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『ウルトラマンネクサス』における「闇」の構造

 2004年から2005年にかけて制作放映された『ウルトラマンネクサス』は、それまでのウルトラシリーズの約束事というか暗黙の了解のようなものをいったん崩して多くの新設定を導入した異色作として知られる。そのためか、視聴率的には大苦戦を強いられたが、その物語が完結した現時点から振り返ってみると、単に奇を衒った斬新さを狙ったものではなく、それらの新設定は必然をもって練られ、周到に配置されていたのがわかる。そう考えると『ネクサス』はまぎれもない傑作であり、ファンの間でもっと語られていい作品だと、個人的には思う。
 『ネクサス』における敵は異生獣・スペースビースト(略して「ビースト」)と総称される、怪獣とはまた違った恐怖をかきたてる存在として描かれていた。彼等はかつてM80さそり座球状星団を荒らし回った後、その星の住人である「来訪者」によって星そのものが爆破されたことで宇宙空間に飛び散り、X(カイ)ニュートリノと呼ばれるビーストを生み出す元となる物質(ビースト因子)として地球に降り注いだ。通常は目に見えない物質であるビースト因子が、地球上の動物と融合することでビーストは誕生する。そういう意味で、スペースビーストは同種を持たない単体の異形の生命体である。このやや煩雑な設定を見ただけでも、ビーストがそれまでのウルトラシリーズの怪獣たちとは異なる特性を持っていることがわかるだろう。それは『ウルトラマンA』の超獣や『ウルトラマンダイナ』のスフィア合成獣、『ウルトラマンガイア』の根源的破滅招来体によって地球に送りこまれる宇宙怪獣たちを思い出させるが、それらのかつての敵たちとはまた違った特徴を、ビーストたちは持っている。それは、かつての超獣や宇宙人によって操られる生物兵器としての怪獣たちが単純な破壊活動を目的にしていたのに対し、ビーストたちは人間の恐怖心を餌にして増殖するということだ。ビーストは高度な知的生命に生じる恐怖を餌にしているから、人間たちの間にビーストに対する恐怖が広がれば広がるほど、よりビーストが出現しやすくなるという、ある意味始末の悪い特性を持っている。そのために地球防衛組織であるTLT(ティルト)は、ビースト事件に遭遇した人間たちの記憶を奪い、自らの活動もビーストの存在も社会から隠蔽して極秘裏に活動していた。そうすることで、恐怖の拡散を防ごうとしていた。また、これは来訪者との関係で持たされてしまった特性だが、ビーストは森林や山間部などの人影まばらな地域によく出没する。これは地球に飛来した来訪者たちが、ビーストの増殖を防ぐために身を挺してポテンシャルバリヤーを張っていたために街中には出現出来ないからであるが、これらの特性を合わせて考えることで、『ウルトラマンネクサス』における敵の存在、その「闇」の構造を探ることが出来るだろう。
 これまでのウルトラシリーズにおいては、怪獣や宇宙人の存在は周知の事実であり、誰もがその存在を認識しているという世界観だった。ところが、『ネクサス』の場合はそうではない。人々は現実世界に住む我々と同じように、超越的なものの存在を感じていない。ビーストも、またウルトラマンも、人々の住む日常生活の裏で、人知れず戦っているのだ。だから大多数の人々はそれに気づくことなく、平穏な日常を過ごしているだけだ。従来のウルトラシリーズでは、怪獣は突如街中に出現することが、少なからずあった。怪獣を人間文明の裏にある存在だとすれば、怪獣が出現するのは人間たちの世界に迷いこんでしまったのであり、だからこそ、怪獣たちは人間社会のルールに則って退治されなければならないものでもあった。いっぽう、シリーズ第1作の『ウルトラQ』では、逆に人間が怪獣たちの住む世界、アンバランスゾーンに迷いこんでしまった世界観であるが、『ネクサス』の世界観はこれに少しばかり似たところがある。『ウルトラマン』(初代)以降の世界観では、怪獣は人間社会に出現する。『ウルトラマンA』の超獣のように、突如異次元から送りこまれたり、『ウルトラマンガイア』の宇宙怪獣のように、ワームホールを通じて送りこまれたりといった例は、その中でももっともわかりやすいものだが、宇宙人が操る怪獣にしても、眠りを覚まして地底から現れる怪獣にしても、構造的には同じものを持っている。まず最初に人間たちの住む確固とした世界があることが前提で、その世界のルールを突き崩すような格好で怪獣たちは現れていた。ところが、『ネクサス』ではビーストたちが主に森林や山間部などの人影まばらな場所、つまりは人間がつくり出した社会の周縁部のような場所に出現する。このことの意味は大きい。社会の周縁部とは、言ってみれば社会が外に向かって広がっていく中で社会と社会ならざるものとの間にある場所ということで、社会の構造やルールが次第に密度が薄くなってフェードアウトしていくような場所だ。そこはまだ社会の内側であるとも言えるし、もう社会の内側ではないとも言える曖昧で両義的な場所であり、時間にたとえるなら、昼間と夜の間の夕方、黄昏時のような場所である。そこに異形のビーストが出現するということは、そこはもう日常空間ではない。だが、それにも関わらず、社会の内側(都市部)では周縁でそんなことが起こっていることを誰ひとり知ることなく、普通の退屈な日常生活が営まれている。この社会の内側と社会の周縁部での出来事の違いの落差はあまりにも大きい。従来のシリーズでは突然街中に怪獣が出現することが度々あったために、そのような落差は生じようがなかった。『ネクサス』では、都市部の住人の誰もが知ることもなく静かにドラマが進行しているために、物語の中と外で大きな差異が生じてしまっているのだ。
 ここで思い出されるのは、昔から言い伝えられてきた伝説や昔話だ。日本の昔話や言い伝えで、山中を歩いている旅人が狐や妖怪(または幽霊でもいい)にだまされるというのがあるが、何故彼等異形の者は社会の中心部に現れず、もっぱら夜の山中というような社会の周縁部に現れるのか。それは彼等が人間社会の枠内にある者ではなく、人間社会とは異質の法則が支配する「異界」からやって来た者であるからに他ならない。だからこそ、人間社会のルールが強固になっている社会の中心部には出られない。そこでは自らの持つ力を存分に発揮することが出来ない。だから、人間社会に影響力を及ぼすためには、社会と社会ならざるものとの間にかけられた橋のような、両義的な場所に出現する必要があるのだ。『ネクサス』のビーストたちも、同じような特徴を背負っている。彼等の餌が人間の恐怖心であるならば、手っ取り早く都市部に出現すれば良さそうなものだが、森林や山間部といった両義的な場所に出現することで、かえって彼等の持つ異形性が強調される結果となった。それはビーストの持つそれまでの怪獣とは違う恐ろしさを引き立たせるには、実に好都合であったのだ。狐や妖怪などというと、ビーストの存在が矮小化されるようで不満に思う向きもあろうが、スペースビーストとはそれだけ古来よりの怪異の伝統に沿った存在であり、それゆえにビーストの現われ方は(妙な言い方に聞こえるかもしれないが)正しい現われ方なのだということが出来る(余談だが、このように考えると、TLTの作戦参謀であるイラストレーターこと吉良沢優が17歳の中性的な少年として描かれたのも合点が行く。予知能力者であるゆえに来訪者とコンタクトが取れる吉良沢は『ネクサス』世界の巫女であり、そうであるからには、その役回りを40~50歳代の頑健な体格の男性に任せるわけにはいかず、17歳の中性的な少年でなければならなかったのだ)。
 ここまでを整理すると、スペースビーストは異界の存在にふさわしく、現実世界と異世界が袂を接する場所に現れていたということになるが、それは先述したように『ウルトラQ』のアンバランスゾーンと似通ったところを持っている。アンバランスゾーンとは、現実世界のバランスが崩れた場所の謂いであり、それはすなわち現実世界と異世界という二つの異なる世界が接する場所ということでもあった。つまり、『ネクサス』のビーストたちは(おそらく意図したものではないだろうが)思わぬところで原点回帰を果たしているのである。
 平成のウルトラシリーズにおいては、その第1作である『ウルトラマンティガ』以降、光と闇という対立の図式が繰り返し語られてきた。光がウルトラマンであり、闇が怪獣たちである。『ネクサス』ではその対立図式を推し進めて、ある種の構造化を果たしている。そして、ここにおいて光と闇の図式が極限まで描きつくされたのだと言ってもいいかもしれない。光の側であるウルトラマンはこれまででもっとも抽象化および観念化を果たし、そのことによって神秘性にいっそうの拍車がかかっている(デュナミスト=ウルトラマンに変身することの出来る人間、適能者が遺跡の夢を見るというのが象徴的だ)。闇の側であるビーストは、これまで述べた通り、人間社会の周縁に存在することでその怪異性を思う存分発揮している。そして、ここにもうひとつの闇の存在でありウルトラマンと表裏一体となる闇の巨人たちがいる。彼等もウルトラマンと同じように人間体から変身する存在であり(そのために、闇の巨人に変身する人間たちを「暗黒適能者」とも呼ぶ)、ということは、光か闇かという人間が取りうる両極が同時に存在しているということで、ウルトラマンに変身する適能者と闇の巨人に変身する暗黒適能者は善悪どちらにも転びうる人間存在の不安定さを象徴的に表しているのだとも言えるかもしれない。
 そして、これらの闇の存在とウルトラマンが戦う人間社会の周縁部とは、先述したように、秩序と秩序ならざるものとの両義性を併せ持った場所であり、その攻防は人間社会に光が満ちるか、それとも闇に覆われてしまうかの攻防であり、人間社会の入口のようなその場所で、そこに侵入を果たそうとする闇と侵入させまいとする光と間のつばぜり合いが展開されてきたのが『ウルトラマンネクサス』のドラマだったのだと言える。人間社会内部にいる普通の人々が知りえないところで行われてきたその攻防は、闇の側から見れば領地争いであり、光の側から見れば闇の拡大を防ぐためのものであった。つまり、闇から見れば進出または侵略であり、光から見るそれは防衛である。すきあらば自らの勢力を拡大しようとする闇に対して、普段はおとなしく眠っていながら、闇の出現と進出という非常事態において一時的に姿を現して戦っているのが光なのだ。よくよく考えてみればこれはいままでのウルトラシリーズにもあった図式であり、ウルトラマンは決して侵略などせず守ることのみに徹していた。その図式が人間社会の周縁という場を戦いの地にすることで、よりいっそう象徴化されたのが『ネクサス』の戦いであったのだ。
 やがて、来訪者たちのポテンシャルバリヤーが弱まることで都市部にもビーストが侵入することになり、闇の力は勢いを得たかのように見えた。だが、デュナミストの光の絆が受け継がれることにより、かつての来訪者のふるさとの星と同じ滅亡という運命を回避することが出来た。ここにおいてようやくビーストとウルトラマン、そして防衛機関としてのTLTの存在は公表され、人間は恐怖に正面から向き合う道を選んだのだ。それは人が幼年から大人へと成長する過程にも似ている。人は幼年期においては、世にはびこる危険なものや汚いものから遠ざけられている。周囲の大人たちによって周到に守られ、危険のない方へ、安全な方へと、知らぬ間に導かれている。しかし、少年期から大人へと成長する中で否が応にもそれらの危険や汚いものに向き合わざるをえない。つまり、思いきり噛み砕いて言ってしまえば、『ウルトラマンネクサス』とは、人類全体のそうした「幼年期の終り」を描いたドラマであったのだ。恐怖は確かに存在する。だが、それを乗り越えていかなければ、人は次の段階に進むことが出来ない。『ネクサス』における闇の存在たちは人間のそうした心の成長を図らずも手助けしてしまったのであり、それまでの怪獣たちとは異なる不気味なその存在感とともに、私たち視聴者の心の中に確かな爪痕を残していったのだ。

(2010年1月)

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