「私立恵比寿中学とは名作である」あとがき

はじめに、名作とはなにかという問いを提示した。執筆段階で私はひとつの答えを見つけた。
名作とは希望を表現している作品なのだと思う。村上龍が『どこにでもある場所とどこにもいない私』という短編集のあとがきに残した「社会的な希望ではない。他人と共有することのできない個別の希望だ」という言葉。エビ中からお腹いっぱいになるまで受け取ったそんな希望を心の内に留めておくことに耐えきれず、文字で表現することに挑戦した13人のエビ中ファミリーが描いた世界が、この「私とエビ中」だった。

ちなみに、本文中に幾度か登場した「光」とは「希望」である。これは児玉雨子さんの小説「##NAME##」内でも同様か、それに近いと思う。なお、小説からの引用が初めてだったのでどこまでネタバレしてよいのか分からず述べることはなかったが、「##NAME##」において「光」は「闇」を浄化するものではないし、そもそも双方に因果関係は存在せず、ただ対照的な意味をもって独立したものである。「闇」とは、「自分の知らなかった領域やそこにいる人々に出くわした時の、手に負えない現実を見切る時の呪文であり、未知に遭遇した興奮にはしゃぐ時のかけ声」らしい。児玉さんの作品は細かい描写の完成度が本当に高い。

しかし希望はあくまで過程であり、エビ中から感じる希望によって象られた"なにか"が名作の基準なのだ。その"なにか"が人それぞれ異なるから困っているのだが、だからこそ普遍的なのであって、与えられた基準に反した作品が不当化されるような排他的なものでもない。ちなみに、「与えられた基準」というのは私の中で大きな問題のひとつでもあった。本文で「社会の大半が願うある意味支配的な希望」と述べたように、一種の希望は束縛性を持ち得るような感じがする。本当に心から願う必要はそこまでなく、「協調」という言葉の表面上の意味だけを重視し、型にはまった希望を餌に人々を望む場所に集めているような、そんな希望(笑)のアンチテーゼとしてエビ中を描いたつもりであったが、それを説明するには文字数が足りなかった。

また、本文では上手く強調しきれなかったが、希望とは形而上的なものであり、形はないし、目に見えることもないと思う。「麓」に「湧き出ている」と述べたように、まさに湧き水のように際限なく溢れ出し、それをすくう手の中に溜まった水。生物における水分のように生きていくために必要なわけではないが、大抵の問題は希望があればなんとかなる。その色や大きさは関係ない。

もうひとつ、名作の真理に近づいたものがあった。

(名作は)観たり聴いたりすると、いろいろなことをいいたくなる。
「!」や「?」がたくさん浮かんでくる。

https://note.com/mura660527/n/nc18b856703b9

私のイメージをそのまま言語化した粗いものになるが、おそらく名作とは、その作品の概念が読者ないし観客の脳の中から大きくはみ出し、理解しようと頭の中に無理矢理詰め込む過程で組合せ爆発が発生して感情、記憶に作用してくるような感じ。要は急激に別世界のもののような概念が脳内に飛び込んでくることによるオーバーフローなのだが、難しい数式を解くときのそれではなくて、2次元の世界が3次元に、或いは3次元の世界が4次元に広がるような感覚なのだと思う。

あくまで組合せなので人によってその瞬間、琴線は異なる。なので、もちろん価値観は人それぞれで、自分の考えを他人に押し付けることは間違っている。しかし、だからといって自己を卑しめることはアイデンティティの喪失につながると思う。
絶対的な自分の考えを持った上で他人の価値観を尊重することで、人生に少しずつ色が足されていくのだ。20年も生きていない私、個人としての意見だが。

なにが言いたいのかというと、自分が名作だと思った作品は絶対に名作だということ。私は、本文で私立恵比寿中学は作品だということは明示したが、その先には一切、触れるつもりはなかった。希望という一種の答えを述べつつも、名作か駄作かは読者に委ねることにした。読んだ方のほとんどは既にエビ中を名作と評価しているだろうから、意味のない命題だったかもしれない。

余談だが、芥川賞の候補作が発表されたのはこの文章の執筆中であった。その時点では既に「##NAME##」を引用していたという古参アピだけさせてもらう。もし受賞したら泣いて喜ぶ。忙しくなってもエビ中に提供してね。

2023年夏 横浜にて(笑)

可愛いーー!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?