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Life is Beautiful



日曜日の収穫祭、月曜日の撮影と仕事のピークが過ぎた頃。携帯が鳴った。



どんな人生だったのだろう?
2021年の9月に在宅介護が始まってから二年間ずっと、自分にそれを想像するように問いかけていたが、答えは今も見つかっていない。


いろいろなものを与えられた。
わたしが小さい時、母の怒声や悲鳴を遠ざけるためにコタツに包まって寝たふりをしてやり過ごした記憶。片手で数えるくらいの親子三人の旅行といえば、喧嘩ばかりで母の発狂を隣で聞きながら車の外の景色をずっと眺めていた。ケンタッキー原宿1号店の店長だった父親。病気で現役を退くことになった三十代半まで、ほぼ家にはいなかった。同じくらい帰りの遅かった母だったが、土日はわたしの話し相手だった。

若かったのだと思う。22歳でわたしを産み、ばあちゃんも四十代半ば。父はまだ大学生。 私が3歳までは北海道に預けられた。就業してからはがむしゃらに家計を守るために働いた。そして慣れない仕事に没頭することで、若くして親となる現実から逃避していたのだろう。寡黙で暴力的な父。勝ち気で物言いの激しい母。血気盛んな若者だった二人。喧嘩が絶えないのも仕方がない。

そんな時でも、母はいつも私には優しかった。

わたしが少し大人になりかけた頃。
母が一人暮らしを始めた駅の近くの喫茶店で待ち合わせをして、スパゲッティを食べるのが毎月のイベントだった。今思えば給料日の後だったのだろうか。少し早く着いて、水を出されて母を待つ。中学生のわたしには、大人びた感じがして少し照れ臭かった。

長い間北海道に。
父が盲目になり末期の糖尿病になった頃。時を同じくして母は北海道へ帰ってしまった。既に籍は外れていて、別々に暮らしていたが何かあれば駆けつけられる距離にいた。ところがある日遠くへ行ってしまった。それから母が父に会ったのは十年後の葬儀の時だと思う。

しばらくは、疎遠に。
わたしが母に対して特別な感情を持つことはなかった。でも世間からは、私と父を置き去りにして自分だけ逃げた。と思われていたのかも知れない。人それぞれの生き方がある。八年前までは、お互いの人生で忙しかった。

孫は嬉しかったはず。
遠方に暮らす母に届いた初孫の知らせは、明るかったと想像できる。親戚にも顔が立ったのだろう。そこから年に一回あるかのやり取りが、少しづつ増えてきた。そうこうしているうちに同居することになった。わたしと一緒に暮らして、孫の成長を側で見せられたことは最大の親孝行だったと思っている。

大人同士の軋轢。
親子でも、今となってはこちらも十分な大人。ひとりの人間としての母が透けて見えてしまう。私とは性格が合わない。いや、家族とも合わない。だから北海道でも厄介者だった。ずっと孤独で友人もいなく、趣味もない人だった。否定や嫌味も多く、怒鳴り声をあげて喧嘩を何度もした。年齢は関係なかった。父と母が繰り返した争いを私がすることになるとは思いもしなかった。

教え。
父も母も生き様と死に際のすべてをきっちりと見せつけた。ひとりっ子のわたしは、それをたっぷりと受け取った。血気盛んな若者で。親で。ひとりの人間で。そして病人で。衰弱して往生するまで。振り返れば、あらためて多くの経験をいただいた。物怖じせず、平静でいようとする心の強さや不屈の精神力は、両親がくれたもの。人としてどうあるべきか?良くも悪くも私に深く刻まれている。



11月20日15時16分
「先ほど息を引き取りました」
施設から一報が届く。

現在の医療科学では、余命ではなく存命確率というのが分かるらしく。担当のお医者様からは週単位から日単位となっていると10日前に連絡があった。仕事のピークがちょうど重なる。いつその知らせが来てもいいように準備はしていた。そして、ラストの撮影が終わり一息ついた時に携帯が鳴った。


見送り。
昨日火葬を終えて、あっという間に遺影と壺に収まった母。落ち着いたら北海道のお墓へ連れて行く予定。通夜や告別式はするつもりは無かったが、火葬の予約が取れず1日ほど時間ができた。子供にすべてを見せるいい機会だと思ったので一晩を斎場で共にした。介護でお泊まりどころではなかったので、高一の息子はなんだか楽しそう。悲しまない葬儀もよかろう。マクドナルドをお供え含め全員分買い込んだ。生前に母とやったことのある全てのボードゲームやカードゲームをみんなで夜中まで楽しんだ。

ひと通りの葬儀らしいものを経験させることができた。私が仕事だったので、ちょうど亡くなる前日に孫として会いにいってくれた。生きていた人が、翌日動かなくなり、火葬され収骨までの一生を彼は見ることとなった。

ひとつの答え。
ある年の誕生日にパスケースを母にプレゼントした。Hacoaの木製ケースに刻印ができるサービスがある。母を想ってそこにこの言葉を刻んだ。「Life is Beautiful」人生は美しい。私の大好きな映画のタイトルでもある。


母の名前は

美幸

みゆき。これに因んだ言葉を贈った。生きているこそが美しい。勝ち気で自信家の母が「自分の選択に間違いは無い」とまだ元気な頃に言っていたのを思い出す。後悔はあったのかも知れないが、間違いでは無かった。直前までそう思っていたに違いない。

生きているこそが、
美しい人生。

それが母のすべてだったのでしょう。


最後に、産んでくれてありがとう。育ててくれてありがとう。今まで本当にありがとう。そしてさようなら。

ゆうな。





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