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「優しさ」を認められる人でありたい

先日、こんなツイートをした。

証明できないことを安易に決めつけたくない

生まれつき「優しい」人がいるのなら、生まれつき「怒りやすい」人がいることになる。

でも、そんなの証明のしようがない。
赤ちゃんを見て「うん、この子は優しい子になる」と思うのは残念ながら大人の妄想だし、「怒りん坊」になると思う大人はいないことだろう。

ではなぜ「あの人が優しいのは生まれつき違うんだよね」なんて言葉が出てきてしまうのだろうか。

それはきっと、世の中の多くの人が「優しくない」「怒ってばかりいる」「不機嫌な表情をしている」からなのだろう。
優しい人は少ないから「生まれつき違う」なんて安易な答えを導きだしてしまう。

でもそれは、その優しい人の歩んできた人生を否定しているのではないだろうか。
僕はそう考えてしまう。

選んだことの積み重ねで「性格」は形成される

「性格」または「人格」は、その人が生きてきた道のりの中で選択してきた結果として形成されるものではないだろうか。

それは本人が意識したもの、無自覚に選択したものも含めて。

優しい人は、優しくあることを選び
怒りん坊は、怒ることを選んでいる。

これを読んで
誰も怒りん坊になりたくて怒っているわけではない!
と思われるかもしれない。

でも、思い返して欲しい。
誰も貴方に向かって「怒る」ことを指図しているわけではないのだ。
あくまで「怒る」ことを選んでいるのは自分自身。

アンガーマネジメントが出来ていないわけである。
その結果として怒りん坊な性格が形成されてしまっているわけだ。

それと同じように優しい人は、誰に指図されるわけでもなく「優しい人」であり続けている。

優しい人を認めること

自分のことでいっぱいいっぱいで、自分の機嫌すら自分で取れない大人が実に多い。

仕事に追われている
家事に追われている
子育てに追われている
日々のタスクに追われて、自分の時間を取ることもできない

痛いほど分かる。
僕も似たようなものだから。

それでも、その忙しさを理由に「優しさ」を失いたくない。
そして「優しい人」の裏にあるものを認めたい。
それはその人の生き方かもしれないし、努力なのかもしれないし、無意識なのかもしれない。

不機嫌な人に物事を頼むより、いつも穏やかな人に頼んでしまう。
そんなことをしていないだろうか?

ただでさえ疲れているのに、不機嫌な人に頼み事をして嫌な態度を取られたら余計に疲れる。
その気持ちは分からないでもない。

でも、そうして知らず知らずのうちに「優しい人」に甘えることで、その人を追い詰めてはいないだろうか。
一度立ち止まって考えて欲しい。指示を出す立場の人は特に注意する必要があるはずだ。

僕は「優しい人」が羽を休められるような存在になりたい。
スポンジのようにストレス吸い込んでしまった心に寄り添い、ストレスを抜き出して、また自由に羽ばたけるように見守る存在でありたい。

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