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盲目オタク

これが「あるある」なのか分からないが、私は階段、特に登りの階段が苦手だ。登っていると、後ろから追われている感覚をなぜかおぼえるからである。廊下を歩いていても同様で、後ろに何かがいて、それが全速力で追ってくるような感じがする。なので階段を上がる時は(TPOに応じて)全速力で駆け上がることで、私はいつも未知の危機から逃れている。

人間にとって最も怖いものは、いつも目に見えないのだと思う。人間の視野は120度と言われているが、つまり残りの240度は語弊を恐れずに表現すると「恐怖に支配された暗黒の240度」といっても間違ってはいないだろう。無論、その暗黒をカバーするための聴覚や嗅覚であるが、それらが他の動物より劣る人類にとって「廊下を歩いていたら後ろからコツコツと音がする」なんて現象は逆に恐怖でしかない。だからこそ人類は持ちうる最大の技術を駆使して背後の安全を守ってきたし、「後ろから刃物でひと突き」は顔見知りの犯行の象徴とされてきた。しかし、どんなテクノロジーを開発しても見えないものは星の数ほど存在してしまう。放射能や花粉、ウイルスに、我々はおびえて暮らす。

さて、アイドルは「偶像」ともいう(中国語では「偶像=アイドル」だし、英語「idol」も元々は「偶像」としての意味を持つ)。「偶像」とは神仏を模して信仰の対象として崇拝する像のことである。これは目に見えるだろうか。像としては存在しているが、その像は実体とはいえるのか。いつの間にやら誕生した歌って踊るアイドルを「偶像」と表現した頭の良い人は、アイドルをどう認識していたのか。

もちろん、アイドル本人に「お前は実体のない偶像だ!」なんて言うのは失礼極まりない。ただ、アイドル本人の「アイドル観」とファン各人の「アイドル観」が一致しているとは限らない。偶像だからこそファンは固定観念にとらわれない様々な楽しみ方ができるのかもしれないし、もしかしたら、アイドル本人だって「アイドル」という理想を叶えるために活動している、未完成の偶像なのかもしれない。

無機質的に表現してしまえば「女の子の形をした可愛いマネキンに理想を投影している」ものがアイドルなのだろうか。理想を投影しているだけなのだから、マネキンの行動自体は自由であり、なにをしたって影響はないはずである。ただ、そうはいかない。マネキンが理想にとらわれ、マリオネット状態になってしまうのが常であり、結局、恋愛とファンの減少の因果関係は消しきれない。

さて、「盲目オタク」という言葉がある。理想の推ししか見えていなくて、他人の迷惑を顧みず、推しの不祥事にも目をそらすオタクをそう呼ぶのだと認識しているが、マネキンの理論で表現するなら「自分が人形を操っていると思い込んでいるオタク」とでもいえようか。まさに、アイドルを偶像として捉えることの弊害である。

先に「目に見えないものは怖い」と述べた際にひとつ、例にあげなかったものがある。他人の脳内は目に見えない。特に、知らない、顔も見えない人の考えなど怖いに決まっている。ファンからしたらよく知った相手であるアイドルでも、アイドルからしたらそうではない。よく知らないファンが、まるで彼氏のような態度で接してきたら。きっと、背後からダッシュで追いかけられるような感覚に似ているだろう。

そもそも、「ファンからしたらよく知った相手であるアイドル」は正しいのか。果たして、ライブやブログなどで見ただけの生活がその子の人生なのか。「アイドル=偶像」として捉えるのなら正しいのかもしれないが、ファンが話しかけているのはマネキンであって理想ではない。そしてマネキンは人間であり、意思を持っている。「偶像」を見て、拝むこと自体になんの間違いもないと思うが、人間とのコミュニケーションである接触イベントに「偶像」を持ち込むのが正しいのだろうか。

ここではマネキンと表現してしまっている「人間としてのアイドル」には、誰にも見せていない生活が確かに存在しているはずだ。そして、それをファンは知らないはずである。「無知の知」というが、「盲目オタク」というのは「無知に対して盲目」なのかもしれない。アイドルは偶像であり、人間である。「アイドル」という言葉を作った人には申し訳ないが、偶像がアイドルのすべてではないということを理解するのが、オタクに必要なことなのである。

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