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記憶に残っているピッチャーは誰か?

印象に残っている日本のピッチャーは誰だろうか?

ダルビッシュ有とか田中将大とかメジャーで活躍する日本人投手もいるし、僕は「松坂世代」だから、甲子園で大活躍した松坂大輔の名前を挙げたいところ。

ところなんだが、やっぱり僕は可能性を残したまま現役を終えていったピッチャーが気にかかる。

僕の中でそれは2人いる。

1人目はヤクルトスワローズの伊藤智仁投手。

1993年のルーキーイヤーに、14試合で7勝2敗防御率0.92という驚異的な数字を残した選手。

数字だけだとすごさがわかりにくいが、130回という1シーズンの投球回数には満たなかったが(伊藤は109回)、投球回数を上回る126奪三振という記録を打ち立てている点。

記録には残らなかったが、記憶には残る選手であった。

伊藤の高速スライダーは「絶対に打てない」と言われていて、バッタバッタと三振の山を築いていた姿は今でも印象に残っている。

登板過多で故障し、わずか約3ヶ月の悲運のエースと呼ばれているが、もし故障がなかったら球界を背負う大エースになっていたんじゃないかと思っている。

去年亡くなった野村克也さんも「あいつが(投手で)1番だった」と手記で残すくらいのエースピッチャーでした。

1993年6月9日

ルーキーとして巨人戦に初登板し、巨人のバッターを次々と三振で仕留め、当時のセ・リーグ記録である1試合16奪三振という大記録を打ち立てていた。

試合は9回裏にサヨナラホームランを打たれて負け投手になってしまうという、衝撃的な結末であった。

僕が野球というスポーツの残酷さを知った試合でもある。

もう1人は中日ドラゴンズの今中慎二投手。

140キロ後半のストレートと、そのストレートと全く同じ振りから繰り出されるスローカーブを武器に活躍したサウスポー。

90年代は山本昌と左の2枚看板と呼ばれていて、ドラゴンズを引っ張っていた。

全盛期は1993年~1996年と短いが、ストレートとスローカーブの2種類の武器だけで強気に攻め、三振の山を築く姿は今でも印象に残っている。

巨人キラーと呼ばれていたので、地上波で放送される巨人戦にはよく登板していて、巨人の打者を次から次へと三振に仕留める姿は観ていて本当に気持ちが良かった。

昨今の野球界では球数制限や1人の投手に負担をかけないよう、先発・セットアッパー・クローザーと役割が整備されている。

長い1シーズンを戦うために、なるべく1人の投手に負担をかけないためだ。

伊藤智仁や今中慎二が活躍した90年代は、1人の投手を9回まで完投させるのが通例であり、先発投手の負担はかなり大きかった。

もし投手リレーが整備されている現代なら、伊藤も今中も短命に終わらず長く現役で活躍できたかもしれない。

けど、ここまで記憶に残るピッチャーにもなっていなかったと思う。

「たられば」という可能性を残して現役を終えた2人の大エースに敬意を評し、このブログを書いた。

2020/04/19

飛田将行 とびたまさゆき

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