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《雑記》 散文形式  リズム

 なにを書けばいいのか。そんなことはわからない。わからなければ何も書かなくていい。書かずに済むならそれでいい。そうもいかないから困って書き出す。書きたいという衝動を抑えられないのか? そういう側面もある。確かになくはない。あると言えばある。こうやって冗長な感じで言葉を連ねてゆくことは心地いい。まるで自分がなにかを書いたような気持ちになる。実際には何も書いていない。なにも言っていない。何かを言わなければならないのか。何も言っていない文章に価値はないのか? そんなこともないだろうと思える。ただそれを自分が読みたいかと言われたら、どうなのか? 自分にとっての情報が何もない文章を読むだろうか。読み進めるだろうか。読む場合もある。なくはない。でもそれは結局その文章に、自分にとっての情報がある、ということだろう。たとえそれが何も言っていない文章であるとしても。何も言っていないように見えるとしても、つまり情報がないように見えるとしても、そう見えるだけで実際ある場合もあるのだ。情報が。たとえばその文章の文体にひたることによって快楽を得たいから読む。そういう場合もある。自分の場合、そういう時は実際多い。たとえばいま意図的にあちこちで同じ単語を何度も頻出させている。それは情報の濃度という観点からいえばやめたほうがいい行為で、濃度を薄める行為だ。そして単純に冗長で、ともすれば鬱陶しさにもつながりかねない。でも自分はこういう文体が好きである。くり返される言葉。同じ言葉が何度も出てくる。一回言われたことをまた次にも手を変え品を変えて記述する。そういう文体が嫌いではない。何度も実践したくなる。何度やっても、やり切れたという感覚にならない。一度とことん書き切って見なければならないのだろう。まだ全然書き足りていないのだろう。中途半端なところでいつもやめているから、やり切れたという感覚にならないのだろう。これだから半端者は。

 ともかく、情報の種類はひとつではないということだ。この文章はなにも言ってないよ、なんの情報もない、読むんじゃなかった、と言ってベッドの向こうに本を投げ捨てようとする場合、たぶんその文章には自分にとって役立つデータとか自分にとって新しい固有名詞とか、自分の知らなかったものの考え方などが書いてなかったのだろう。もういいやこれブックオフに売ろう、腹減ったからピザでも食おうかな、と言って本の表紙や帯がくしゃりと折れ曲がるのも気にしないで適当なところにそれを投げ捨てようとする場合、自分にとって有益なこと・興味をひかれることが書いてなかったのだろう。それはもう運がなかったということにして次の本を探せばよい。ただ数字とか固有名詞とか、ものの考え方の呼び名とか、なんとかイズムの解説とかいった情報が書いてないにしても、そのような情報ではない〈情報〉をそれが含んでいる場合もあるのだ、ということを知らせられればこの文章の価値はあるのかもしれない。このあとにいくつかの引用をはさみながら、さまざまな文体や文章の音楽的側面について解説すればいいのかもしれない。言葉にならぬ言葉、情報にならぬ情報について論じればいいのだろうか。でもそういうことをするのが面倒くさいから今これを書いている。情報にならぬ情報について解説すれば、それはもう情報を含む文章であることになる。そういうのはほかの人におまかせする。情報はいまネット上に散乱しているからそこを探せばよい。ではこの文章は、情報を含まない文章であることを自己の存在意義とするのか? そうやって定義してしまえば、またこれもつまらない。かたくなに情報を言わないように、なにも言わないような記述をめざしてゆくのもそれはそれで面白いかもしれないが、いまそういうことをやりたいとは思わない。ただキーをたたいて言葉を連ねてゆきたいだけなのだ。ライブハウスの聴衆は、ステージ上でドラムが連打されるのを聴いて「情報がないではないか!」と言って怒ったりはしない。ただ勢いにまかせて言葉を並べてゆくうちに情報が浮かびあがってくるなら、それはそれでいい。なければ別にそれでかまわない。ステージ上で刻まれるアドリブのビート。それをジャズだと定義する必要もない。衝動にしたがって、ある程度の秩序を保って、時には秩序を破りながら刻まれるビート。それを楽しめばよい。楽しむことができなければ、それをベッドの向こうに投げ捨てるといい。

 文章を読むとき、あるいは書くとき、それを音読している。頭の中で声に出して読んでいる。これがいいか悪いかを論じる場所はここではない。ただ自分はそうしている、というだけだ。音声に変換する。すなわち句読点がものをいう。重要になる。リズムが発生する。文章のリズムとメロディに自分は関心をもっている。メロディに関して述べることはできない。それを論じる場所はここではない。その能力も経験も自分にはない。ではリズムに関してはあるのか? 筋道立てて、論理的にそれを説明する能力は自分にはない。では経験はある? わずかな経験だ。論じるまでもない。開陳するほどの経験ではない。しかしリズムに対する執着があることを示したい気持ちはある。

 「文体練習」と銘打って短い小説を書いている。いや練習だから、まだ本番じゃねえし、これ練習だから、という言い訳のためにそのような題をかぶせているふしもなくはない。そのシリーズを書くときはたいてい音楽を聴いている。なぜそうすることにしたのか? あるとき小説を書こうとした。その時ちょうど音楽を聴いていた。イヤフォンをはずすのも面倒くさくてそのまま書きはじめたら意外に面白く、リズムに乗って書き進めることができた。だから以後、文体練習シリーズを書くときはそのときたまたま聴いていた音楽、indigo jam unit というグループの作品を聴きながら作業している。ちなみにこの時の説明は次のように書き換えることもできる。すなわち、あるとき音楽を聴いていた。その時ちょうど小説を書こうとしていた。イヤフォンをはずすのも面倒くさくてそのまま書きはじめたら意外に面白く、以下同文。実際どちらが先であったか憶えていない。音楽を聴きながら小説を書くというのはその時が初めてだった。以前書いた「書類上」という小説は、まったく音楽を聴かない状態で全部を書いた。「文体練習」をひとつふたつ書いたあとに「書類上」の続きを書こうとして、試しに音楽を聴きながらやってみたのだが、まるでだめだった。書きたいものが書けなかった。言葉がうまく出てこなかった。この違いはなんだろう。「文体練習」については正直ほんとうに「いやこれ練習だから」という言い訳のもとで書いているところがあって、責任とか表現の的確さとか論理の運びとかいったことに関して自己批評の目をつむって書いているというのが偽りのない説明になる。まあつべこべ言わずにやっちゃえよ、というやつである。その場のアドリブで、その後の展開を気にすることなく、その時出てきた言葉の尻をつかまえて次につながる言葉を生む。しりとりをやっているのだ。その瞬間目のまえにある言葉からひろがるものをキャッチしてすぐ画面に並べてゆく。その場の思いつきである。それが面白くてやっている。しりとりを続けていけば終いには始まりの地点から遠く離れた場所に到着するのが面白い。全然想像もしていなかったところへ帰着する。書き出しの時点では物語の構成も決着の仕方もまったく考えていない。書き進めるうちに展開してゆく。飛んでゆく。そして思いがけないところで足が着く。そのとき後ろをふり返るのが楽しい。

 indigo jam unit に関する詳細はウェブで調べていただくとして、その音楽から自分の耳に届いたものを述べると、ベース、ピアノ、ドラム、パーカッションの音である。ジャンル分けに意味はないと思いつつも説明のために言うのであれば、それはジャズだ。この構成のジャズにしてはピアノの音が若干しぼられている。かわりにベースやドラム、パーカッションの音が少し前面に出てきている。アルバムによっていくらか違いはあれど、このグループがリズムやグルーヴを重視していることに間違いはないだろう。まちがっていたらすみません。これは便利な言葉づかいだから使っていこう。もしこの文章に誤りがあったらすみません。イヤフォンから聞こえてくる速いテンポのビートによって自分の気分は昂揚した。少しからだを揺らしさえした。ふらふら椅子の上で上半身を揺らしながら、足先ではリズムをとりながら文章を書いた。それは生まれて初めての経験だった。快楽だった。キーをたたく手指が追いつかないくらい次々に言葉が浮かびあがってきた。夢中になって書き続けた。そうしてできあがったのが「文体練習 リズム 海 メロディ」である。この小説は最初の一行が思い浮かんだときに書こうと思った。そして音楽を聴いている状態でその一行の続きを書こうとしたら次々に言葉が出てきた。普段はそのように次から次へ言葉が浮かぶことはない。懸命に考えないと出てこない。少なくともあの一編に関しては音楽が推進力となった。そう言って間違いない。文章と音楽。文学と音楽、ではない。自分が関心をもつのは前者である。やはり文章・文体・スタイルなどと呼ばれるものとリズム・音楽・グルーヴとかそういったものとの関係を考えたいのが自分という人間であろうと思う。これは考えてすぐに結論が出るものではない。だからキーをたたく手をこのあたりで止める。やめて何をするのか。音楽を聴こうと思う。indigo jam unit の「REBEL」というアルバムを聴くつもりだ。というかすでに聴いている。じつはこの文章を書いている途中から聴いていた。いったいどこから聴いていたのか? それが読者にわかるように書くことができるようになったとしたら、そのとき少しは音楽と文章の関係について何ごとかを書けるようになっているかもしれない。

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