『ミセス・ノイズィ』 壁一枚の先にある人生を思う


 「ミセス・ノイズィ」。この作品は前から気になってはいたのだが、微妙に見る機会を逸していた。
 今日の都は緊急事態宣言の真っただ中ではあるのだが、ミニシアターはやっているしヒマだしいい天気だし、阻むものなど何も無かったので折角だからと見に行ってきた次第である。
 で、感想であるが、まあ何とも非常に面白かった。
 いや、「面白かった」というよりは「自分の趣味に合っていた」という方が正しいだろうか。

 この文はただの感想文であり、誰かの視聴を手助けするようなものでは無い。ネタバレも多分に含まれるため、それらを了承して下さる方のみお読みください。


人と人との嫌~な感じ 最悪なのが最高の映画

 この作品、途中までは本当に最悪であった。
 最悪、といっても悪口では無い。とにかく隣人トラブルや家庭内問題の描き方が鮮烈なので、気分が非常に悪くなるという意味だ。
 ・・・こう書いても悪口にしか見えないが、本当に悪口じゃないのである。巧な演出によって不快感を植え付けられるというのは、とても面白い体験であるし、そのようにして受け手側の感情を刺激できるのは、作り手側が素晴らしいことの証明であるのだから。
 ではどういった部分が最悪だったのか、適当に綴っていこう。
 まずは何といっても隣人トラブル。この作品のタイトルでもあるミセス・ノイズィこと騒音おばさんである。
 このおばさん、明らかに異常者なのである。物凄い剣幕で布団を早朝に叩き始め、そのとんでもない音量で作業を妨害させられることに始まり、娘を勝手に遊びに連れ出し夜中まで返さず、作家業を営んでいることを言うとせせら笑い、あげくの果てに文句を言うと怒鳴り返してくる。こっちは仕事で忙しく、構ってあげられていない娘のことを槍玉にあげ、母親失格なんて大声で叫ばれる始末だ。さらには人としての倫理観も欠如している。道祖神のお供えをちょっと拝んだことを免罪符とばかりにササっと拝借してしまうのだ。本当にどうかしている。
 そして後に大事件が起こる。ついにあの異常者たるおばさんがラジカセで大音量の音楽を流しながら布団を叩き始めたのだ。下手糞な歌を歌うのを止めろと文句を言った矢先、急にラジカセを取り出してこれである。真紀は止めるため布団を奪おうとするが、おばさんもこれに抵抗。掛け布団は落とされたものの敷き布団を安全圏で叩き始める。そしてそれに抗議をするため、おばさんの真似をし始める真紀。おかげで近所の住人全てに滑稽な姿を拝まれてしまう事態となった。
 そんなおばさんのせいで家庭環境にも亀裂が走る。仕事が進まないせいで娘に構ってあげられず、娘は拗ねて勝手に家を出るようになる。そのことを夫に相談するも、「しっかり見てあげないお前が悪い」と話にならない。ただでさえ育児に参加しようとせず、自由に仕事や呑みに行く立場でよくもまあ言えたものである。
 さらに仕事の話だ。どうにか上げた原稿を編集部に持っていくも、担当は大雑把な具体性の無い指摘で原稿を突き返してくる。しかも原稿全体を見直せとも言ってくる。事実上のボツである。しかも処女作である「種と果実」が賞を取り、大きく取り上げられたものだから事あるごとに比較されるのだ。これではモチベーションも沸いてこない。さらには親戚からも無駄なアドバイスを受ける。キャラに深みが無いだの薄っぺらいだのと、素人のクセによく口が回るものである。
 しかし、そこで真紀はその素人の親戚から天啓を受ける。今の実体験を基に小説を書けばいいと言われたのだ。そして真紀は帰宅してすぐにキーボードを叩き始める。タイトルは、そう、『ミセス・ノイズィ』だ。

 こんな感じで前半は終わる。ここまでは引っ越しから一カ月間の真紀からの視点で描かれている。
 おかしな隣人とのトラブル、家庭内の問題、上手くいかない仕事・・・日常の嫌な部分を煮詰めて出来たようなこの真紀視点は、非常に嫌な気持ちにさせられて最高であった。特に演技も最高であり、騒音おばさんたる大高さんの演技は勿論のこと、娘たる新津さんの演技も絶品であった。なんとも親の苦労を知らぬ娘らしい顔というか・・・!最初の早起きして仕事中の真紀に抱き着いて構って欲しそうにするシーンなんかは、両者の互いの思いがひしひしと伝わってきて胃がとても痛かった。筆者は劇場で終始にやにやしっぱなしで、「ほんとこれ最悪~~~~!!!!」なんて考えていたのものである。

壁を隔てた向こう側 変わる視点 変わる世界

 ここからは後半について書いていく。
 先程までは真紀視点の一ヶ月。では次は?そう、おばさん視点での一ヶ月ある。
 いきなり虫に纏わりつかれるおじさんのアップから始まり、やがてそれがおばさんの夫が見ている幻覚だとわかる。夫が布団に虫が這いまわっていると騒ぐと、それをいつものことのように晴れやかな笑顔で「じゃあ今から布団を叩いて虫を落としますね」なんていいながら布団をベランダにかけるおばさん。そう、あの布団叩きにはこういった背景があったのだ。
 そして布団を叩き始めるわけであるが、びっくりしたのはその音量だ。真紀視点の時には布団に恨みでもあるのかと言わんばかりの音量で布団叩きが為されていたが、おばさん視点ではまったくもって静かな物に。文字で表すならば「パン、パン」ぐらい。至って一般的な音量である。
 この時点で気付き始めるわけであるが、あくまでも先ほどの映像は『真紀視点で切り取られた世界』なわけである。おばさん視点になると、なんであのようなことをしたかの事情や、おばさんにとって真紀がどのような異常者に見えていたかが切実に描かれている。
 ある朝に布団を叩いていただけで、とんでもない剣幕で文句をつける隣人。弁解しようにも何も聞いてくれない。娘をほっぽって仕事に精を出す。これぐらいの子にはちゃんと接してあげなきゃいけないのに。それなら私が代わりに遊んであげようとするとこちらを犯罪者かのように糾弾する。
 おばさん視点の途中では、おばさん夫婦の子どもが亡くなっていたことも明かされる。おばさんは、子に愛を注ぎたくても注ぐ対象を既に失っていた。それが例え他人の娘であれ、そこに親の愛が注がれていないことに対し怒りを覚える理由はここにあったのだ。
 おばさん視点では、大きく演技自体も変えられている。真紀はより横柄な異常者に、おばさんは人懐こいより良き年配者に見えるような演技に変わっていた。これには非常に衝撃を受けた。人の持つ被害者意識、それによって歪められる認知。この二人では文字通り「見ている世界が違う」と、そう突きつけられているようだった。
 この辺からはもう脚本に演技に感心しきりっぱなしであり、終始口に手をあててひどく頭を働かせながら観ていた。

悪人とは誰か 悪とは何か

 ここからはもっと最悪である。
 先ほどの布団叩き大音量ラジカセ鳴らし事件の滑稽なワンシーンが切り取られ、若者たちの中で大ブームになってしまうのだ。しかもそのタイミングで「ミセス・ノイズィ」の連載が始まってしまい、瞬く間に大ブームに。おばさんは異常者として話題になってしまった。当然だ、真紀の主観で描かれた物語を、大勢が読んだのだから。つまりはこの映画の前半部分のみを観た人々しかあの作中には居ないわけである。
 しかし我々は違う。おばさん側の視点を既に観てしまったからだ。面白おかしく報道されるおばさん。無遠慮に写真を撮る群衆。おばさんの事情を理解してしまった我々にとっては、なんとも辛いシーンが続く。
 真紀はどことなく危うさを感じながらも、まんざらでは無いような態度で連載を続ける。さらには親戚のアドバイスもあり、さらにおばさんをヒートアップさせ、新たな動画を作り出していく。一応動画を録った親戚には忠告をするものの、全く真剣では無いような様子。さらに加速する「おばさんいじめ」の絵面。我々にとってはたまったものでは無い。
 そんな中、ついに大事件がおきる。度重なる盗撮や無遠慮な視線、そして自分のために布団を叩くおばさんが心無い言葉を掛けられる様を見て、おじさんは遂に自殺を決意しマンションから飛び降りてしまう。
 幸い一命は取り留めたのだが、ここで世論は一転。「おばさんいじめ」から「隣人を食い物にする作家を許すな」になるのである。
 我々は、ここをどう評するべきなのだろうか。果たして真紀の因果応報と捉えるべきなのか。
 筆者は微妙に違うと感じる。何故なら、真紀には実際、あのように見えていたからだ。おばさんにどのような事情があったにせよ、結果としてああ見える態度を取ってしまったことは事実であり、ヒートアップした結果があの滑稽なシーンであることは確かである。喧嘩は一人では成立しないのだ。
 ただ、幸か不幸か真紀にはペンがあった。拡散する力があったのだ。おばさんはそれを持たなかった。だから集団から一方的に殴られるような図式になってしまった。そして、あわや一人の人間が命を落とす寸前にまで至ってしまったのだ。なんとも不幸なことに思えてならない。全ては拡散した人間が、センセーショナルな一面のみを見て動いた結果である。
 では悪いのはマスコミや拡散した人間か、と言われればそうとも言えないだろう。だって彼らは面白そうなものに飛びついただけである。無知は恥かもしれないが、悪では無い筈である。
 それでもなんとかして悪い人間を探すというのであれば、筆者的には親戚のアイツだろうか。アイツが動画を晒さなければ、ただのご近所同士のトラブルで終わり、ミセス・ノイズィもそこまで騒がれることなく連載が終わったであろう。まあ今のご時勢、誰かが録ってうpしててもおかしくは無さそうだが・・・。
 ただ結局アイツもこうなることは予想していなかっただろうし、結果的には真紀の袋小路を脱するきっかけにもなったわけで・・・などと考えるとキリが無い。結局誰が悪いのだろうか。そもそも悪などあったのだろうか・・・。

道祖神にまつわる、視点切り替えの妙

 さて、そしてなんやかんやでハッピーエンドで終わるのだが、ここは特に深くは書かない。何故なら普通に良い話すぎて書くことが無いからである。
 ただ一つだけすごく好きなところがあるので、そこだけは触れておこうと思う。
 それは道祖神のシーンだ。
 マスコミに追われ疲弊しきった真紀と娘は、おばさんに庇われ何とか窮地を脱する。そこで娘の懇願から共におじさんのお見舞いに行くことになるのだが、その道すがら、おばさんは道祖神のお供えを回収するのだ。真紀はまたかと眉を顰めるのだが、次の瞬間には言葉を失う。おばさんは新しい、さっき回収したものと全く同じお供え物を取り出したのだ。
 そう、この道祖神にお供えをしていたのはおばさん自身であり、おばさんは自分がお供えをしていたものを痛む前に取り換えていたに過ぎないことがここで示される。そしてそれを真紀が目の当たりにし、自分の視点では見えていなかった世界を突き付けられる。今まで真実だと思っていたものが、全て自分の主観で形作られた物語でしかなかったことを自覚するのだ。
 このシーンを観た時、必死に映画館で唸るのを堪えていたことを覚えている。まあ道祖神の話はそうだろうなと思っていたので、意外でも何でもなかったのだが、特筆すべきはこのタイミングだ。おばさん視点でも道祖神にまつわる行動は決して明かさず、一つだけ残した伏線。それをここで回収することで見事に真紀の固着した視点を取り払って見せ、我々の視点と同調させる。素晴らしい脚本だと、いたく感心してしまった。

壁一枚向こうの世界

 人の見てる世界とは何か。隣人は同じ世界を見ているのか。そんなことを今更ながらに実感させられた作品であった。
 隣人、といってもマンションやアパートの隣の部屋だけに限らない。例えばそう、この文を読んでいるであろうあなたとわたしのような、インターネット越しの隣人についてもである。モニタという壁一枚向こうの世界のあなたには、一体どういう世界が見えているのであろうか。
 きっと真紀とおばさんは、もう少し話をしていればもっとマトモな結末に落ち着いたであろう。お互いに理由はあった。それも正当な、正しく世界に認められるだけの理由があったのだから。
 人にはそれぞれ違った世界が見えている。自分の正義は誰かにとっての正義とは限らない。だからこそ、きっともっと、話をするべきなのだろう。そしてそれは壁越しでもいい。例え誰に向けたわけでもない布団の音ですら、壁を越えて届くのだから。

嗚呼、素晴らしきストレス

 最初に書いた通り、この作品の大半は最悪な気分のまま進行し、ストレスをかけつづけられるような構成になっている。しかし、ラストは素晴らしく前向きであり、非常に鑑賞後の気分は晴れやかであった。
 そもストレスの掛け方も見事であり、日常の気持ちの悪さの演出や、キャストの方々の演技も相まって非常に最高に最悪の体験をさせて頂いた。そして恐らく、自分はこういったストレスをかけさせてくるタイプの作品が大好きなのだ。『来る。』とかも最高だったもの。勿論それには最高の脚本と最高の演技で形作られた「良質なストレス」であることが絶対条件であるが。
 改めていい映画であった。またこういう気持ち悪さを醸し出しつつも最後はきれいに〆てくれる、そんな作品に出合う事を心待ちにしたい。

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