『鳥川魚美は小説家になれるのか?』第三話「青くて痛くて脆くてチョロい」《後編》

 鳥川魚美の入部。そしてラノベ作家〈佐藤椰子〉による、彼女の原稿への批評。このふたつが文芸部内で確定した日の夜、あいにく僕には状況を整理する余裕などなかった。担当編集者に提出していた新作の初稿が、真っ赤になって返ってきたからだ。
 真っ赤とは、いわゆる『赤が入った』状態。過去一の自信作だった原稿には、誤字脱字や文法的間違いの指摘はもちろん、こと細かく記された修正案までもが、びっしり添えられていた。
 デビュー作以来の新シリーズ、その第一巻——となる予定の作品。入念な打ち合わせののち、心血注いで仕上げた原稿には、自分なりに手応えがあった。それがまさか、こうまで無惨な姿となって戻ってくるとは。
 望外の喜び、、、、、。皮肉でも虚勢でもなく、心の底から有り難い話。暗中模索していた作家志望者時代と比べれば雲泥の差だ。僕のような小童の作品に、その道のプロたちが全力で当たってくださっている。
 商業小説もライトノベルも、けっして独力では作れない。というか成り立たない。デザインや印刷、装丁、営業、販売。それら以前の段階から、複数の人間の手が入る。なぜなら自作を百パーセント俯瞰して見ることなど、何者にも不可能だから。クオリティ向上のため、他人の意見は必須。毎回ゲラを受け取るたび、そう実感する。
 もちろん、原稿を滅多打ちにされるのは辛い。自信があった分、特に今回の反動は大きかった。けれど指示を参考に手直しすれば、よりよい内容になるという確信。その歓喜が苦痛を凌駕する。
 結果、遅い時間まで改稿作業に専念。師匠に鍛えてもらっていた時分、「徹夜はするなよ」と口酸っぱく言われたものだが、僕は不肖の弟子どころか落ちこぼれ。やれるときにやっておかねば、とても作家として立ち行かない。第一、目の前の赤い原稿をほっぽって安眠できるプロ作家など、この世にいるものか。そんなやつは作家どころか人間じゃない。
 しかし、どれだけ意志を強く持とうとも。たしかな喜びがあろうとも。作業は単純にしんどい。校正者による添削はともかく、特に担当編集者の意見が僕をさいなんだ。頼りにしている編集女史から、「佐藤さんの武器は文体ですけど、なるべく地の文は削りましょう」とか、本人も自覚している稚拙なお色気描写に対し、「この緩急差がいいですね。もっとページを使いましょう」とか。そういう矛盾めいたアドバイスをしこたまもらえば、僕でなくとも戸惑う。
 一応、向こうの言いたいことはわかっている。
「もっと読者を意識しろ」
 これに尽きる。
 地の文を減らし会話文を増やすことは、とっつきやすさと読みやすさに繋がる。そしてお色気シーンは読者サービス。作風を崩さぬ範疇でなら、多いに越したことはない。ライトノベルは若い読者層がメインターゲットなのだから、どちらも当然の方針だ。
 意図は明確。しかし時に婉曲的な、その道のプロからの助言。これらを汲み取り、血肉とし、そして今後に活かす。
 言うだけなら簡単だよな。
 プロの改稿作業はシーソーの連続だ。どこまで編集者の言葉を受け入れるか。あるいは、どこまで自分の直感を信じるか。この見極めが重要となる。もし一から十まで先方に従ったとして。結果、数字に繋がらなかったら、あっという間に失業だ。それはそう。だって経過はどうであれ、そう書くと決めたのは作者自身なのだから。全責任は作家にある。
 つくづく思う。かつて憧れから目を背けて逃げ出した僕の、新しい居場所。ライトノベル業界は奥が深い。やさしくない。甘くない。だからこそ、やりがいがある。
 苦しいが、楽しい。そこにも矛盾はない。苦痛と愉悦が両立する。なんてイカれた世界だ。
 この世界に爪痕を残す。
 想い焦がれ、辿り着けなかった場所でやりたかったことを、今度こそ成し遂げる。それが僕の今現在の目標だ。

 徹夜が祟り、翌日は朝から、ひどく眠かった。疲れていても進捗さえよければ心は軽いが、まだ活路を見出せず苦戦している。だからこそ登校中も、作業の余韻で頭がいっぱいだ。
 こういうとき、高校まで徒歩五分のマンションは本当に助かる。おおまかにでも通学路を覚えれば、ぼーっとしていても足が勝手に連れていってくれるから。この点に関しては、部屋を貸し与えてくれた師匠に感謝だ。小学生の頃に何度か軟禁された現場でもあるので、そこは少し複雑だけど。
 やがて僕は校門を抜け、肩や首の強張りをほぐしながら教室へ入った。
「おう、ウシオ」
 まだ予鈴まで余裕はあったが、すでに左隣の席には黒木田が座っている。僕も自分の席につき、のんびり挨拶を返した。
「おはよう。珍しいな、こんなに早く登校してるなんて」
「うるせー」
 本当に珍しい。コイツは遅刻こそしないが、いつも時間ギリギリ。それも天賦の美貌が台無しの、眠気マックスな顔で教室へ駆け込んでくる。挨拶や受け答えだって、朝のうちは「あー」だの「うー」だの、ゾンビの呻き声みたいなことしか言ってこないやつなのに。
 しかもだ。心なし、今日は普段より化粧っけがあるというか。気合いが入っているというか。華美なアイラインや真紅のリップは、いつも以上に濃く深く、輝いて見えた。しっとりした長い濡れ髪は、鳥川さんのものに勝るとも劣らずつややかで、そして色っぽい。鼻腔をくすぐる清涼感ある香りに至っては、気を抜くと意識を持っていかれそう。
 思わずクラッときた僕は、マズいマズいと首を振った。
 油断すると、コイツを女性として意識してしまう。それはよくない。非常によくない。鳥川さんではないけれど、僕も黒木田にまつわる中二のときの深刻な失態を思い返すと、いまでも身を捩りたくなる。だから平静を保つため、勝手ながら黒木田のことは、常時ヤンキーとしてカテゴライズしているのだ。
 黒木田五十鈴は単なるガラの悪い友人。そう今日も信じ込め、佐藤潮。
「なあ。……昨日のことだけど」
「え?」
 黒木田は頬杖をつき、いかにも「そういえば」といった風に話を切り出してきた。澄んだ瞳は、なぜだか宙を泳いでいる。
 疲弊しきった頭で、僕はぼんやり思考を巡らせた。
 昨日? 学校でなにかあっただろうか。いや、あったと言えばあったけど。ありすぎたけど。それは文芸部と鳥川さんまわりでの案件だから、コイツには関係ないはずだ。
「昨日って?」
 僕がそう訊き返すと、黒木田は途端に顔を顰め、「ああ?」とチンピラ風味の声を上げた。こわい。こわいが、少し落ち着く。ホッとする。この沸点の低さ、いかにもヤンキー。
「なに和んだツラしてんだ」
「い、いや別に」
 黒木田は溜息を吐き、窓の外に顔を向けた。
「ほら、アレだよ。……お、お前のマンション、今日とか——」
「おっ、おっ、おっ、おはようござざいますっ」
 なにか言いかけていた黒木田の声をかき消す、ぎこちない挨拶。
 いつのまにか僕の右隣に、鳥川魚美が立っていた。登校してきたばかりらしく、ショルダーバッグのベルトをたすきがけしたままで、少し息が上がっている。気になるのは上気した頬と、眼鏡の奥で爛々と光る瞳。そして抱きかかえた、紙束入りのクリアファイル。
「あ、ああ。おはよう、鳥川さ——」
「コレッ、持ってきました。お願いしますっ」
 食い気味に紙束を差し出された。まず間違いなく彼女の玉稿だろう。少しヒヤッとしたが、表向きは文芸部員同士の原稿受け渡し。これだけで僕の本業に思い至る人間は教室にいないはず。
「ああ、うん。どうも」
 僕は内心、彼女の視線にどぎまぎしながらクリアファイルを受け取った。いつもオドオドしているのに、いざ人と目を合わせるときには躊躇しない子なんだよな。逆にこっちが緊張する。
 そんな僕らを、何人ものクラスメートが遠巻きに見ていた。気持ちはわかる。僕だって彼らと同じ立場なら、きっとそうする。教室内でこんなに元気よく話す鳥川さんは、初日以来なのだから。
 鳥川さん本人には、人目を憚る様子はなかった。彼女はただ、こちらだけを一心に見つめている。すっぽり被ったフードや長い前髪で視野と視界を狭めているため、注目されていることに気づいていないのかもしれない。昨日までの僕の視線は敏感に察していたくせして、随分と無頓着。そして不公平だ。面と向かって気持ち悪いと言われた心の傷は、一夜経ってもまだ癒えない。
 それはそうと、我ながら変態じみた感想で恐縮だけれども。ほんのりぬくいファイルの手触りを、どうしても意識してしまう自分がいた。誰にも責められる謂れはない、思春期の哀しいさがである。
「わざわざプリントアウトしてきたの? メールで送ってくれればいいのに」
 僕がそう言うと、鳥川さんはわずかに視線を落とした。
「いや、その。……佐藤くんとアドレス交換するのは、ちょっと」
「……それ、どういう意味で言ってる?」
 彼女の中で僕はそこまでの危険人物なのか? そんな相手に、なんで弟子入り志願してきたよ。
「あ。……いえ、その。ちがうんです。ウチのパソコンのメールアカウント、妹と共有してるから。だから、ちょっと。男子のアドレス登録しちゃうと、問題があるというか」
「ふう、ん?」
 家庭の事情か。まあ、そういうこともあるのだろう。方便でないことを願いたい。つづいて鳥川さんが、「あの子に知られると佐藤くんの身に危険の及ぶ可能性が」などと呟いているように聴こえたけれど、これはたぶん空耳だ。
 僕はファイルから取り出さぬまま、一番上の紙にざっと目を通した。やはり小説原稿。縦書きで、右端に記されたタイトルは『オーバーナイト・ハイキング』とある。その後は、ずっと本文。こちらの意見がほしいなら、できれば梗概も用意しておいてもらいたかった。だが、わざわざ指摘するほどのことではないか。書式や字間は、読みやすいようキッチリ揃えられている。
「ん?」
 ふと、用紙の隅っこに手書きの文字を見つけた。丁寧な筆跡で一言、〈斜陽産業〉とある。
 これはラノベに対して言ってる? それとも小説全般? いずれにせよ、僕は喧嘩を売られているのだろうか。
「どうかしました?」
「い、いや。なんでも」
 こちらが眉を顰める一方、原稿を寄越してきた当人は、きょとんとしている。
 落ち着け、きっと誤解だ。もしくは事故だ。さもなくば僕の疲れきった頭と目が見せている幻。鳥川さんは、こういうチクッとした嫌がらせをしてくる子じゃない。美少女はそんなことしない。
 さりとて、直に確認する勇気はなかった。
「じゃあ、たしかに。……これって最終選考に残ってたやつ?」
 昨日の会話の流れからして、十中八九そうだろうけど。そして、訊いている途中で思い出した。新人賞のサイトに掲載されていた、彼女の候補作と同じタイトルだ。いまと同様、そのときもネーミングセンスはないなという所感を持ったので覚えている。
 鳥川さんは自信の表れか、わずかばかり口角を上げた。
「はい、そうです。そこから、いくらかは直してありますが」
「わかった。読むのに少し時間もらうかもだけど、いい?」
 なにしろ自分の原稿や、高校生としての当たり前の勉強だってある。興味はあっても、彼女の作品にだけ、かまけてはいられない。
「もちろんです。……時間をかけて、私の小説にエンターテインメント性がないか、たしかめてみてください」
 腰は低いのに、まるで宣戦布告。僕は言葉に詰まった。
 昨日こちらが言ったことへの皮肉だな。あのときは反論してこなかったけれど、バッチリ気にしていたらしい。
 鳥川さんは不敵に微笑んでいる。初めて見る表情だ。あの驕った自己紹介のときでさえ、ここまでではなかった。胸の内にあるのは、自分の原稿に対する自信と矜持か。普段あんなにキョドキョドしているくせに、いまは自分が小説家になると信じて疑わない、強靭タフな挑戦者の目をしていた。触発され、なにかが僕の心の中で、ちりちりと燃えている。
 しかしクラスメートの目がある中、挑発に乗るわけにはいかない。僕は素っ気なく答える。
「了解。テスト明けに返すよ」
「は、はい」
 さらりと取り付けた期間は、二週間以上先。鳥川さんは少し落胆したようだったが、ここは呑んでもらおう。
 月末からは中間テストが始まる。この高校は入試成績次席の楓と、せいぜい中の上くらいの順位であったろう僕を同じクラスに割り振るようなボンクラ校だ。それでもテスト前となれば、僕の頭では、ある程度の勉強時間が必要だった。
 両親から提示された、マンション暮らしを認める条件。そのひとつが一定の成績維持なのだ。それに加え、新作の改稿作業はまだまだ半ば。しばらく僕には、他人の原稿に割く時間はない。
「では、よろしくお願いしますっ」
 鳥川さんは勢いよく頭を下げた。その拍子に、大きな黒ぶち眼鏡が床めがけてダイブする。足元でカツン、と硬い音。彼女は「ああっ」と悲鳴を上げ、素早く屈んで眼鏡を拾った。
「大丈夫? 割れてない?」
「は、はい。レンズ入ってないんで」
 あわあわ取り乱しながらの返事。あっという間に、いつもの鳥川さんだ。
 というか、
「え、伊達なの?」
「え、ええ」
 鳥川さんは俯き、フレームを軽く手で払いながら答えた。
 なんで伊達眼鏡なんてかけてるんだろう。サイズだって合ってないし。
「眼鏡、外せば? せっかくの魅力的な顔が台無しだ」
 などとキザったらしいことを本当は言いたかったけれど、そんな気安い仲でもなかったので、僕は「あ、そう」とだけ返した。やむを得ない。下手につついて、また蔑むような目を向けられたら立ち直れないし。
 そこで会話は終了。用件を済ませた鳥川さんは眼鏡をかけ直して席につき、僕も彼女の原稿を鞄の中へ仕舞った。
 ところが、
「あっ……鞄忘れた」
 右隣からの呆然とした声に反応し、僕は顔を向けた。お互い、自然に目が合う。鳥川さんは、にへらっと笑ってみせた。僕は確信する。たとえ眼鏡は似合っていなくとも、やはり鳥川魚美は抜群にかわいい。なにより、ときどき見せる引きつった笑みでなく、気の抜けた笑顔だったのが嬉しかった。彼女との距離が縮まったことを実感。いまだ確執はあるけれど、文芸部に誘ってよかった。小八木先生ありがとう。
「どうするの? 親に電話する?」
「いえ、走って取りに戻ります。家、近いんで」
 言うが早いか彼女は立ち上がり、教室から出ていった。
 今度こそ会話終了。様子を窺っていたクラスメートたちは結局、誰も割って入ってはこなかった。当然と言えば当然か。僕と彼女は教室内に話し相手のいないツートップ。すなわち会話下手コンビ。知らない連中が急に近寄ってきても、きっと鳥川さんは口ごもるし、僕も「はあ?」くらいしか返せる自信がない。それを周囲もわかっている。
 まあ僕には黒木田がいるんだけどね。
 ふと窓側を見ると、黒木田は先刻と同じく頬杖をついていた。いや、ちがう。さっきはどこか浮ついた様子だったのに、いまはなんだか、憮然とした面持ちになっている。
 瞬間、僕は背筋が冷たくなった。マズい。黒木田の前で小説の話をするのはよくなかった。しかも考えてみれば、僕はコイツとの会話をほっぽって鳥川さんと語らっていたのだ。
「ゴメン。さっき、なに話してたっけ」
 悪友の機嫌を計りがてら、僕は朗らかに声をかけた。しかし相手はふくれっ面だ。
「もういい」
 険のある、温度の低い返事。
 ああ、やってしまった。今後、鳥川さんと小説や文芸部について話す必要があるときは、なるべく教室を避けよう。
 予鈴直前、息を切らした鳥川さんが教室に駆け込んできてからも。授業の合間の休み時間になっても。今日はそれっきり、黒木田は僕に話しかけてこなかった。昼休み、弁当の梅干しだけは投げて寄越してきたけれど。

 その日の放課後。僕はノックした後、念のため少し待ってから、慎重に部室のドアを開けた。
「ざんねーん、今日は着替えてませんでしたーっ」
 底抜けに明るい声が中から響く。ソファでくつろいでいるのは文芸部部長、来海緋衣子。本人の言葉通り、今回は最初から制服姿だ。
「別に期待してない」
 文芸部の活動日は月水金。本日は木曜だったが、事情により、こちらから彼女を呼び出していた。
 僕は戸をきっちり閉め、長机やテーブルを過ぎてソファへ向かう。そして部長の隣に腰かけた。向こうが中央の位置から微動だにしないので、自然、袖が触れ合うくらいの距離になる。
「ミーちゃんは? 来ないの?」
「ミーちゃん? ああ、そうか。いや」
 部長は昨日、会ったばかりの鳥川さんに、そんな愛称をつけていたっけ。
「誘ってない。火木は休みって伝えてあるんでしょ? たぶん真っ直ぐ帰ったよ」
「ありゃー、そっか残念。まーいっか、後でLINEするし」
「僕をのけ者にして、ふたりがID交換していた事実はともかく」
 地味にショックだけれども。
「ヒー姉さ。鳥川さんのこと、初めから知ってたでしょ」
 僕は単刀直入に問い質した。
 僕が隣の席だとかの詳細は初耳だったにしても。この人は鳥川魚美の惨状を、昨日の時点で把握していた。少なくとも、当人さえ知らない陰口の内容を掴んでいた。
「あーぅ、バレちゃってたか」
 部長は両手を掲げるオーバーリアクションとともに、あっさり認めてみせた。
「そりゃー二年の間でも、ちょっとは話題になってたからね。新入生にこういうこと言ってた子がいるんだーって」
「ああ、そっか。なるほど」
 極めて限定的な交友関係しか持たない僕には、思い至らなかったけれど。クラスの輪に留まらず、鳥川さんの噂はもっと多くの生徒間で広まっていたのか。
「いつから知ってたの?」
「えーっと……シオちゃんがアイツら追い出した後くらいかな」
「アイツら?」
「ほら、文芸部の」
「……ああ」
 部室でたむろしていた先輩たちか。部長が鳥川さんのことを知ったのは、彼らの退部後。つまり四月後半か、今月に入ってから。どうやら噂が浸透していったペースは、かなり遅いようだ。あの自己紹介はインパクトこそ凄まじかったが、やはり作家志望者自体への世間的関心は薄いものなのだろう。
「で、メイちゃんに訊いてみたら、同じクラスだーって言うから」
「楓に?」
 佐藤カエデを自称する、佐藤メイプル。アイツを本名由来の愛称で呼ぶことが許されているのは、この学校でこの人だけだ。
「僕に訊いてくれたらよかったのに」
 途端、部長は顔を顰めた。
「だってミーちゃんは作家志望っしょ? だったらシオちゃん、どこがキレるトリガーになるか、わかんねーし。万田センセー仕込みの独善的倫理観マジウゼえ」
「ぐう」
 ちなみに部長は、色々あって僕の恩師を嫌っている。
「で、メイちゃんにミーちゃんのこと教えてもらってるうち、面白いけどヤベー子っぽいなーって。だから昨日シオちゃんが連れてきたとき、超ビクッたもん。あー、例のパーカーの子だーってさ」
「いや全然ビビってるかんじじゃなかっただろ。……それに、楓の言うことなんて当てにならないよ」
 アイツのことだ。独断と偏見まみれの人物評にちがいない。
「んー、それはたしかに。……つーか、あんまりメイちゃんが庇うから、逆にミーちゃんのこと警戒してたとこあんだよね。ほらメイちゃん、真面目な上に面食いじゃん? そのせいか、すぐコロッと騙されるしさ」
「ああ、うん。あったね」
 僕は楓の歴代の恋人たちを思い浮かべた。どいつもこいつも、顔はいいが一癖も二癖もある女子ばかり。
「そこを加味したミーちゃんのイメージってさー。アタシ的には、気弱なのに急に飛びかかってきそうなかんじだったんよ。言ってみればシオちゃんタイプ。あ、直に会うまではね?」
「僕を普段どんな目で見てるんだ」
 身に覚えがあるため、どうしても語気は弱くなった。
「それで、実際に会った感想は?」
「んー……フツー? あ、たぶん眼鏡外すと、もっともっとスゴくかわいい」
 その辺はすべて同意見なので、僕は軽く頷いた。鳥川魚美は普通の子。きっと初日のイカれた挨拶は、はっちゃけようとして失敗しただけ。そして黒ぶち眼鏡は似合っていない。
「けど近くで見たかんじ、アレはわざとゴツいフレーム選んでんのかもね」
「へ? なんで?」
「……まー、女の子には色々あんだよ」
「ふうん」
 意味がわからない。シャイだから人に顔を見られたくないとか、そういうことかな。なんにしろ勿体ない。
「まあ、わかった。そこはいいよ。でも」
 僕は言葉を区切り、彼女の目を見た。
「なんで、わざとバラした、、、、、、、?」
 部長の喉が、こくりと鳴った。
「僕がラノベ作家って。アレ、故意に教えたよな」
 昨日までは取って付けたような仕草に騙され、うっかり口を滑らせたものと思い込んでいたけれど。時間を置いて振り返ると、この人はあのとき明らかに、自ら進んで暴露していた。
「あー……ゴメン」
 またもや部長は即座に認める。しかし先程より、ずっと気は重そうだ。
 僕は無言で彼女の言い分を待った。この件について、少し怒っていたから。
 別に、絶対の秘密ではない。その上、バラした相手は完全無欠のぼっち女子。吹聴されるリスクは低いだろう。それでも、大事な幼馴染みに信頼を裏切られた気分だった。
「でもアレは、ホントに悪気があったわけじゃなくって。……わざとっていうより、気づいたら舌が止まんなくなってたっつーか」
「……それにしたって迂闊すぎるよ」
 そうなじると、彼女は僕にしなだれかかり、頭をこちらの肩へコテンッと倒してきた。
「ヒー姉?」
 透けるような蜂蜜色の髪が溶けて流れて、袖にかかる。そして黒木田のものとはまた別の、馥郁ふくいくとした匂い。さらには二の腕に伝わる、あたたかくて柔らかくて幸せな感触。ふいに喰らった至近距離からの絨毯爆撃で、意識が遠のきそうだ。
「自慢したかったの」
「……自慢?」
 僕はぼんやり訊ねた。
「シオちゃんのいる教室で。作家志望者って、ひけらかしてるような子に。会う前から内心イラッと来てたのかもね。それで、『ここにもっとスゴいのがいるぞー』って言ってやりたくなって」
「あー……それは。どうも」
 ただでさえ頭がふわふわしてきたところ、気恥ずかしさや申し訳なさが相まって、まともに返事ができなかった。
 師匠である万田凛という例外を除けば、この人は。小説家志望者だった僕を、一番応援してくれていた人だから。
「でも僕だって別に、褒められたものじゃないよ」
「そう? アタシは好きだよ。いま書いてるシオちゃんのラノベも」
「……ありがとう」
「じゃあ、許してくれる?」
「……いいけど」
「ありがと」
 部長はこちらの袖をやさしく掴んだ。つづいて、上目遣いに僕を見る。潤んだ双眸。輝く髪。眩しい小麦色の肌。ふっくらした唇。澄んだ芳烈な香り。それらがゼロ距離にまで迫る現状は、まるでラブシーン突入直前。
「ヒー姉」
「動かないで」
 痺れるような声色せいしょく。それだけで僕は微動だにできなくなった。
 ほかに誰もいない部室。閉めきられたカーテン。壁一枚隔てた先には、楓を含めた茶道部員。同じような状況は、いままで何度もあった。だけど、こんな空気は初めてだ。
 緊張、興奮。期待感。そして背徳感。膝が震える。胸の鼓動が騒がしい。丹田まわりが熱くなる。一体なにが始まるんです?
 部長は掴んでいた袖を軽く引いた。次いで、よじ登るようにして、唇をこちらの耳元へと近づける。湿った吐息が耳朶に触れ、僕は堪らず身震いした。そのくせ怖気づき、顔を相手に向けることもできない。
 やがて伝わる、ぴちゃっという、ぬめった音。彼女は僕の外耳に舌を這わせていた。生涯初の感触は柔らかく、あたたかく。そして少しザラついている。
「ひっ、ヒーね……ひい」
 僕はされるがまま。それでいて全身を揺すっていた。衝動の持っていき方がわからなかった。
 青天の霹靂。今日このまま、イケるところまでイケちゃうんだろうか。本気でそう思った。この人は僕をいつも弟扱いするけれど。中一の春、あっさり袖にされたけれども。もしかして、ワンチャンある?
 しかし次の瞬間、ガリッという硬質な音が、耳どころか頭の奥にまで響いた。
「いってえ!」
 甘噛みではない、マジの噛みつき。思春期男子の淡い期待を粉砕する一撃だ。凶悪ボクサーの反則みたいなやつ。
「いっ……な、なにすんの」
 僕は立ち上がり、彼女から距離を取る。手で耳を押さえて確認。かろうじて血は出ていなかった。
「お仕置きだよ」
「お、お仕置き?」
 さっきの潤んだ瞳が嘘のよう。部長は白けた顔で僕を見ていた。
「シオちゃんのことは応援してる。昨日のことは悪かったと思ってる。……でもさ! それでも、ミーちゃんのこと少しも助けてこなかったってのは。お姉ちゃん、ホントにガッカリだよ」
「……ああ」
 また、その話か……などと、うんざりはしない。僕は一ヶ月以上、かよわい女子のピンチをすぐ隣で放置してきた。自分なりの理由があったとはいえ、姉貴分に失望されるのも、責められるのも当然だ。
「反省はしてる」
 みっともない。不甲斐ない。重々承知。だから言い訳はしない。
「まー、気持ちはわかるんだけどね」
 意外にも部長は、あっさり普段の軽い調子に戻った。この人のことだから、てっきり説教が始まると覚悟していたのに、拍子抜けだ。〈お仕置き〉で気が済んだのだろうか。あるいは、僕に同情しているのか。
「それでも、ちゃんと悪かったと思ってるんならさ。償い代わりに、しっかりミーちゃんの手伝いしてやんなよ?」
 僕はおずおず、再びソファに腰を下ろす。
「わかってる。今朝、鳥川さんから原稿も受け取ったし」
 都合により、締め切りは少し先にしておいたけれど。
「あー、メイちゃんから聞いたわ。なんか朝っぱらからイチャイチャしてたって。原稿の話だったんだ」
「……あの面食い毒舌リーク女」
 朝のやりとり、楓にも見られていたのか。
「まー面食いっつったら、シオちゃんも負けてないけどね」
「そそそ、そんなことはない」
 身に覚えがありすぎて、声が震えてしまった。
 部長はにんまり、意地の悪い笑みを浮かべる。
「シオちゃん、クラスでは〈顔のいい女としか話さないクズ男〉って有名らしいじゃん」
「……完全に初耳なんだけど」
「これもメイちゃん情報だよ」
 メイプルあの野郎。
「だからアイツの言うことなんて」
「いっつもスズちゃんとばっか話してんだって?」
「ぐっ」
「今朝はミーちゃんとイチャついて。で、部活の顧問は担任のコヤギちゃん。そんで放課後、しょっちゅうアタシとふたりきり。情報通りじゃん。ヤバッ、こわっ」
「ぐうう」
 ちゃっかり〈顔のいい女〉枠に自分も入れているところが、いっそ清々しい。まあ、その通りだけど。
「もうちょいさ、まわりの空気読むなり、性欲抑えるなりしときなね? 男女ともに嫌われるよ?」
「……女子高生が、気安く性欲とか言うな」
 ドキッとしちゃうだろ。
「別に話し相手を顔で選んでるわけじゃない。たまたまだよ」
 部長はカラカラ笑い、僕の弁明を受け流す。
「でもウケるよねー。シオちゃんなんて、コヤギちゃんみたいな大人の女性からしたら、確実に守備範囲外っしょ。そんで昨日、ミーちゃんには気味悪がられて。残りのふたりには、中学時代にフラれてやんの。なのにナンパ野郎扱いされててマジかわいそう」
「……本当にそう思うなら、この話やめてくれ」
 そもそも鳥川さんに気味悪がられたのは、半分くらい部長のせいなんだよなあ。
「スズちゃん元気? お互い気まずくない?」
「だ、黙れ」
 そういうアンタはどうなんだよ。
 げんなりする僕に対し、部長は満足げに微笑んだ。
 ああ、ここまでが〈お仕置き〉だったわけか。
「さて、今後の文芸部の活動についてだけど。当面はミーちゃんのバックアップね。昨日決めた。アタシが決めた」
「……僕はいいけど。その場合、ヒー姉はなにを?」
「もちろんアタシは、シオちゃんが暴走したときのストッパー。……わかるっしょ?」
 そんなことを真顔で言われたものだから、僕は少しムキになった。
「こっちだって、いつまでも子どもじゃないんだよ。もう感情のコントロールくらいできる」
「いやいやいや。昨日もだけど、小説絡みだとソッコーで悪いスイッチ入るじゃん。全然ガキじゃん。童貞じゃん」
「最後は関係ねえ」
 先刻どぎまぎさせられた上で、そこを弄られるのは精神的に来る。キャラキャラ笑う彼女にいつか吠え面をかかせてやろうと、僕は固く心に誓った。
「まー、とにかく。もうミーちゃんも、アタシのかわいい後輩だからね。いじめたら承知しねーぞ?」
 冗談めかして警告してくる幼馴染み。僕は苦笑した。
「大丈夫だよ。僕は女子を泣かせたことは一度もない。女子に泣かされたことは何度もあるけど」
「……自慢げに語ることじゃないよねえ」

 部長と別れ、マンションへ帰り着いたのは午後六時過ぎ。僕が部屋のドアを開けた瞬間、タイミングを見計らっていたかのように固定電話が鳴り出した。ディスプレイに表示されたのは、この部屋の持ち主であり僕の恩師でもある、万田凛の実名。しかし、これには出なかった。なぜなら、時は五月半ば。大相撲夏場所の真っ最中だったからだ。彼女の推し力士が数日前から休場していることはチェック済み。部長以上に傍若無人な師匠のことだ。うっかり電話に出たら、憂さ晴らしの無理難題を吹っかけてくるに決まっている。だから、いまのところはスルーが無難。もし大事な用件であれば、かけ直してくるだろうし。
 師匠か。
 飲むゼリーで栄養補給を済ませ、パソコンを立ち上げている最中。ふと思いついたことがあった。
 いままでのやりとりから推し量るに、たぶん鳥川魚美は結構バカ、、だ。
 入学初日の僕の自己紹介を覚えていたっていう話を鵜呑みにするなら、記憶力はいいのかもしれない。授業中も、淀みなく鉛筆を走らせているし。
 だけど大概の言動が浅はかすぎる。迂闊すぎる。
 きっと、お勉強はできるけどってタイプじゃないかな。一方で要領が悪く、融通が利かない。結果、人の話をすぐ真に受ける。額面通りに受け取ってしまう。
 いかに有望であろうと。このタイプに僕の担当編集さんのような気の利いた助言をしても、十全には伝わらない気がする。もっと師匠みたいに。いや、そこまで凶悪でなくても。率直に、委曲を尽くして問題点を指摘した方がいいだろう。
 一時のアドバイザーとはいえ。他人の作品を批評するなんて、師匠からの課題を除けば初めてだ。だから、恩師のやり方を真似するくらいで丁度いい。
 よし。自分の改稿作業と中間テストの後。原稿を読み終えたら、鳥川さんには万田凛式のコメントを送ろう。
 このとき僕は、純然たる善意でそう決めた。
 まさか、そのせいで数年ぶりに幼馴染みからシメられることになるとは思わなかった。


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