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理系信仰はなぜ国語力という言葉を使いたがるのか-2-

 文系思考と理系思考の文章の違いを二つの図で表してみました。単語と文章の関係を表したものです。

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 ここが理系思考の曖昧かつ無責任な所です。無責任というのはどういう解釈にも逃げられるからです。次の図で言えば明確な軸のベクトルがないのでどういう空間(場所、長さ、角度)にも軸を刺せるのです。どう解釈してもほとんどの場合、必ず拾いきれない要素が文章中に存在することになり無駄と言えますが、好意的に言えば様々な検証ができるということになります。

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 しかしこれが検討目的の報告書であるならいざ知らず、理系思考の人はこういった解釈の逃げ道が多数ある文章なり言葉を対面する相手に使うのです。習性です。相手がいる場合、不明確なメッセージは無用です。言葉は相手に意図を伝えるためにあるからです。

 例外として故意に意図を伝えず相手に考えさせる場合があります。これは指導とか修行という場面です。理系思考の人は無意識に自身の(国語力のなさで作られた)文章の言い訳をしようとします。

 そこで「相手に考えさせるシチュエーション」の流れを言葉だけで作ろうとして指導的な立場であるかのように振る舞うのです。受け手はまずここに違和感を感じます。別に相手に教育して頂く筋合いはなく、どこからそのような関係が生じたのか不明だからです。分かる訳ありません。理系思考の人の個人的な都合、発言なり文章の正当化のために突然始まってるお芝居なのですから。

 「自分で考えろ」と発した本人が主導権を取っているように振る舞っていますが、実はそうではありません。受動なのです。自身が説明できない(理解が浅いので出てくる疑問点に答えられない、決まった事しか言えず喩えができない)ので、情報不十分なままの相手に推測させ、一方的にそれを斬っていく権利を手に入れたいだけなのです。
 「表現の自由」に絡みますが、表現の上流に場所取りする評論家が、自ら作品を作らず他者が作った作品だけを一方的に批評する、そんな権利を守ろうとする行為に似ています。


 だいたい理系的なアピール(しばしば情感的な意見を否定します)をしておきながら、ほぼ感情から出た言葉になります。


 そしてもう一つのどうでもよい問題。すべての条件を拾おうとすると難しく時間がかかるので「そんなものいちいち説明できるか」という態度になることです。当然対面でこんなことしたらアウトですが、それが非常識であることが分かりません。

 彼らは理系的美学が最上になってしまってるので相手の存在や常識からどんどんかけ離れて行きます。


 言うまでもありませんが文系思考の方が高度な文章を作っています。矛盾や見落としがあると構造が崩れる上に、軸が通りません。精度は天地の差があります。理系思考の文章のように適当に並べるだけでは作れません。

 軸が明確ということは言いたいことがはっきりしていて、分かりやすく、その軸に沿ってそれぞれの単語の意味を理解すればよいことになります。無用な気を回す必要がなくなります。単語自体が簡単なものを使っていますから思考の中断がありません。


 昔は理系思考でも文系思考に近い文章が作られていました。使われる単語は特異ですが、そちらをきちんと掘り下げて調査することに時間をかけていて、すぐに文章化しなかったからです。

 文章化するまでの間、じっくりとその単語の意味を考えて練る時間がありました。ここで自然と単語の使い方や軸の通し方が試行錯誤されます。

 しかし、現代は単語を一つ一つ掘り下げるのではなく、検索で安易に威力のある言葉(特に新しい言葉、先端性を訴求できる)が見つかるのでそちらに引っ張られて羅列して行くようになり、紙の時代に比べて半端な理解で文章化するようになります。

 これが電子化、通信環境の弊害の一つなのですが、理系思考の弱点を助長しています。

 にも関わらず、理系思考の人は自身を駄目にしてまう電子化のメリットを殊更に強調するようになります。使う筈の道具に使われ、自身が劣化している事には気がついていません。

 電子化にメリットはありますが、デメリットを押さえていない、都合のよい事だけしか見ていない、検証すらしない時点でその人は素人ですが、メリットに引っ張られるというのは自分に自信がない(道具の価値を決める自分がない)ことの現れです。

 結果を焦っているので文章化まで時間を取らず、よく調べもせず、文章化を急ぎたがります。見落としが多いので後説が多くなります。


なぜ理系は「えらそう」なのか
理系文書はなぜ難解なのか
専門家はなぜ言うことがころころ変わるのか
を書いてみました。


 以上です。
 もう一つ、この記事を書きます。
 ありがとうございました。



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