『鳥川魚美は小説家になれるのか?』第一話「その少女、鳥川魚美」《後編》


 二、三の言葉を交わし、あっけなく話はまとまった。
 乗り気とも不本意とも窺い知ることのできないテンションで、鳥川魚美が「じゃあ見学だけ」と了承したのだ。
 さっそく僕らは、第二校舎一階にある文芸部の部室へと向かった。
 二階の渡り廊下を抜けたとき、
「あの」
 うしろから、かぼそい声。
 僕が立ち止まって振り返ると、鳥川魚美が申し訳なさそうに佇んでいた。パーカーのフードは外れている。
「どうかした?」
 入学して一ヶ月強。僕は隣の席の美少女と、初めて真っ直ぐ向かい合う。長い前髪、黒ぶち眼鏡。その奥の、揺れる瞳。わずかに頬は染まって見えた。いじらしい表情にときめきかけるも、過日の爆弾発言の例があるため、彼女の場合は油断できない。
 知ってはいたが、鳥川嬢の目の高さは僕のみぞおち辺りにあった。百八十センチ近い僕と比べての話なので、彼女の身長は女子の平均値より少し上といったところだろう。黒木田と同じくらいか。
「すみません。……お名前、なんでしたっけ」
「……僕の?」
「はい。すみません」
「……佐藤だよ。佐藤潮」
 ざっくり傷つきながらも、改めて名乗る。すると、
「サトウ」
 僕は思わず声が出そうになるほど驚いた。いきなり呼び捨て?
 しかし、どうやら彼女はただ呟いてみただけという様子だった。
「サトウ、サトウ。サトウウシオ」
 鳥川嬢は宙をぼんやり見上げながら、こちらの名前を復唱する。
「あー、そっか。なるほど」
「なるほど?」
「あ、いえ。文芸部に興味があるって言ってた人ですよね。……ホントに入部してたんだ」
 彼女がなんのことを言っているのか、僕は数秒経って気づいた。
「それって、まさか初日の自己紹介?」
「はい。趣味は読書でしたっけ。いままで顔と名前が一致しませんでしたけど」
「……僕は一応、鳥川さんの隣の席なんだけどね」
 逆に、一ヶ月余り前の、なんの変哲もない自己紹介を覚えていたことが凄い。
「す、すみません」
 彼女は三度、謝罪を繰り返した。
「あの日、緊張して。……それからも授業中以外、ずっと下を向いてたから。誰が誰とか、よくわからないんです」
「……まあ、僕も似たようなもんだよ」
 しょげる彼女があまりに憐れで、ついフォローを入れてしまった。
「そう……ですか?」
 こちらが頷いてみせると、彼女は消え入りそうな声で、「ありがとうございます」と返した。
 礼を言われるようなことではなかった。実際、ほとんど黒木田以外と絡みのない僕も、クラスメートの大半の顔と名前が一致していない。ましてや誰がどんな挨拶をしていたかなんて、ろくに覚えているはずもなく。それこそ目の前の彼女のように、よっぽど強烈な内容でもない限り。
「それと。文芸部に誘ってくれたことも。ありがとう」
「……いや、それは」
 僕の本意ではない。その事実をどう伝えても、彼女を傷つけてしまう気がした。
「わかってます。小八木先生に言われたんですよね」
「あー……うん」
 どうやら、お見通しだったようだ。素直に認めるしかなかった。
「少し前、私も先生に勧められたんです。自分が顧問をしてるから、よかったらって。でも、どうしようか迷ってて。……だから。部員の人に声をかけてもらえて、嬉しかったです」
「……そっか」
 小八木先生から事前に話は行っていたのか。道理で、すんなり誘いを受け入れたわけだ。
「漢字で、どう書くんですか? お名前」
 そう訊かれたので教えると、わざわざ彼女は「佐藤義亮ぎりょうの佐藤に」と新◯社を創設した偉人の名を挙げた上、「新潮◯庫の潮でウシオって読むんですね」などと例えてきた。暗に新◯社びいきだと指摘されたようで、なぜだか非常に居心地が悪い。口から出かかった「せっかくならnexまで付けなよ」という言葉を呑み込み、ひとまず僕は曖昧な相槌で誤魔化した。
 そこで話題が途絶え、会話も途切れる。やや気まずい沈黙。少し経って、再び僕らは歩きだした。
 ここまでで気づいたことがひとつ。
 鳥川魚美は話してみれば、割と普通の女の子だった。
 口数は少なく、引っ込み思案。
 警戒心は強めで、そのせいか少々挙動不審。
 だけど、それだけだ。
 滅多に人と言葉を交わさない子だから、つっかえながらオドオド話すタイプだと思っていた。実際そうだったけれど、気に障るほどではない。多少どもることはあっても、鈴を振るように澄んだ彼女の声が不規則に揺れて響いて、むしろ小気味がいい。
 しいて目立った特徴を挙げるなら、とびきりの美少女ってことくらい。それ以外は、さして珍しくもない当たり前の女の子だった。
 ゆえに生じる、奇妙な違和感。
 例の自己紹介のときに発揮された、粋がった嫌らしさというか。思想や主張の激しさ、エゴイズムが、いまの彼女からは見受けられなかった。
 齟齬がある。家庭科の実習で、初めてバニラエッセンスを舐めたときに近い感覚。匂いと味が一致しない。素直に飲み込めない。そういう、脳が受け入れを拒否するレベルのわだかまりを感じる。
 天狗の鼻が折れた、なれの果て。そう判断していいのだろうか。
 もっと踏み込んで、「あの自己紹介なんだったの?」とか、「いまも小説書いてるの?」なんて話を振れば、このモヤついた感情を晴らすことができるかな。
 いやダメだ。たしかに、それらはクラスの誰もが鳥川魚美にぶつけたい疑問だろうけど。小説に関連した質問は、僕には鬼門となりかねない。
 そう思いつつ、彼女を自ら文芸部に招こうとしている矛盾。この現状は、僕が真には鳥川魚美を嫌っていないことを意味していた。
 見た目にほだされて、というわけではない。否、だけではない。
 小説が好き。自分で物語を綴るほどに。
 もし、ただシンプルに、それだけの子だったら。
 仲良くなれるかもしれない。ウマが合うかもしれない。あわよくば、もっと親密に。
 どうやら僕はそんな都合のいい、淡く甘い期待を抱いてしまっているらしい。仕方がないのだ。思春期なのだ。だって相手は、めちゃくちゃかわいいし。
 しかし初見の印象通り、やはり彼女が自己顕示欲のかたまりだったら。
 これまで何人も見てきた、ちやほやされたいだけの“自称”作家やその卵たち。あの手の連中と同類だったら。
 そのときこそ、僕は本気で鳥川魚美を拒絶するのだろう。
 かつて本気で小説家をめざしていた者の端くれとして。自分でも御しきれないほどの、激しい嫌悪と侮蔑をもって。
 などと思い耽っていた折、
「ごめんなさい」
 ふいに、また彼女が詫びた。
 僕は一瞬ギクリとなって立ち止まり、そっと振り返った。
「なにが?」
「佐藤くんのこと、誤解してました」
「……誤解?」
「この一ヶ月、話しかけてはこないのに、しょっちゅう横目でチラチラ見てくる気持ち悪い男子だなって」
「……べべべ、別に見てないけど?」
「そう?」
「そうだよ。気のせいだよ」
「……そう、ですか」
 降って湧いた窮地をなんとか強引に乗り切った。危なかった。こわかった。気をつけよう。女子は男子の視線に敏感って話、本当なんだな。
 かわいい女子に面と向かって気持ち悪いと言われた心の傷を抱えつつ、僕は彼女と第二校舎の階段を降り、一階廊下の奥にある部室の前まで到着した。
「ここ、教室じゃないんですか?」
 小首を傾げる鳥川さん。もっと、こじんまりとした部屋を想像していたらしい。
「うん。過疎化とか少子化とかで生徒数が減って、余ってたんだって。おかげで空き教室をひとつ丸々使えてるんだ」
「へえ。いいですね」
 無難な感想に、僕は軽く相槌を打つ。
 実際ありがたい。生徒数の減少は経営的には痛手なのだろうが、ただ学校に通うだけの僕らには害のない話だ。ならば気兼ねなく、利用できるものは利用すべきだろう。
「ドアに嵌め込まれてるのが曇りガラスなのは、部活動に集中できるようにって配慮らしい。隣は茶道部なんだけど、そこも同じでしょ」
「ええ、たしかに」
 ちなみに文芸部部室の出入り口は、茶道部と隣接している側のドアだけだ。反対側のドアは施錠した上、内側を本棚で塞いでいた。
「あの、いまさらですけど。部員って、何人くらいいるんですか? 同じクラスの人とかは?」
 いよいよ僕がドアを開けようとしたところで、鳥川さんは質問を重ねた。大人数の前でやらかしを経験している彼女だから、不安がるのも無理はない。あまりに大所帯だと、下手したら怖気づいてしまうかも。
 しかし、その辺は問題なかった。
「ふたり」
「え?」
「僕と二年生の部長、ふたりきり。あとは幽霊部員が何人か。だから、しゃちほこばることないよ」
 そう告げてから、僕は部室のドアを開けた。
 そして一歩も中へ踏み入ることなく、即座に閉めた。
「えっ、どうしたんですか」
 僕のうしろに立っている鳥川さんには、中の様子が見えなかったらしい。
「あー……えっと」
 答えに窮した僕は、まず網膜に焼きついたものを追っ払うべく、目をつぶって頭を振った。
 その最中、
「し、失礼しまぁす」
 声に反応して目を開くと、素早く僕の横に進み出た鳥川さんが、ドアの取っ手に指をかけているところだった。意外な積極性。好奇心に押されたのだろうか。
「あっ、待っ」
 ギョッとなった僕が止めるより早く、引き戸はレールを走った。ドア全開。そうして繰り返される、我がまなこに刻まれた刺激的な光景。
 文芸部の部室に設けられた備品は、大きく分けて三つある。立ち並ぶ大型の本棚。作業用の長机。そして三人がけのファブリックソファとローテーブルのセット。問題なのはソファだ。いや、そこに腰かけている人物だ。
 僕にとっては、よく見知った女子生徒。蜂蜜色の長い髪に、小麦色の肌。けばけばしいメイクながら甘ったるい童顔。豊満な胸。見事なくびれ。
 入り口からではテーブルの上のバッグに邪魔されて確認しにくいが、この人は下半身の発育だって素晴らしい。細作りな鳥川さんとは逆ベクトルの恵まれた容姿と、日々怠らない女磨きの賜物だ。いや、それはともかく。
 事程左様に派手なビジュアルをした女子が、ひとり部室で脱いでいた。繰り返そう。脱いでいた。
 バッグの横に、くしゃくしゃのジャージと体操着が放ってある。どうやら体育の授業後そのまま過ごし、いまになって制服に着替えようとしていたらしい。幸い、窓はカーテンに遮られているので、屋外から覗かれることはなかっただろう。しかし照明の灯った室内でのこと。当然こちらからは丸見えである。
 褐色の健康美。首から肩、二の腕にかけての蠱惑的なライン。さらには、それひとつ――否、ふたつで世のどんな思春期男子も篭絡できそうな双丘。いやいや、丘と表現するには高すぎる。岳だ。高嶺だ。高山だ。それほどの凶器が露わになっていた。真っ白なスポーツブラに覆われているせいで山頂こそ目視できないが、豊かな胸がきゅうきゅうと締めつけられている様は、下手な露出よりも扇情的だった。
 僕は眼前の光景に、うっかり見入ってしまった。しかし一体、誰がそれを責められようか。
 いまどき異性の裸なんてワンクリックで目にできる。誰だって思う。僕だって、そう思う。しかしナマの破壊力は桁違いだった。どんなにインターネットが普及しようと。VRが進化しようと。唐突なエロチシズム、いわゆるラッキースケベには敵わない。しかも対象と知己の間柄であるならば、とっさのダメージは余計に大きい。そう痛感した。
 また、反射的にドアを閉めた一度目とは状況がちがう。今現在ドアを開け、取っ手に指をかけているのは僕ではなく鳥川さんなのだ。だから僕に非はない。気づけば、そんな甘ったれた姑息な言い訳が己の中で成り立っていた。不可抗力という免罪符に縋り、身を委ねてしまった。
 そうして両の眼が間断なく取り込みつづける情報は視覚野に刺さり、脳全体へ広がり。ついには下腹部を灼こうとせんばかり。
 鳥川さんがドアを開けてから、ここまで。現実時間にして約二秒。
「アレーッ? シオちゃん、誰その子ぉ」
 半裸女子の呑気な声によって、僕は正気に戻った。もとい、我に返った。
「あー、もしかしてー」
 前を隠そうともしない痴女がなにか言っている途中で、ハッとなった鳥川さんがピシャリと勢いよくドアを閉める。その音に、僕は冷や水を浴びせられたような心持ちとなった。
 鳥川さんは体勢を変えず、こちらを見もしないまま、
「佐藤くん」
「……なに?」
「ギャルの人が、素っ裸でした」
 実に率直な感想。それにしてもギャルの人って。
「あー……うん。いや、下着は着けてたし短パンも穿いてたから、正確には素っ裸ではないかな」
 日本語は正しく使いましょう。
「いま別にそこ重要じゃないよね」
「……はい」
 冷たいトーン。鳥川さんから敬語が消えた。
「ていうか絶対ガン見してたでしょ」
「し、ししし、してないけど?」
「してたよね」
「し、してない」
 かけ合いの最中も、彼女は取っ手に指をかけたまま動かなかった。
 埒が明かないので、僕は慎重に説得を試みる。
「あの人が……ウチの部長」
「アレが!?」
 ようやく彼女は顔をこちらへ向けた。驚きのあまり、目を見開いている。とても信じられないといった風情だ。そして、ふらつく足で後退あとずさり、ドアから距離を取った。
「まあ、ああ見えて意外と」
「あのっ」
 鳥川さんは部長をフォローしようとする僕の言葉を遮った。その身は、かすかに震えている。
「部員はふたりって。言って……ました、よね。いつも放課後、裸のギャルと。一体、なにをしてるの。……ですか」
 たどたどしくも、責めるような口調。いや、ような、、、ではない。事実、彼女は責めている。なぜか部長本人ではなく、よりによって僕を。鳥川さんとは異なる理由で、僕もぶるりと震えてしまった。
「いや、待って待って。偶然だって。向こうも、いつも脱いでるわけじゃないよ」
「もしかして……罠? 私ハメられた? 危ないところに連れ込まれようとしてましたの?」
「してましたの?」
 どこのお嬢さまだ。どうやら完全に混乱しているらしい。
 鳥川さんはパーカーの襟をぎゅっと握り、戦慄わなないていた。取り乱しているせいか、こちらの主張が通じない。おそらく彼女の中で、僕にとって不名誉な妄想が拡大している。非常にマズい。
「頼むから落ち着いて。ヤリサーじゃないんだから」
「やっ!?」
 その反応を受け、僕はすぐさま後悔した。彼女はこちらの言い分の中から、わかりやすい単語だけを拾ったらしい。シチュエーション的に最悪のパワーワードを。
 美少女の目つきが、眼鏡の奥でおぞましいものを見るかのように変貌していった。それに反して、ぷるぷる震える小さな口の端は上がっていく。
 妙な表情だった。こちらを蔑んでいるのか、それとも微笑みかけているのか、一見してわかりづらい。いや、この状況で笑っているなら想定外のクレイジーだ。そして鳥川さんは案外、普通の女の子。つまり彼女は現在進行形で、脱いでいた当事者ではなく、眼前の男子を蔑視している。
 僕は少し前に気持ち悪いと言われたときの倍は傷つきつつ、慌てて次の言葉を探した。
 しかし弁明するより早く、部室のドアが開く。
「なにしてんのーっ?」
 割り込んできた無遠慮な声に、鳥川さんが「ひいっ」と小さな悲鳴を上げた。
 声をかけてきたのは、もちろん件の痴女。もとい、我が部の部長だった。
「ひ……部長」
「おやシオちゃん。どーした改まって」
 キョトンとする部長。フリーズするクラスメート。彼女たちを前にして僕は自制心を総動員させ、努めて冷静に言うべきことを言った。
「とりあえず、服を着てくれ」
 山が、まろび出ていた。
 何故なにゆえさっきまで着けていたはずのスポブラまで外しているんですか本当にありがとうございます。

 痴女を部室に押し込め着替えさせ。タッチの差で顔を出した茶道部員の方々に、廊下で騒いでいたことを「またキミか」となぜか僕だけ注意され。そうこうしているうち、こちらを不審がる鳥川さんは落ち着きを取り戻し、警戒レベルを少し下げたようだった。どうにかこうにか彼女を宥めることに成功し、ようやく僕らも部室の中へ。
「わあ」
 まだ難しい顔を浮かべていた鳥川さんだったが、本棚の中身を見て感嘆の声を漏らした。それはそうだろう。室内の前側半分近いスペースを占有し、列を成す大型の本棚。そこには古今東西、さまざまな小説が敷き詰められている。
 古典文学、純文学、一般文芸、ライト文芸、そしてラノベ。歴代の部員たちによる、各々の趣味に偏った蔵書だ。部員数極少とはいえ、さすがに文芸部。総数でこそ図書室には劣るが、マニアックさでは追随を許さない。
 ウン年分の部費を注ぎ込んで入手したという伝説を持つ希書。
 現代人気作家の知られざる初期作品。
 図書室どころか、そこらの図書館にだって存在しない、富◯見ミステリー文庫専用のコーナー。
 あれやこれや。
 わかる者にだけわかる、輝かしい部の功績がここにあった。
 鳥川魚美。いまだ実態を測りかねる存在ではあるけれど、自分で筆を取るほど小説好きな人間が、このラインナップを見て心揺れぬはずはない。
 四月からこっち、僕も夢中になっている。
「どう? 結構な品揃えでしょ」
 僕は目を輝かせていた鳥川さんに、なるべく穏やかな声で話しかけた。
 しかし、
「あ、はい」
 冷めた返事。そして、すぐさま距離を取られた。僕にとって、この瞬間が今日一番のショックだった。
 よくよく考えてみれば、部室で着替えていた女子の裸をうっかり覗いてしまったというだけの話なのに。ラブコメなんかじゃ、案外ありがちな事故なのに。なぜ、こうまで大事になっているのだろう。これも現実とフィクションのちがいか。いや、だとしてもだよ。僕らは目撃者という、同じ立場の人間だ。そんなふたりの間に、深刻な軋轢が生じているのはおかしくないか?
 ひとえにその原因は、件の痴女の高校生離れしたスタイルのよさにあった。初心っぽい鳥川さんにも。そして僕にも。先程の情景は刺激が強すぎたのだ。
 来海くるみ緋衣子ひいこ。現在、二年生にして我が部の部長である。
 パッと見、年相応なのは童顔だけ。彼女の豊満な肉体はグラビアアイドル顔負けだ。普段の制服に包まれた姿でも、思春期男子の目には毒。だから不意打ちのセミヌードに僕がほんの数秒、、、、、だけ気を引かれてしまったのは、仕方のないことだと言える。
 校内一の健康美。健全だけど不健全。それが来海緋衣子だ。
「ウオミちゃんだっけ。おいでー、こっち座んなよ」
 はち切れそうな制服姿でくつろぐ部長が、蔵書に見入っていた鳥川さんをソファへ呼びつける。鳥川さんは僕らふたりを交互に真顔で見やった後、ギクシャク歩き、指示に従った。
「し、失礼します」
「やー。かーわーいーいー」
 部長は鳥川さんが隣に腰かけるや否や、すり寄って甘い声を上げた。さらには、稀代の美少女の頬を指でつつくなどして弄びだす。
「やっ、その。なんですか」
「ふふっ。ようこそ文芸部へー」
 されるがままの鳥川さん。照れくさそうな表情は、満更でもないように見える。
 手持ち無沙汰になった僕は、ほわほわした空間に加わっていいのか悩んだ挙句、長机の前に置かれたパイプ椅子に座った。机とローテーブルを挟み、ふたりと距離を取るかたちだ。たぶん、これが最適解。だって鳥川さんは、まだ僕を避けている。別にいいけど、なんで脱いでいた本人より僕の方が引かれているんだ。別にいいけどっ。
「いやー、さっきはビックリさせちゃってゴメンねー。来てもシオちゃんだけだと思ってたから、ダイジョブかなーって」
「僕ならいいのかよ」
 一応、小声でツッコんだ。
「シオ……ちゃん?」
 鳥川さんの呟きに、部長が頷く。
「うん、ウシオだからシオちゃん。かわいいっしょ」
「……はあ。仲が、いいんですね」
 鳥川さんはそう言いながら、いぶかしむような視線を一瞬こちらに送った。僕はあらぬ誤解を解くべく、正直に答える。
「幼馴染みなんだ」
 来海緋衣子と僕は家が隣同士だったこともあり、幼い頃から親交があった。
「そそ。長い付き合いだから、なんでも知ってるわけよ。お互いのホクロの数とか、生理の周期とか」
「知らねえよ」
 ややエグい例えを出され、つい言葉を荒げてしまった。鳥川さんは困惑気味。勘弁してほしい。不信感を抱えている見学者を前に、タイミング最悪の冗談だ。
「まっ、姉弟みたいなもんかなー。ねえシオちゃん」
「……ああ」
 何年も前の苦い記憶が脳裏に蘇る中、僕は渋々頷いた。
「お姉ちゃんを追いかけて、わざわざ同じ部活にまで入ってくるんだから。とんだシスコンだよねー」
「……そんなんじゃない。ただ、この部の蔵書に興味があっただけだよ」
「あー、はいはい。そういうことにしときましょ」
 僕の真っ当な抗議は、あっさり流されてしまった。
「いやー、それにしてもホッとしたよー。ウオミちゃん、待望の新入部員だからねえ。あー、よかったー」
「……えっ、あの。私、見学だけ」
 鳥川さんは訂正しようとするけれど、部長はカモを見逃す甘い女ではない。
「ん、入部するってことでいいんだよね? ミーちゃんって呼んでいい? それともトリカワだからトリちゃん? ん? どっちだ? アレかな? ミーちゃんも小説好きなかんじ?」
「えっ。あ、あっ……はい」
 唐突にマシンガンみたく喋り立てられた鳥川さんは、とりあえずといった風に頷いた。たぶん最後の質問に対しての返事だろう。しかし、その半端な対応は悪手である。
「うん。じゃあ、コレ入部届けねー」
「ええっ? え、あ。えっ」
 部長は言質を取ったと言わんばかりに、にんまり笑った。悪質な訪問販売員か。泡を食っている鳥川さんが、さすがに不憫だ。
「なあ部長。ちゃんと本人の意思を尊重して」
「いやー、ホントさあ」
 僕の制止を無視し、彼女は深い溜息を吐いた。
「急に部員が減っちゃったから助かったよー。このままじゃ廃部になってたかもだし。……ねえ、シオちゃん」
 部長は笑みを崩さず僕を見た。その目は「わかっているのか? この窮状はお前のせいだぞ?」と訴えている。
「……はい」
 釘を刺された僕は、つづく言葉を呑み込んだ。
「ホントありがとー、ミーちゃんは救世主だね」
「そ、そんな。……へへ」
 頼りない助け舟が瞬時に沈められたことも知らず、あっさり鳥川さんは絡め取られていった。
 まあ鳥川さん本人が嫌がっているわけでないのなら、無理に止める必要はないか。僕としても、もう少し彼女を知りたいという想いがあるし。
「にしてもミーちゃん、よっぽどの文芸オタク? シオちゃんが連れてくるってことはさ」
「えっ。それって、どういう」
「……鳥川さんは小八木先生の推薦だよ。僕が進んで勧誘したわけじゃない」
 痛いところを突かれるより早く、僕は取り繕った。
「コヤギちゃんの? へー、そうなんだ。てっきりアタシ、シオちゃんが口説いてきたのかと」
「人聞きの悪いことを言うな」
 僕も似たようなことを考えて、くよくよ悩んではいたけども。
「あのっ」
 鳥川さんが、彼女にしては少し大きな声を出した。
「ん? どした?」
「おふたりも、小説が好きなんですか?」
 文芸部員ふたりを前に、新入部員(仮)が問う。
 俯く鳥川さんの表情は、眼鏡と前髪に隠れて見えない。しかし、どこか嬉しそう。ひょっとしたら僕と同じく、彼女も同類の存在に期待していたのかもしれない。
「んー、アタシは週に二、三冊読むくらいかな。てか漫画の方が好きかも」
「そ、そうですか」
 多忙な高校生の身で、週に三冊は十分に読んでいる方だと僕は思う。しかし鳥川さんは、あからさまに落胆していた。
「あっ、でもぉー」
 部長も察したらしい。だが、それがよくなかった。
「シオちゃんは筋金入りだよ。なんてったって、ねえ」
 彼女は、してはいけないフォローをしだしたのだ。
「ちょっと待って」
 雲行きが怪しくなるのを感じ、僕は慌てて止める。
「え? なんですか?」
「あっ、あー……えーっとね」
 部長は口を滑らせかけたことに気づき、軌道修正に入った。
「ほら、意固地なメンドくさい小説オタクってこと。ねっ?」
「……ああ、うん」
 イヤな言われようだけど、間違ってはいない。
「そうなんですか。……佐藤くんが」
 鳥川さんは意外そう。どの点に引っかかったのだろう。僕が意固地ってところか、それともオタクってところか。
「そーだよぉ。コイツほど扱いづらいのは、なかなかいないよ?」
 部長は嘆くように言う。
「もともとねえ、文芸部はもっと人がいたんだけど。シオちゃんと折り合いつかなくて、バタバタ辞めてっちゃったし」
「えっ」
 この点については、僕は言われるがままにしていた。事実だし、鳥川さんが本当に入部するなら、隠すべき話ではない。
「じゃあ部員がふたりなのって、佐藤くんのせいなんですか?」
「……いや、まあ」
 先刻のことを抜きにしても、鳥川さんは割と容赦がない。もう少し婉曲的な訊き方をしてくれてもいいんだよ?
「ちょっと、色々あったんだ」
「それにしたって、たった一ヶ月で?」
「ぐう」
 ようやく鳥川さんと会話を再開できたと思ったら、これだ。クラス一のやらかし女から厄介者として見られるのは、なかなか屈辱。
「まー仕方ないよね」
 僕を思ってか、部長が割って入った。怒るとこわいし、呑気でマイペースだけど、情は深い人なのだ。
「小説に対する、捉え方? 取り組み方? そんなんも、プロと一般人じゃ全然ちがうんだろーし」
「ヒー姉っ」
 口の軽い幼馴染みに、僕は思わず悲鳴を上げた。
「あっ、ゴメン」
 部長はミスに気づき、こちらへ向けて謝った。そして、軽く握ったこぶしで自分の頭をコツンと叩く。いや、かわいいけども。
「え。プロって、なんの話ですか?」
 ピンと来ていない様子の鳥川さんが、僕らふたりに向かって訊ねた。
「……ああ、ええと」
「うーん。もう、こうなったら仕方ないかー」
 どう誤魔化すか考えあぐねる僕を尻目に、部長は自分のバッグの中から、ひょいっと一冊の文庫を取り出した。最悪だ。
「はい、どーぞ」
「あ、ありがとうございます? ……ええっと、これは。ライトノベル?」
 間近に寄って確認せずともわかる。部長が鳥川さんに手渡したのは、やたらと肌を露出した美少女が表紙を飾っているラノベ。それも、たぶん今月出たばかりの最新刊だ。
「それさあ、シオちゃんが書いたの」
「——は?」
 鳥川さんが硬直する一方、僕は脂汗が止まらなかった。
 部長は、さも自慢げに口を開く。
「シオちゃん、現役のラノベ作家なんだよ」
 部長がそう言った瞬間。その少女、鳥川魚美の瞳が。長い前髪と黒ぶち眼鏡の奥で、鈍く光ったように見えた。

「バカ言ってんじゃないよ。キミなんかが、なれるわけないじゃん」
 子どもの他愛ない質問にも、可能な限り本心で答えてくれたクソババア。もとい、親戚のお姉さん。
 子どもながらに悔しかった。見返したかった。だから僕は自分なりに勉強し、何年もかけて実際に小説を書いてみた。全然ダメだった。だから、腕を磨いた。
 あるとき、憎いお姉さんの本を手に取った。ボロクソに貶してやるつもりで読んだ。しかし、うっかり憧れた。お姉さんのように、人の心を無慈悲に抉る、哀しくもあたたかい物語を書きたくなった。
 その頃には、僕はとっくに小説の虜になっていた。自分には小説家以外の道など、ありはしないと確信していた。
 家族も、親戚に成功した人間がいる分、理解があり、協力的だった。
 妹だけは反対してきたけれど、邪魔まではされなかった。
 だから、最高の環境だったと思う。
 やがて、自分がお姉さんのようになるのは無理だと悟ったのは、中学に上がってからだ。
 物語には、作者の人間性が出る。テーマに。キャラクターに。ストーリーに。文体に。日々なにを想い、なにを考え生きてきたかが現れる。
 ただ漫然と生活し、それをよしとしてきた僕には、お姉さんみたいにエグい小説は書けない。届かない。どれだけ歳を重ねても。どんな経験を積んだとしても。そう気づいた。わかってしまった。
 僕は小説家にはなれない。
 書きたいものを書けない。書きたいもので世に出る力がない。本気で作家をめざしている者にとって、それ以上の絶望はなかった。
 この苦悩を十代の妄言だと。よくある戯言だと。そう笑う人もいるだろう。くたばれ、、、、
 本気だ。僕は、本気だったんだ。
 いまなら理解できる。お姉さんの厳しく忌まわしい言葉は、無知で幼い僕への忠告であり、戒めであり、そしてやさしさでもあった。しかし同時に、呪いでもあった。彼女の意に反し、あの大人げない憎まれ口は僕を縛りつけた。
 趣味や手慰みで書くなら、好きにやればいい。そこはきっと自由な世界。無限の荒野が広がっている。
 だけどプロの小説家は。商業小説は。興味本位で気安く登れる山じゃない。
 そう気づいたときには、もう遅かった。すでに引き返す道を見失っていた。だからこそ諦めきれず、ひたすら足掻いた。
 そうして僕は結局、めざしていた作家像を捨てた。すなわち、ラノベ作家になることを選んだのだ。


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