非常停止ボタンの手触り

先日、生まれてはじめて電車の非常停止ボタンを押した。大学からの帰り路、下り線の発車を待っていたときのことだ。

私は座って本が読みたかったので、次の電車を待つことにして、ホームの中程でぼうっと立っていた。ホームにいたのは私ともうひとり、スーツ姿の男性だけだった。電車の発車を知らせる構内アナウンスとおきまりのメロディが流れはじめ、さてそろそろ出発するぞ、という段になって、眼の前で電車に乗り込もうとする姿があった。その女性は白杖をついていた。閉まりかけるドアが見えていなかったのだ。

電車のなか、扉付近に立っていた人々はスマートフォンから顔をあげ盲目の女性を眺めて、あるひとは心配そうに眉をひそめ、またあるひとは連れ合いの肩を叩いて指で示した。しかし、誰も彼女に声をかけようとはしなかった。まずいと思う間もなく、手探りでホームとの隙間を確かめていた白杖の先端が扉に飲み込まれた。異変に気づいた盲目の女性はホーム側に立ちすくんですぐに杖を引いたが、ちょうど杖の先端が怪我防止のため丸く膨らんでいるのが災いして、外れる気配がない。

一も二もなく飛び出していた。

考えるより先に体が動いて、白杖にとりかかる。二人がかりで引けば杖も外れると思っていた。まったくの誤算だった。恥ずかしながら、白杖も松葉杖やステッキと同じ「硬質な一本の棒」だと思い込んでいたのだ。実際は違った。中ほどを摑んで強く引いた途端、組み立て式の筒状の胴体が数箇所にわかれてぐにぐにと崩れ、手応えを喪った。むろん先端は飲み込まれたままだ。

電車はいまにも発車しようとしていた。

私は盲目の女性に待っているよう声をかけ、最寄りの非常停止ボタンに走った。いま押さずしていつ押すのだ、と赤いボタンに人差し指を突きこんだ。迷っている暇はなかった。

(ところで、みなさんは非常停止ボタンを押したことがあるだろうか。押したことがない方のために記しておくと、あれはものものしい外見に反して、じつはふかふかしていて押しごたえがない。綿を敷き詰めたところにプラスチックの薄板を乗せ、それを押すのに似ているのだ。そんな手触り。)

ホームの頭上にある小型の丸い電光掲示に、黄緑を背景にして赤が点々と光る警告灯が点き、ホームには微妙な沈黙が流れる。女性の元へ戻った私は、今度こそ杖の先端部を摑んで力を込めた。白杖はあっけなく外れ、少し時間をおいてから、気の抜けたように非常停止信号を受けた電車の扉が一斉に開いた。乗客たちの視線が、私と白杖の女性に向けられていた。

女性も気が動転していたのだろう、「私わからないのよ、目が見えないから。わからないの」と唱えながら何処かへ消えてしまった。お礼はなかった。

三人の駅員が詰め寄ってきて、「非常停止ボタンを押されたのはどちらのお客様ですか」と言うから、私の横で待っていた男性が「この人です」と私を指して、当の自分は逃げるように別の乗車口へ行ってしまった。彼は最後までイヤホンを外さなかった。私が膝をついて白杖と闘っているあいだも、非常停止ボタンを押して戻ってきてからも、ずっと。

駅員たちははじめこそいぶかしげな顔をしていたが、事の顛末をきちんと話して納得すると、口々に「押していただいてありがとうございました」「本当に助かりました」「怪我人が出なくてよかったです」と頭を下げてきた。気恥ずかしいような、すこし誇らしいような、不思議な気持ちだった。


なすべきときに、打算もためらいもなく、なすべきことができる。やればできるじゃないか。自分との信頼関係というのは、あんがいこういうときに芽生えるのかもしれない。今回の一件で、私は思いがけず自分を見直した(えっへん、どうだい自慢だぞ)

と、同時に、思うのだ。

たとえばホーム側でなくて、電車のなかから他の乗客たちと一緒に白杖が引っかかったのをみていたとしたら。たとえば目の前の乗車口でなくて、ひとつふたつ離れたところで女性が引っかかっていたら。たとえばどうしても行かねばならない急ぎの用があって、一秒を惜しむほど気が急いていたとしたら。

はたして自分は、おなじように行動を起こせたんだろうか、と。見て見ぬふりをした(結果的にそうなってしまった)周りの乗客に憤るのは簡単だ。けれども、各々にそれぞれの立場があることを忘れてはいけないと思う。もしかしたら声をかけようにも気恥ずかしくて声をかけられなかったのかも知れない。もしかしたら、私がすぐに手を差し伸べたので自分が行く必要はないと思ったのかもしれない。大切なのは、自分がどう振る舞うか、振る舞いたいかを自分で決めることだ。自分が納得できるあり方で居ればいい。

自分の行動に迷ったとき、私はときどきあのときの非常停止ボタンを思い出す。あのふかふかしたとらえどころのない手触りが、それでも頼もしく、自分のありように深くうなずいてくれる、そんな気がするのだ。