態度

 大切なこととそうでないことは手短に伝えるのが肝要という潮流が渦巻いており、私はこの七つの海をシルバードーン或いはゴーストシップよろしくのらりくらりと航行することで誰も彼もの興味と体力を掘削していきたい。

 真面目に生きている人の中で忙しくない人がいて、該当者は大抵悩みを抱えて生きているはずだと思う。これは退屈の功績で学問の扉で三途の瀬だと踏んでいるが、当該の私も度々ぐるんと思索が擡げる。どこまでも根拠の欠落した内観は正しく空虚であることが通例、果敢にも無謀にもその輪郭に食指を沿わせてみたい。

 小学一年生の頃は綿のようないじめと遭遇した。隣町の幼稚園から単独の刺客として極めてクールビューティーに桜のアーチを通過するも、その後の暴力的な洗礼に甲斐性無く屈服。瞼を腫らす日々も長くは持続せず私と担任といじめっ子の母と私の両親といじめっ子という一触即発六者面談の火蓋がすとんと落ちた。

 元より他人に迷惑をかけることが苦手だったと思う。友達にブランコの順番を譲って、他人の葬式で訳も知らず静かにしていて、お菓子を一つだけ欲しがって、よく褒められた。人に優しく接触することが楽しくて件の六者面談は鮮烈にストレスだった。怒髪天の両親も謝罪を繰り返す大人もバツの悪い先生も同級生も、とにかく嫌だった。長時間に及ぶ最悪の包囲網に呆気を取られつつ、絶望しつつ、それでもいじめの経緯を伝えつつ、幼稚な頭脳派を自認していた私は内省の殻に立籠ることで逃避を術策した。現状の地獄の空間は一先ず引き受けるものとして、再発防止を思案する。堂々を巡る。木々も斑な自分だけの頭の樹海をとろとろ歩行して漸く論を決する、「幸せそうに生きる」と。

 昨日や一昨日のように大切にされて生きることが長く続いている私は、その手の愛の施し一般に対して不滅に返済しなければならない様な感覚を保持している。一発殴られたら一発殴ってやれという両親揃っての教育方針の転用で、嬉しい相手には是非とも自分の手で嬉しくさせたいという心根が這っている。この債務の感覚に小休止を挟む、利息分だけでも返済するというささやかな安心が「幸せそうに生きる」という逃避のライフハックである。

 私の周辺環境は私に幸せになって欲しがっているとしばしば実感する。嫌な表現方法を用いるなら、なるべく害無く過ごしていて欲しがっていると。それは私には目も当てられないくらいの善意で先天性の慈愛で優しさの才能の一端で、それを私に向けていることは別の惑星では恥かもしれないという程の名誉。大切なものをもらった以上、これに応答返答できるのが私の目標とする人間像の一欠片である。幸せそうに生きることは周囲に安心を与え自身を幸福へ向かわせると信奉している。

 幸せそうに生きることは、幸せになることと同一視だ。擬態を続けることは器用さの観点からして不可能で、本当の動いている心はすごく透明で誰の目にもわかるような光をしていると思う。

 紛争が続く地域も安全な飲食が生活に伴わない地域も私には全く分からない。想像力の手が届かない場所にあって、私から何の言葉が飛びだしてもその場所には何にもならない。その上で幸せの全ては解釈だと睨んでいる。環境も実績も将来もあらゆる事象は事象であってそれをどう捕捉するかでしかないと思う。これは比較も競争も平等も公平も生産できないから考えない方が得策と思っていて、それでも狂信している。

 多彩な視点の獲得が主題だ。最低でも最近の約15年間はそれでやってきた。みんなでいたい時にひとりになること、人となりを貶されること、苦役を強いられること、それらは第一印象の不快感をエネルギーに活動することで解決できていたのかもしれない。実際には、行為に反対することは少なく解釈の幅を広げる契機とした。反駁するための翼は退化したが珍妙な杖のような脚がほっそりと生えている感覚がする。

 自分の解釈する力を向上させることで自分に向けられた全ての物事を大切な人への恩返しに変換したい。それに憧れを抱いている。流れる悪い空気を当意即妙のユーモアで一変させたい、沈殿した日常を切り取り方ひとつで鮮やかに色付けたい、それを達成するために何かに取り組むことが多々ある。

 周囲の反対を押し切って、という言説に息を巻く。解釈の幅を広げることに努める方針といえど自らの顔色だけを頼りに帆を張り舵を取ることは想像を遥かに絶している。周りの人を安心させたいという大陸の上でちょこまかと小旅行を繰り返す内は見られない名勝もあるのか、教えて欲しい。

 本気にすることも遊びにすることも紙一重で、結果が出てから気持ちの良い方を選択しようとする心があって、柔らかいから成長しない。

 周りの大切な人のことが大好きで、全身全霊で好きな人が大勢いる。その人たちに笑って喜んでもらうことが使命でそれ以外は関心が希薄だ。その人たちのことを私が不快にさせることがあれば最大の悪で、その芽を摘むことに注力する美学が根付いている。寧ろ自分が人を傷つけられる人間なんだと認めることが最も怖い。勇気がてんで無い。

 目に見えないところで横着をよく働く。幸せである様子を誰かに伝える機会を尽くもがれてしまったら何も考えられなくなる。誰の目にも触れない場所に置いていかれたら、やりたいことはひとつも無くなる。私の幸せは白日のもとに晒されて初めて形がわかって、触れたり温めたり遊んだりできるものだと思う。だから感性に全てを委ねて偏った成形を繰り返して多様性にぎゅっと目を瞑ると「人間の本質は伝えること」にあると信じている。

 鏡に映った人物について興味がある人は、セルフインタビューを敢行するという認識で概ね不正解でないと思う。もし説得力のある人間になるのなら影響力を駆使して何を残したいか、考えることさえ楽しい。「人間は伝える生き物」だと、言いたい。これは自らを肯定する理由で心からの祈りだ。何も伝えたくない人は世界に一人もいないと断言する。伝えることへのハードルが高かったり、伝えた後のリスクに怯えたりする人は星の数ほどいるにせよ、秘匿のまま生涯を閉じたい人などいないと真剣に眼差している。

 そしてこの祈りを逞しく肥えらせることができるのならば、勇気を振り絞って或いは軽やかに伝えてみてほしいと叫びたい。あらゆる感情も如何にも些末な出来事も駄文も夢も陰謀も昨日の話も全部伝えてほしい。伝えたことは伝わる間に形を変えて必ず誰かにとって面白いものになる。周りだけに理解されなくても表出される全てには価値が宿っている。言葉に詰まったら叫ぶのが良い、勿論声じゃなくても良い。

 生粋の解釈至上主義者で、伝えること全てに善悪はないと確信している。誹謗中傷と賛辞はその確度の高さから名前が付けられているだけで闇に放ればただ言葉がそこにある。放たれた言葉全てはまっさらで、受容のあり方にそうした言葉への価値付けが伴う。受容の作法をしなやかに学び続けることが楽しく生きることなのだと繰り返し唱える。押し付けがましいという自覚、押し付けたくなるほどの信仰心。

 現在地を伝えた。今までの全部を否定する出来事がやってくるのかもしれない。実際に起きていることが感情を内包していて、それに反応し続けることが全てだと断言する日が来るのかもしれない。或いは単身で確固たる価値観を身に纏い、行動を選択する人生になるのかもしれない。そうした変化を受け入れるだけの余力が私に残されているかどうか、自信が無い。そしてそんな瞬間を微塵も期待していない。それは歩んできた今の自分を思い切り肯定し続けたいからだ。首尾一貫も朝令暮改も該当しない半端者の脆弱な気持ちをあけすけに伝えてみたかった。

 みんなのことが大好きで、その為に自分を幸せにしたくて、それをもっと上手に伝えたくて、伝えることの大切さを信じている、という自己開示になった。


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