、と美琴はため息をつきたくなった。今は、学生のバイトとはいえ仕事の最中だったから、集中しろ、と言いたくもなった。
 けれど、働いているカフェには客は居たものの、注文も来客もないまったりとした時間帯だった。集中しようにも仕事がない、ということで、口をつぐんだ。
「しょうがないなぁ」
 とっておきの塗ってあげる。そう、頼んでもいないのに、花は大げさな仕草で制服であるエプロンのポケットから絵の具のチューブのようなものを取り出した。
 蓋は緑色で、ちょっとかわいらしい緑色を基調とした色とりどりの花がそのチューブのところに描かれている。
 そして、それを手のひらに出して、広げてから、美琴の手を取って、擦り込んでいく。
 あたりに、なんというかフローラルなのにどこかミントのような清潔感のある心地よい香りが漂って鼻腔を刺激する。
「え、」
「女の子なんだから荒れてたら駄目、なんて言わないけどさぁ。あかぎれになったら痛いよ」
 とっさのことで、されるがままだった。気づいて、ぱっと手を離したくなったが、手を握る力は存外に強いようで離れなかった。

「分かってるけど……」
 塗るタイミングをどうしても逃してしまうのだ。せっかく塗っても、水仕事のタイミングがすぐさま来てしまったり、スマホを触りたくなったり、手を洗いたくなったり。寝るときも、疲れ果てて寝てしまうのが常だから塗ってる暇なんてない。
 それであかぎれが出来たり、ささくれているのを見てようやく後悔する。言われなくても分かっている。分かっているけれど、花にだけは言われたくなかった。
「それより、そんな良さそうなハンドクリーム、私に使って良いわけ?」
 だってそれ、プレゼントで彼氏から貰ったっていってなかったっけ? と問えば、ちょっと驚いたようにこちらを見たあと、よく覚えてるね、と言った。

「いいの。それこそ、自分にはなかなか使えないから」
「それって、プレゼントした側には複雑な気持ちなんじゃないの?」
「まぁ、そうだね。でも、私が使いたいように使うのが一番いいと思うんだ」
 会計お願いします、とお客さんが来て、花はその場を去っていった。
 使いたいように使うのが一番、とは美琴に使う、ということだろうか。さっき塗ってもらったしっとりとした手の残り香を嗅ぐように、そっと手の甲を鼻に近づけた。

***

 花と美琴は高校の時の同級生で、大学に入った今はバイト仲間だ。仲良し、というわけではなく、偶然同じバイト先になってしまった。
 いや、もともと仲が良かったのだが、ある時からその風向きが変わってしまった。
 それは、美琴が好きだった人、結城の存在だった。
 男子と女子と分かれるとはいえ、美琴は中学生の時も高校の時も、互いに同じバレー部の部長ということで話す機会も多かった。口数はあまり多くないものの、実直で時折口にする冗談が妙にずれていて、笑うと右頬にえくぼが出来た。
「部長会だるいよね」
「でも、ちょっとだけ部活さぼれていいじゃん」
「あ、それ分かる」
 そうして、部長会が終わってから、部室棟に行くまでの短い時間が好きだった。エクボが見えるように左側が定位置で、秘密でもなんでもないのに秘密話をするみたいにひそひそする時間を過ごしていた。
 周りの男子と話しているときとは違う顔を見る機会が多くなっていって、二人で話す機会も多くなって、互いに将来のことや、部活での人間関係の話など。その姿勢は見習うべきものや尊敬すべきところがあって、惹かれるまでには時間が掛からなかった。
 毎日のように話して。あと少し、もう少しだけこの現状維持を続けさせてほしい。恋人になれたらと願いながらも、誰にも話せなかった。
 当時、仲の良かった花にだけは、話そうかと思ったけれど、恥ずかしくて出来なかった。
 けれど、その相反する思いはあっさりと、結城の「実は花のことが好きなんだ」という言葉にあっさりと打ち砕かれた。

「結城くんに告白されたんだ」
「え、」
「間違ってたらごめんなんだけど、美琴って結城くんのこと……」
 好きだったよね? と聞かれて、反射的に、違う、と答えた。
「違う違う。話す機会が多かったから! いい奴だとは思うけど、恋愛感情とは違うなー」
 違う、と言いながら、やっぱり胸にあった気持ちは恋愛感情なのだと、声にしてようやくはっきりと思い知らされた。泣きそうになった。でも、表情筋は笑顔を保っていた。
「あ、そうなの?」
「うん、だから気にしないで!」

 そうして、二人は付き合い始めた。
 二人を見るのが嫌で、遠ざけて。美琴は、なるべく二人を避けるようにした。
 当然、二人には不審がられ、問い詰められたがのらりくらりとかわした。
 クラスも違ったし、部活の引退や受験シーズンが立て続けに来て、関係はなあなあになっていった。

***

「結城くんってそんなの選ぶんだね」
 バイトが終わって、ふとそんな言葉が口についた。
 どうして聞いてしまったんだろうと、とっさに後悔して、それからまだ未練があるんだな、と自分の女々しさに腹がたった。
「え、うん。なんかね、女の子が好きそうなのわかんないからって色々調べて行き着いたんだって」
 あっそ、と興味なさそうに言うと会話は終わった、と思っていた。
 あの後、忙しくなったのに、何故か花が塗ったハンドクリームのことばかり考えていた。結局、30分後ぐらいに、水仕事の機会が来て、綺麗サッパリ流されてしまったが、あの結城くんと高いハンドクリームがあまり結びつかなかった。
 付き合っている恋人に対しては、そういう感じなんだな、と苦いものが胃の奥底からこみ上げてくるような、そんな気分をハンドクリームが手についていなくても匂いが消えても、何回も考えてしまっていた。

「美琴とバイト先一緒って言ったら、会いたいって言ってたよ」
「バイト先に彼氏呼ぶの痛いからやめなよ」
 やっぱり二人はまだ付き合っているんだ、ふうん、と他人事のように素っ気なさを装いながらも、胸に何本も矢が刺さって来るのが分かる。本当に、聞くんじゃなかった。

 最寄りまでは二駅で、寒さに震えるようにしてマフラーに顔を埋めた。花や他の人は、きっちり耳当てや手袋の防寒具を身に着けていたけれど、美琴は手はポケットに突っ込んでおけばいいと思うぐらいには、自分に対していい加減だった。
 別に、悲しむ相手もいるわけじゃないし、と足先にじっと視線を落として歩き始めようとした。
「あ、ちょっと待って」
 なに、と振り返ろうとした瞬間、ポケットに入れようとしていた手が暖かくなった。
「帰りの分」
 すり、と塗られたのは、ハンドクリームだった。さっきのと同じ。花が使えないと言っていた、結城くんからもらった高い、いい匂いのするハンドクリーム。
「……ありがと」
 でも、帰ったら手洗うんだけど。そう言うと、いいの、と彼女は言って、小さく笑った。
「いい匂いで帰ってほしいから。お疲れ様」
 じゃあね、と花はあっけにとられる美琴を置いて、帰っていった。
 そんなの自分に言えばいいのに。自分には塗らないのだろうか、とその背中が見えなくなるまで見つめていた。

***

「ただいま」
 おかえり、と奥の部屋から聞こえたのを確認してから、洗面台へと向かう。
 いつもならすぐにお湯を出すのだが、何を思ったのか、すん、と手の甲を鼻に近づけて、匂いを嗅いだ。先程嗅いだ良い匂いが鼻腔をくすぐる。 甘くて、それでいて清涼感のある。それに、温かい手の温度。
(思い出しているのは……)


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