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父の日に捧げる木刀メモリー

今日は父の日。
しみじみと考えたら、父はエッセイにほとんど出番がない。
母は結構な頻度で出演(?)しているのに、父のエキストラ感が否めないのは何故だ。
いや理由は明白なのだ。
父は調理師であった。それもホテルに勤めていたものだから、土日祝日盆に正月、そこは稼ぎ時であって、我が家において、一種のレアキャラなのだ。いやエキストラって言ったの誰よ。
すなわち、思い出量産型ではないのである。

しかし、今更ながらにちゃんと伝えたい。
私は父が大好きだった。いや待て、生きてる。大好きだ。
酒を飲むと多少うざかったが、父は男前で、器用で、愛くるしい。多分若い時はモテたに違いないと推測し、若い頃の写真を見せてもらったら、あんまりモテなさそうだった。
なんというか、大人の男になってから、纏う空気に男前が滲み出るタイプであろう。それを私は、いかりや長介型と呼んでいる。


そんな父も、私のことが大好きだ。
どのぐらい大好きかというと、私がお年頃である数年間、木刀を振り続けたほど好きだ。
誤解なきよう早めに言うが、決して私に対してではない。
父は、通りに面した我が家の庭で、道ゆく人誰もが目につくように、木刀を振り続けたのである。

私の通う中学校は、私が中学3年になるまで、村立だった。
村にひとつの小さな中学校は、当時、荒れに荒れ、2年に一度はヤンキーレジェンドが爆誕、少年ジャンプも驚きの事件連載率を誇っていた。

2学年上の先輩たちは盗んだバイクで走り出し、私たちの学年では、そのバイクが中学校の廊下を走ることもあった。他校の中学生が「天下統一」と乗り込んで来たこともあるし、校舎の裏には、もう手に負えないと判断した学校側が、火事を防ぐため用意した、灰皿用バケツもあった。
怖い。今更ながらに、書き出すと怖い。何これほんと?
卒業アルバムには、クラス毎に4人は確実にリーゼントの生徒がいる。多分夢じゃない。

いや、ごく普通の生徒もたくさんいたのだ、むしろ、普通の生徒数の方が多い。
安心してください(?)、私はヤンキーじゃなかった。
しかし、中学の3年間で、徐々にヤンキーに耐性がついていく。
「今日さー、同じクラスの〇〇が、廊下でバイク乗り回してて、プププ!」
食卓で急に放り込まれるバイオレンスな中学生活。
「先生は何をしているの!?」
両親が目を剥く当然の質問であるが、私はさらりと答える。
「一刻も早く私たちが卒業することを祈ってる」
ジーザス! 両親も祈る他ない。

父は、若い頃、関西に料理の修行に行っていた。
コッテリ関西人の母からすると、父のそれは完全なるエセ関西弁だったらしいのだが、茨城県においてのエセ関西弁は、当時なかなかの威力だった。
そして、母が西部警察における渡哲也ファンだったからか、父は謎に色のついた厳つい眼鏡をしていた。
さらに、家に鉄棒を設置し懸垂を欠かさずしていた、それも謎なのだが、とにかくガタイが良い。

バイオレンスでジーザスな中学校に通う娘を守れるのは俺しかいない。
父の背中はそう言っていた。


ヤンキーは中学校周辺のみならず、我が家の周辺にも多かった。我が家の裏手に住む少年が、中学生になってヤンキーデビューしたことで、リーゼントボーイがウロウロしていたのだ。
ヤンキー耐性のある娘は、比較的フレンドリーなヤンキーに対して、自分の家からヤンキーに手を振ったりもする。
「そこ、ときちゃんちなのー? 遊びに行っても良いー?」
「いや、それは嫌だわ、ハハハ」
道路を挟んで行われるそんな会話に、両親は震えていたはずだ。


そこで父は木刀を手にした。
なぜ我が家に木刀があるんだろう。修学旅行でゲットしたとは思えぬ、本格的な重量のあるそれは、床の間に家宝のように飾られていたものだ。
父は庭に出て、ヤンキーがウロウロしそうな時間帯になると、その木刀で素振りを始めた。
登校時間の遅いヤンキーが、平日に授業をサボってウロウロするヤンキーが、庭で木刀を振る父の姿を目撃する回数が徐々に増えていく。

ある日のことだ。
1人のヤンキーに廊下の隅に来るよう呼び出しをされた。
告白かカツアゲかの2択である。
告白だったとして、私には好きな男子がいるのであるから、それに逆上されたらカツアゲかもしれない。
残されたのは、カツアゲorカツアゲ。
恐怖に震えながら、廊下を歩く。
するとヤンキーはごく小さな声で「聞きたいことがあるんだけどさ」と言った。
告白からのカツアゲか! 小さく息をのんだ私に彼は言った。

「お前の父さん、〇〇組の幹部ってマジ?」

一瞬、〇〇組にキョトンとする。『湘南純愛組!』の連載はすでに始まっていただろうか?
どうやらカツアゲに慄いていた私は、反社会勢力の娘疑惑で慄かれていた。
村立中学校の廊下の隅っこで、ヤンクミ爆誕である。
(当時『ごくせん』ドラマは始まっていなかった)

田んぼと畑に囲まれた、のどかな平屋で行われる闇取引の数々を空想する。
厳つい若い衆に「お嬢!」と呼ばれる自分にほんの数秒だけうっとりしてしまった。

「いや、調理師だけど、なんで……?」
うっとりしてしまったものだから、半笑いで返事をしてしまった。この半笑いが、さも、本当のことを言い当てられて繕う不敵な笑みに見えたらしい。
ヤンキーは疑う眼差しでもってもう一度口を開いた。
「それ、仮の姿じゃなくて……?」

仮の姿……!!
かっこいい、うちのお父さんかっこいいい!!

内心大興奮である。
がしかし、こんな噂がまことしやかに広まって、片思いの雄太郎くんにまで伝わってしまったら深刻な打撃になると思い至って慌てて訂正した。
「違うよ、そんなわけないじゃん! よーく考えてみ?」
私は、己の容姿を自分で確認するようにして、制服や髪型が模範的生徒であることをアピールする。
彼は、ホッとしたように
「やっぱりそうだよなー」
と笑った。
それから、自分たちの仲間の元へ戻り「やっぱ違うよ、絶対」と報告するや、我が家の裏手に住むヤンキーが言った。
「でも、こいつんちの父ちゃん、マジで素人じゃねぇよ、木刀の素振りの音ハンパねーし、すっげー関西弁だしよ」
噂の出所はここだった。中学生の妄想力とは恐ろしいものである。

父の作戦が功を奏したのだろう。
「ときちゃんちの父ちゃんは只者ではない」
という、うっすらとした噂の元、カツアゲをされることも、告白をされることもなく、私はバイオレンス中学校を無事卒業した。

娘を守りたい父は、まだ活躍する。
私が高校生ぐらいの当時、近所で風呂を覗かれる事件が多発しており、平屋である家の私の部屋でも、誰のものかわからない、手のひらの影を確認する事件も度々あった。
「ヒッ」と声を上げると、一目散に逃げていく。
一度、風呂場にゴキブリを発見し「ギャー!!」と叫んだら、父が血相を変えて風呂場に乗り込み、年頃の娘の全裸を前に「ゴキブリ如きで叫ぶなアホンダラアアア!!」と、私より絶叫していた。
中学卒業してもなお、木刀の素振りは夕方薄暗くなるまで続けられた。
私の中で、木刀と言えば、宮本武蔵かユキオである。

父が木刀を振らなくなったのはいつ頃なのだろうか?
高校生の時、私が彼氏を初めて家に連れてきたら、16時には「部屋の電気をつけなさい」と数回にわたって標準語で声をかけて来た。木刀は手にしていなかった。

夫が夫になる前、初めて我が家に挨拶に来た時
「娘はやらん! と怒鳴るのが俺の夢だった」
と一升瓶を抱えて笑った。木刀は、床の間に戻されていた。
いつしか、娘は木刀で守らなくても大丈夫な存在になったのかもしれない。

先日、父の日にTシャツを送った。
モンベルと手塚治虫がコラボした、鳥が描かれたTシャツだ。
胃癌により、一時期激痩せしてしまった父に希望サイズを聞くと、Lサイズがいいという。
Mサイズでも大きいと言っていた頃の不安を打ち消す言葉だった。
「届いたぞ、ピッタリや」
木刀を振り回していた頃より、随分と小さくなってはいるが、父の背中は、まだまだ私を守ってやる、そんなことを言ってる気がした。

モンベル✖️手塚治虫Tシャツ






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