我々は日々

我々は日々、こんなにもいろんな場所で毎分毎秒語られる発せられる言葉があるのを知っているのに、その中の誰かの言葉や情報を、さも人類代表かのようにピックアップされた情報を見聞きしては、こうして一喜一憂している、と思いながら、何を信じようか何に寄り添っていきようかと自分の為だけの探求もしつつ、ここに居る。

地球が丸いとか地球の生き物の存在とか、同じ時間軸の出来事とか、時代を共にすることとか、まったくわからずに気にせずに、いま自分と身のまわりの事柄だけで人生を終えるような、そんな時代を経て、いまは同時間で感じること、同時間で起きているモノゴト、自分とはかなり距離も遠い人達のことも、スマホ一つで近しくも自分の身のまわりの出来事のように感じながら日々日常があること。全体を大きくも感じながら身近に感じること。

大きなモノゴトの中に身を置きながら、全体を広く大きくも捉えながら、我が身の視線や感覚を並行させて日常を捉えるような。ニュースでピックアップされるモノゴトも、誰かの選択によってポッと浮き上がって大きく見えただけで、自分にはピンと来ないものだったりすると、反応できない自分がズレテルのかなぁと思ったりもしますが、、ぜんぜんそんなことなくて、興味や知識や立場や経験などから、違いがあるだけで、いろんな思考思想感覚で、全体的な好みとか総体的に妥当ラインとかそうゆうものとの差もあって当然ってこと、新しい感覚から発せられるものとか展開してゆくこととか探せば一致するものにも出逢える世の中でもあるから、いろんなチャンネルがたくさんあるってことが、そうなのだ。

全体を意識しながら、同時に自分用に安心できることとか、確かだと思う事とか、信じられそうなものとか、寄り添っていきたいものとか、自分なりに探せるってこと。宗教ひとつとってみても当たり前に生まれた地域や家族のなかで継承してゆくようなものでもなく、探せば好んで選べる時代でもあるから、変化してゆくんだろうなと思う。

個人的には、表現作品が好きなので、音楽や映画やアートなどからヒントを得てゆきたい、それが在れば大丈夫だし、無くならないでいてほしいとゆうこと。それが、自分の為だけに糧にしていられるしずっと探求していきたいと思うモノ。

信じたいものを信じればいいし、心地よいと思うモノに寄り添えばいい、だけど、いろんな言葉を見聞きしてしまう時代でもある、いろんな声やいろんな声の大きさや程度がある。だからこそ、ソコにただただ揺らいで心や頭をぴったりとくっつける必要はないから、大きなモノゴトの中に身を寄せるなかで、自分だけの確かさをギュッと真ん中にまるめておく。真ん中はしっかり詰まっている、わたし。

そんなことを想う、2021年最初の文となりました。

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