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矢野監督が色紙を出したとき、どうして嫌な気持ちになったのだろう

あれだけ待ち遠しかった勝利だったのに、まさか勝ったときのほうが不安になるなんて思いもしなかった。

開幕戦からの連敗をやっと9で止めたと思ったら、そこから再び6連敗。いったい何が起きてしまったのか分からないくらい、2022年の阪神タイガースは負けまくっている。4月14日の試合が終わった時点での勝率は0割6分3厘。こんな数字は見たことがない。もちろんプロ野球の歴代ワースト記録だ。

苦しい日々が続いているけれども、4月15日の試合は痛快だった。新型コロナウイルス感染の陽性反応が出て開幕投手を回避した青柳晃洋が復帰。昨シーズンの最多勝投手はジャイアンツ打線を8回まで1失点に抑えた。打線も好投に応えるべく、5回には佐藤輝明の4号2ランで逆転。8回にも追加点をあげて4対1で勝利した。エースと主砲が揃い踏みの大活躍。久々に気持ちの良い夜、になるはずだった。

おもむろに取り出した色紙

「ちょっと時間大丈夫ですか?」

試合後の記者会見も終わりに差し掛かり、明日の試合への意気込みを聞かれたところで矢野監督が自ら言葉を発した。すると、矢野監督はカメラの映っていないところから何か色紙のようなものを取り出した。色紙の上部には大きく阪神タイガース、その下には何か縦書きで文字が書かれていた。

その色紙はなんでも、矢野監督の知り合いに書いてもらったものらしい。文字が書いてある札をいくつか用意して矢野監督が引いたところ、「波」という文字が出た。その札をもとに知り合いの人が色紙にメッセージを書いて、矢野監督にプレゼントしたそうだ。波も引いたり沈んだりするからみたいな、そんな内容だった。

せっかくの良い試合に水を差してしまう言い方かもしれないけれど、あんまり嬉しくなかった。むしろ、ちょっと嫌な気持ちになってしまった。

矢野監督は言葉を大事にする人だ。それは前からずっと変わらない。僕自身も、監督が発する言葉に何度も勇気をもらってきた。

けれども、この日は今までと明らかに違うものを感じた。この日最後に触れた色紙と「波」の話だけは、どうも矢野監督が自分の心の中から発した言葉に聞こえなかった。
この色紙を書いた人のことを、矢野さんは「友達の文字職人」と呼んでいた。

会見の最後、矢野監督はメッセージを書いてくれた文字職人に「ありがとうございます」とコメントした。

文字職人のしていること

試合に勝った翌日、文字職人のことを調べてみた。ホームページを運営していたのですぐに見つかった。

文字職人は自分探しの旅の中で職を転々としていたある日、「夢」と「ありがとう」を組み合わせたオリジナルの「めっせー字」なるものを夢の中で思いついたのがきっかけで創作の道に進んだ、と自身のホームページに書かれていた。書道は今日まで誰かに習ったことはないらしい。夢や希望を多くの人に届けるべく、活動しているそうだ。書籍も多数出版している。

文字職人は講演会やセミナーも多数開催していた。その名も「リミットブレイク研修」。ホームページには研修についてこう書かれている。

今日、企業の成長・永続的な発展に必要なのは「ありがとう」を集めること。
「ありがとうが集まっていない」から、儲からないのです。
その感性と、思考を持つ人間力の高い人材育成をすることがこの研修の最大の目的です。

リミットブレイク研修は主に経営者を対象としているらしく、これまで何度もセミナーを開いているらしい。
文字職人を名乗っている人がどうして文字ではなく声で伝えようとしているのか、どうして経営者を対象に研修やセミナーを開いているのか。僕にはよく分からなかった。

何かに救いを求めたくなるとき

人は弱い生き物だ。どんなことがあっても常に信念を貫き、前を向き続けられると胸を張って言える人はいないだろう。悲しく苦しい出来事が続き、どうしようもなくなってしまったときのために、人は自分以外の何かに救いを求めてきた。無論、この僕だって例外ではない。

新型コロナウイルスが日本でも猛威を振るい始めていた頃、僕は当時付き合っていた恋人に別れを切り出された。「恋愛が分からない」。彼女はそう言った。その一言だけだった。終わりはいつだって唐突だ。

当時の僕は社会人2年目。仕事はあんまり上達しない。一緒に入社した同期がメキメキと実力を伸ばしている姿を見ては、ひとり落ち込んでいた。新人の時とは見られ方も変わるのに、自分の力は対して変わっていない。その事実が重くのしかかっていた。

仕事もプライベートも上手くいかない。僕は救いを求めて本を買い漁った。何度も書店に通っては自己啓発やメンタルに関する本をひたすら手に取った。今の自分を助けてくれそうだと感じたら、迷わず読んだ。
本に頼るしかない、本がなんとかしてくれる、救ってくれる。あの時はそうとしか考えられなかった。

僕があの時感じた悩みや苦しみとは比較にならないものを、矢野監督は背負っている。チームや選手達、コーチらの責任をすべて背負いながら日々戦っている。その重みは半端なものではないだろう。ましてや人気球団の監督だ。いくら想像しても、想像しきれない。

当時の僕が買い漁った本たち

信じるものを選ぶ自由

例えばそう、矢野監督がやっていることは広い意味でゲン担ぎでもある。勝つためにゲンを担ぐ、これならほかの監督や選手、もちろんファンだってやっていることなのではないか。神社にお参りする、球場で勝負飯を買う、特定の選手のユニフォームを着ていくと現地勝率が良い、野球観戦に関するゲン担ぎは数多くある。自分が見ていないときに限ってチームが勝つ、これだって科学的根拠は全くない。人はゲンを担いで安心し、そこに理由を求めている。

文字職人が伝えようとするメッセージについて、僕はあまり分からなかったけれど、矢野監督はそこに何か強く惹かれるものを感じたのだろう。矢野監督が何を信じ、何に救いを求めるかは自由だ。それをとやかく言う権利は誰にもないし、もちろん僕だって意見するつもりはない。僕だって阪神タイガースという球団を応援し、日々の勝利を信じている。勝てば嬉しい気持ちになり、熱いプレーに活力をもらっている。心の支えにしている。これだって見方によれば宗教のようなものだ。

どうして嫌な気持ちになったのだろう

どうして矢野監督の記者会見を見てなんだか嫌な気持ちになったのだろう。そこには大きく分けて2つの理由があることに気づいた。

1つ目は、なんだか矢野監督が利用されている気がしたからだ。

文字職人なる人がどのような経緯で矢野監督と友達関係になったか、僕は想像することしかできない。だからここから先は全て僕の想像だ。もし純粋な友達関係ではなく、自分の行っていることを広めるために矢野監督と接触していたとしたら……。
文字職人は経営者を対象としたセミナーや研修も行っている。だとすれば、自分の信じていることがあの矢野監督にも受け入れられたという事実はこれ以上ないセールスポイントになるに違いない。「あの矢野さんも私の文字に力を感じてくれたんです」と言うだろう。タイガースは人気球団だ。もちろんファンも多い。その影響力は計り知れないだろう。改めて述べるがこれは全て僕の想像であり、根拠はない。

でもこれだけは言っておきたい。
矢野監督やタイガースはあんたのビジネスのために戦っている訳じゃないんだよ。

2つ目は、やっとの思いでチームが勝てたのにそれが文字職人のおかげな風に感じられたからだ。

あの日の記者会見をもう1度見返してみる。矢野監督は会見を通してずっと文字職人の色紙について述べているわけじゃない。記者からの質問に答える中で、ちゃんと活躍した青柳や佐藤輝のことについてコメントしている。
けれども、どうしても、あの文字職人が力を貸してくれたから今日は勝てた、僕は矢野監督がそんな風に思っているように感じてしまったのだ。それは話しているときの声色や表情から無意識に読みとったのか、正直なかなか言語化できない。

確かに、この日の矢野監督に安心をもたらしたのはあの色紙だったのかもしれない。けれど、勝利をもたらしたのは選手たちなのでは?
復帰した青柳が最高のピッチングをしたから勝てたんじゃないのか。佐藤輝が菅野智之から逆転ホームランを打ったから、M.ロハスJrが追撃のホームランを打ったおかげじゃないのか。最終回を岩崎優が抑えてくれたおかげじゃないのか。その選手たちが最高のパフォーマンスを発揮できるように支えてくれたスタッフのおかげじゃないのか。

僕らファンは記者会見で話されたことから真意を読みとることしかできない。だから、その会見の場でそういった話を真剣にしてくれないと、不安になってしまうんだよ。
本心じゃなくてもいいから、「選手のおかげで勝てた」って言ってほしかったよ。

阪神タイガースに望むこと

矢野監督に笑顔をもたらし、一丸となって勝利に導いてくれるのは日々努力を重ねてきた選手たちだ。僕は信じている。
二軍監督就任1年目でファーム日本一を達成し、胴上げをしてくれたのも選手たちだ。去年、あと少しのところまでスワローズを追いつめたのも、監督が時間をかけて作り上げてきたチームの選手たちだ。
そして今年、退任を発表しているあなたを優勝させたいと団結し、もがき苦しみながらも前に進んでいるのは、グラウンドに立つ選手たちだ。

最後の1年、一緒のユニフォームを着て戦っていない人に、これまであなたが作り上げてきたチームの運命を託して、本当にいいのだろうか?
後悔したくない気持ちはあなたと一緒です。僕もこの1年に悔いを残したくないよ。

繰り返しになるが、矢野監督が何を信じ、何に救いを求めるかは自由だ。そこを非難する気持ちは全くない。

けれども、けれども、阪神タイガースがプロスポーツのチームであるならば、どんな困難に直面しても、選手が積み重ねてきた技術と体力が解決に導いてくれることを試合で示してほしい。そして、最高の技術と体力に裏付けられた最高のプレーで応援してくれるファンたちを元気づけてくれるチームであってほしい。僕はそう願っている。

それが、僕が今まで信じてきた阪神タイガースの姿だと思っているから。

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