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学びのドーナッツ理論について

私は教師として働く前、教育とは「発達を促すすべての営み」であると学び、この「発達」を「社会文化に貢献できる潜在的能力」と解釈するヴィゴツキーの学習理論を学びました。個人が教育されれば社会がよくなり、社会が良くなれば個人が良くなり、個人がよくなれば社会が良くなるというスパイラル構造を実現するために教育があるという考え方です。

また、ヴィゴツキーの社会構成主義理論が広がっていく流れのなかで、佐伯先生が提唱する「学びのドーナッツ理論」やレディの「二人称的アプローチ」論を学び、教育実践の理論的背景としてきました。

今回は「学び」や「発達」における、「教師」や「教材」の在り方について、「学びのドーナッツ理論」から考えていきたいと思います。

□ 学びのドーナツ論

学びのドーナツ論とは、学び手(I)が社会(THEY 世界)との認識を広げ、深めていくときに、必然的に二人称的世界(YOU 世界)との関わりを経由するとしたものです。

学びのドーナツ論

ここで言う、二人称的世界(YOU 世界)とは、互いが共感しあい、相互に理解・感謝・賞味し合う関係を底流にして、個別的に「私」と「あなた」との二人称的関係をもつ共同体のことです。この関係は単一ではなく、さまざまな他者と二人称的に対話を行い、未知性を相互に受け入れて、協働的に活動する共同体です。人はそういう共同体の中で、他者の身に(一人称的に)「なって」考えてみたり、他のものに「なって」みたりしながら、自分というものを反省し、吟味し、「なってよかった、自分」を模索していきます。

また、THEY 世界とは、「共感」よりは「批判」や「論理性」が優先し、さまざまな文化的実践に関係付けられている世界です。また、別の共同体とふれ合い、交流する場でもあります。通常は、YOU世界の他者の背後に垣間見れる世界ですが、YOU的道具を媒介にして、交流する場合もあります。ここでいうYOU的道具とは、ことばや記号のような非物理的なものから、文字どおりの道具(器具、装置)、ICTなども含まれます。

例えば、道具とはじめて出会うときは、「見知らぬ他者」のように、どう対処していいかわからないため、それ自体を学ぶ必要があります。この段階では、外界(THEY)的な道具ではありますが、どんな構造を持っているか、どういう手続きや手順で使うのか、どんな制約があるのか・・・など学びが進んでいくと、それを完全に使いこなせるようになった段階では、身体の一部となり、YOU的道具へと変わっていきます。

学校の学びの場で言うならば、「教材」「ICT機器」などが、このような道具に当たります。最初に提示されたときは、まさに「教材」や「ICT機器」を学ぶわけで、THEY的(外界的)道具でありますが、ある程度学んだ後には、今度はそれを使って、対象世界(THEY 世界)を探求するYOU的道具へと変わっていきます。つまり『教材』『ICT』で学ぶわけです。

このように、人の学びを広げてくれるのは、YOU的他者(二人称的他者)とYOU的道具(二人称的道具)との親密な交流であり、それにより私たちは自我が拡大し、変化し、より深く社会・文化に入り込んでいくことができます。

では、YOU的他者やYOU的道具は、学び手(I)と社会(THEY)に対してどのような接面を持つべきなのでしょうか。

□ 教師の接面構造

ドーナツ理論では、教師から接している接面は、学び手(I)と社会(THEY)であり、適切に2つの接面を持っていることが要求されます。

教師の第一接面(教師-学び手)では、子ども一人ひとりに対して「あなたと、私」の二人称的関係をもち、子どもに愛され、ふとしたときに秘密を打ち明けてくれる関係を持っていることが要求されます。

教師の第二接面では、教師自身が常に学び続けており、現実の文化的実践に深く関与していて、それらの価値・意義・大切さを子供たちに垣間見せる力量を身につけているかが要求されます。

たとえば、学び手(I)と教師(YOU)との関係で、教師の方から第一接面ばかりを重視すると、学び手と教師との親密さや仲間意識の高揚ばかりに気をとられて、「社会(THEY)へ向かう目」が育たなくなってしまいます。その結果、教室内だけで通用することばやルールが出来上がり、一見「仲のよい」「生き生きした」教室にはなりますが、実は心の深いところで閉鎖的で排他的な集団が出来上がってしまいます。

他方、教師が第二接面を重視し、あまりにも「外の世界」をそのまま持ち込もうとすると、子どもは自分とは関係のないこととして捉え、ただただ「傍観」するか、もしくは「覚える」ことしかできない、と考えてしまいます。子ども独自のこだわりや素朴な実感、間違ってもいいという安心感など、暖かく受け入れられる「YOU世界」がない限り、子どもの学びはおいてきぼりになってしまいます。つまり、「正しさ」や「効率」がすべてに優先し、ムダや遊びが排除され、素朴に楽しみ、喜び合うこと、未熟さの中に潜む原初的なエネルギーの発現などが失われてしまいます。

□ 教材の接面構造

教材が接している接面も、学び手(I)と社会(THEY)であり、適切に2つの接面を持っていることが要求されます。

教材の第一接面とは、教材そのものが学習者にとってわかりやすく、親しみやすい、ということであり、「身近なもの」として捉えることができる側面です。自分の身の回りのことに結びつけて理解できる側面でもあり、一人ひとりの子どもが自分なりの納得ができ、自分なりに「こだわる」ことのできる側面です。そのとき、教材は「私のもの」になります。

教材の第二接面とは、教材が切り開いてくれるものが、現実社会の文化と関わりをもってくる側面です。教材が質の高い真正の文化を十分に凝縮させた、汲めども尽きない豊かさを持ったものになっているか、現実世界の文化的実践への橋渡しになっているか、が要求されます。

□ おわりに

私が教師として働く前は、「子どもは大人(教師、親など)の働きかけで変わる、変えられる」対象としてみなしてきました。すなわち、第一接面をあまり意識することなく、「どうかかかわれば、どうなるのか?」ばかりを考えてきました。しかし、「ドーナッツ理論」を学び、教師が「社会」という接面を意識しながらも、「子どもが、こちらをどのように見て、どのように『働きかけて』いるかを『感じ取る』」、そして「子どもの働きかけ、訴え、ニーズ、願いに『応じること』」が教育実践であるという考えに、その当時、深く感銘したのを覚えています。


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