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【二次創作】花譜「不可解」

KAMITSUBAKI STUDIO所属のヴァーチャルシンガー・花譜さんの日本武道館ライブ開催を記念して、花譜さんの曲「不可解」をもとに二次創作の小説を書きました(公式のものではなく、あくまで一個人の創作です)。拙筆ではございますが、これまでの感謝の気持ちを込めました。ライブの成功を心よりお祈り申し上げます。

「これは魔法よ」

乃々葉ののはが言った。青色のフードから流れる髪の毛が夏の風にたなびいて、その大きな瞳を覆い隠す。

「これが、君の言う《未観測情景》なのかい?」

太陽が沈んでいくビルの屋上で、僕は乃々葉の横顔に問いかけた。だいだい色の残光はすうっと消え失せて、辺りは薄闇に包まれる。渋谷の街は人の波でひしめき合い、都会の海を形づくる。

彼女の視線の先には、見慣れた、何の変哲もないビル群がそびえ立っていた。けれども、今日ばかりは様子が違う。その変化に気がついた人々が、帰宅の足を止めて、ビルの壁面に映る《影》を指差しはじめた。

「気づいたみたいね。みんな驚いてる」

心底愉快だというように、乃々葉は笑った。人々が驚くのも当然だ。まるでビルの壁面を「泳いで」いるかのように、巨大な黒いクジラたちの影が、縦横無尽にうごめいているのだから。

彼女はまだ笑っていた。この日のために、どれだけの時間と労力を割き、どれだけの人間に協力を求めたのか、僕には見当もつかない。

唯一の肉親だった母親を突然に亡くし、その後高校を中退した彼女が、これまで決して生易しい道を歩いてきた筈がなかった。幼馴染の僕にも、そのことを根掘り葉掘り尋ねることは、躊躇われた。

***

―この気持ちは、寂しいとか、愛しいとか、そんな言葉じゃ表せないの。

乃々葉の中退を告げられてから数日後、僕は校庭の裏側に呼び出された。金木犀の香りが立ちこめる、ある日の放課後だった。色づいた銀杏 いちょうの木々が風にざわめき、彼女の制服のスカートが弱々しく揺れる。

乃々葉が二、三歩ほど近づくと、甘いシャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。

―そんな私でも、愛してくれる?

先に伝えられてしまった。そう思った。

心の準備なんて、できていなかった。

いや、「心の準備」に気がついている時点で、本当はこうなることを予測すべきだったのだろう。

でも、このときの僕は、乃々葉の言葉を信じることができなかったのだ。

乃々葉は、度重なる不運に見舞われて、キャパシティを超えてしまったのだろうと。自分ではどうすることもできなくなって、心の空白を埋めようとした、それゆえの告白なのだろうと。

十七歳の背中には、あまりにも重たい愛。

愛されることが、どうしても怖い。

どくん、どくんと、心臓が気味悪く脈打つ。
負荷に耐えきれなくなった心臓は、彼女の告白を、冷酷に拒絶した。僕は答えた。

―君が、僕を好きになるはずがない。いちど頭を冷やして、よくよく考えるんだ。いまは大変な時期だから、僕のことは忘れてほしい。その方が、きっと君のためになる。

強引に話を中断させて、僕は無我夢中で走った。彼女の強い視線を感じたけれど、後ろを振り向くのが怖かった。狡い、狡い、狡いと、何度も自分を呪いながら走った。

僕は逃げたのだ。

彼女の背負った境遇も、告白の疼きも、この先に彼女が味わうだろう苦しみからも、僕は逃げた。

僕に向けられた愛の告白を「間違い」だということにして。

保身を図るためだけなのに、体裁よく「君のためになる」なんて言い訳をして、取り繕って。

涼しい秋の夜だというのに、家に着いたときには汗が止まらなくなっていた。玄関の前で荒い呼吸を整えている僕を、美しく巨大な満月が物々しく見下ろしていた。狡い、狡い、という声が耳のなかで響いて離れなかった。

それから高校を卒業し、大学へ進み、いまの会社に勤めるまで、乃々葉とは一切の連絡を取らなかった。スマホに登録した彼女のSNSのアカウントも、他のアカウントの中に埋没していった。

両親や、ゼミで知り合った仲間たちには過去を話さなかった。話せば、あまりにも自分が情けなく思えた。それでも、夜にひとりになったとき、途轍もない罪悪感に潰されそうになる僕がいた。乃々葉とあんな別れ方をしたかった訳じゃない。高校を中退せざるを得なくなった彼女に、気の利いた言葉をかけられなかった自分が大嫌いだった。「愛してくれる?」と言ってくれたのだって、彼女が人生で初めてだったのだ。それなのに、僕は…。

謝った方がいいだろうか。彼女はいま、きちんと生活することが出来ているのだろうか。そんなことを考えて、彼女のアカウントにタップするときもあった。だが、上手い言葉が見つからないまま指が止まってしまい、結局は辞めてしまった。

だからこそ、突然、乃々葉のアイコンが画面に上昇したときは、心臓が止まるほど驚いた。

―八月二十四日、午後六時。XXビルの入口に来て。

慌てて承諾の返信すると、すぐに既読がついて別のメッセージが浮かび上がった。

かおるの度肝を抜くような、《未観測情景》をみせてあげる。

***

「変わらないね、薫は」

ビルの壁面を泳ぐクジラたちを見下ろしながら、乃々葉は屋上の手摺にもたれて目を細めた。

「せっかく女の子から誘ってあげたのに、気の利いた言葉ひとつ言えないんだもん」

僕は胸の痛みを覚えたが、このまま素直に負けを認めたくもなかった。

「話したいことは山ほどあるよ。でも、その前に。このクジラたちは一体?」

はらり、と乃々葉はフードを外した。艶やかな髪の毛が舞い上がって、僕は生唾を飲む。

髪の毛だけじゃない。整った目元も、上品な化粧も、お洒落な腕時計も、肩に下げたブランド物のバッグも。

僕の知る《女の子》は、いつのまにか、歴とした《大人の女性》となって、僕の隣に立っていた。

時間が止まってしまったのは僕だけのような、そんな錯覚にさえ陥る。

「このクジラたちは、私にとっての《魔法》よ。認めたくない、信じたくもない、この現実や社会に刃向かうための、《魔法》」

刃向かう。
魔法。
乃々葉には、この世界がどんな風に見えているのだろう。

ビルの真下、人だかりが出来ている辺りを、彼女は手のひらで示した。見下ろすと、数人のチームを組んだ男女が機材を囲んで作業している。

「乃々葉の、仲間?」

「ええ。私の観たい世界を具現化させるために集まってくれた、心美しき《魔法使いたち》よ」

プロジェクションマッピング。
そう彼女が呟いてくれたお陰で、僕にもクジラたちの正体がようやく理解できた。

要するに、これらクジラたちは精巧に造られた映像作品なのだ。専用のソフトを用いて3Dモデルを描き、それをビルの壁面に投影しているのである。

《魔法使いたち》と呼んだ男女は、そのハイレベルな技術をもったチームなのだと、乃々葉は教えてくれた。

クジラたちは、実に自由に、滑稽に、悠然に、都会の夜を泳ぎつづける。クラシック、童謡、流行りのJポップ等のBGMに合わせて、バリエーションに富んだパフォーマンスを披露する。

この遊泳に、どれほどの価値があるのか、僕には分からない。もしかすると価値なんて言葉すら、不適切かもしれなかった。クジラたちは、ただそこに《存在》していた。神秘的で、力強く、美しかった。それが全てであるようにも思えた。

お金とか、ビジネスとか、効率とか、いかに速くモノやサービスを提供するかの競争に明け暮れる、都会そのものを嘲笑うかのように。

クジラは全部で三頭あった。海を模した青い光が、その影をキラキラと取り巻いている。初めは、三頭それぞれが不規則な動きをしていたのだが、ゆっくりと、泳ぐ方向を揃えはじめた。

BGMに呼応して、複数のビルを跨ぐように、大きな円を描いていく。あるときは時計回り、あるときは反時計回りと、泳ぎ方はランダムに変わった。だんだんとそのスピードが加速していき、青い光が輝きを強める。回転が進むにつれて、それまで濃紺色だったクジラたちが複雑な光彩を帯びる。

BGMが一旦止む。
次に聞こえてきたピアノの音に、全身から鳥肌が立つ。
高音で、不穏で、それでいて懐かしさを伴った、ピアノの前奏。

「この曲」

そう僕が呟くと、乃々葉はにんまりとこちらを見た。

「懐かしいでしょ。薫が高校生のときに作った曲」

自分の曲だというのに、本当に久しぶりに聴いた。音楽家になりたいという夢を追いかけて、ひたすらに楽譜と向き合って作った、思い出の曲。

タイトルは、

「《ホエール》。いい曲だよね」

心なしか、彼女の口ぶりから大人らしさが影を潜め、高校の頃のような柔らかい口調に変わっている。

心臓が飛び出すほどに高鳴っている。僕は乃々葉の言葉を重く受け止めるように、ゆっくりと答えた。

「だから、投影する映像をクジラにしたんだね」

長らく弾いていなかった曲でも、この手が、耳が、曲の展開を覚えている。自然と指が、手摺をピアノの代わりにして叩いてしまう。
アップテンポに盛り上がっていく旋律に合わせて、クジラたちの光量が増幅する。身体の輪郭がぼやけて、もはや元の形さえ判然としない。

「この光は」

乃々葉はこちらを見ず、言葉を零すように言った。

「お母さんが死んだときの、私の心のなか」

彼女の横顔は、微動だにしない。

「不思議だった。悲しいはずなのに、寂しいはずなのに、まったく涙が出なかった。大好きで、私のことを愛してくれた人が突然いなくなって、勉強も部活もやる気がしなくなって。私が、私でなくなったような気がした。生きるって何、死ぬって何、なんていう疑問を延々と考えていた。当たり前のことを、当たり前だと思えなくなった私は、普通の人間じゃないとさえ思った。でもなぜか、そんな情景が、妙に綺麗だと思ったの」

「綺麗…」

やがて人工の光が、巨大な渦となって拡がりをみせた。街の人々は固唾を飲んで、この予測不能な情景を見守っている。

ピアノの伴奏に合わせて、その渦が激しく回転する。宇宙に浮かぶ銀河のように、明滅と変容とをくりかえしていく。

やがて光は、宇宙の中心に向かって凝縮され、一気に弾け飛んだ。僕も乃々葉も、街の人々も、その光線に目を瞑った。

ピアノが最後の一音を奏でて、止まる。
僕はそっと目を開いて、息を飲んだ。

《花》だ。

巨大な花が一輪、ビルの壁面に咲いている。

プロジェクションマッピングが人工的な技術だということくらい、もちろん知っている。それでも、ビルの壁面を一枚の《画面》にした花の姿は、あまりにもリアルだった。

光沢感のある花びらや、風に揺らめく枝葉、雄蕊おしべ雌蕊めしべの質感に至るまで、実に精巧に描かれている。

人々も、あちこちで感嘆の声を上げていた。

「美しい!」

そう僕が叫ぶと、乃々葉は、満足げに頷いてみせた。

「薫の『美しい!』って言うところ、もう一回見たかった。すっごく人間らしいからさ」

人間らしい、という言葉に、僕もつられて笑った。確かに高校生の頃は、何かにつけて「美しい」を連発していた記憶がある。

「これが、君が見つけた《魔法》なんだね」

今夜初めて、彼女の顔をしっかりと見つめながら言った。上手く言葉に表せない感情が、胸の底から湧き出てくるのを感じていた。

「あのさ。聞きたいことがあるんだけど」

乃々葉が神妙な顔つきになって、こちらに問う。

「薫は、音楽家になる夢、辞めたの?」

「ああ。それは」

気まずくなった僕は、黙ってつむじを掻いた。同窓のメンツにでも聞いたのだろうか。

大学の途中で、僕は音楽を辞めた。
乃々葉には、知られたくないことだったのだけど。

「まあ、そうだよ。なんだかんだ言っても、音楽は、売れないと食べていけないから」

ごめん、と謝ろうとしたとき、

ガツン!

と脳天を強くぶち叩かれた。

「バカ!」

珍しく乃々葉が怒っている。いや、一筋の涙さえ、彼女の頬を伝っているのが見えた。

「あきれた! ご両親とも健在で、成績優秀で、有名大学まで出してもらって、それで『音楽は売れないと食べていけない』ですって! あきれた! あんなに音楽を作ることが好きだった男が! 音楽を愛していた男が!」

男という言葉をやけに強調してまくしたてる。

完敗だった。

人間としても、男としても、目の前に立つ女性ひとりには、到底、敵わない。

彼女は、どれだけ不遇な状況に置かれても、夢を見ることを諦めなかった。きっと血の滲むような努力と、挫折とをくりかえして、この夜空に《花》を咲かせるに至ったのだ。

収入や世間体、両親の意向に従って、簡単に音楽を諦めた僕とは、根本的に違う。

怒りで肩を上下させていた乃々葉は、表情を強張らせたまま、しかし少しだけ恥ずかしそうな口調で言った。

「薫のせいなのよ」

「え?」

薫のせい、という言葉に、どきりとした。あの告白の日に、きちんと気持ちを受け止めずに逃げたことを、責めているのだろうか。重たく抱えてきた罪悪感が頭をもたげて、背中から冷や汗が吹き出る。

しかし、彼女は意外なことを口にした。

「私が、ここまで頑張ってこれた理由」

「理由…どうして」

「夢や希望は、待っていても来てはくれない。自分の手で獲りにいくもの、自分の描きたいように生み出していくもの…そう私に教えてくれたのは、薫よ」

確かに、そんなナルシストみたいなことも言ったかもしれない。僕もだいぶ青かったのだ。穴があったら入りたいとは、このことだ。

「お金も生活も、もちろん大事なことよ。でも、そういうものに縛られない、もっとやりたいことが音楽じゃなかったの? 決められた人生のレールに乗っかるだけで満足するような人だったら、音楽なんて作らないでしょ?」

彼女の言葉は、きりのように僕の耳を貫いていく。

夏の都会に一夜かぎり咲いた花は、終わりの時が近づこうとしていた。ひとつ、またひとつと、柔らかな花びらが舞い落ちて消えていく。

きっと、あのときに伝えるべきだったことのツケが、今頃になって回ってきたんだろう。

愛されることが、どうしても怖い。
愛することは、もっと苦手。

だが、彼女と、彼女の仲間たちが創り上げた《魔法》は、しょうもない心の弱さすら吹き飛ばすほどの、熱意と美しさに満ちていた。

伝えるなら、いましかない。
きっと、これが最後のチャンスだ。

「そのとおりだよ、乃々葉。あのさ…。あのときは、逃げたりして、ごめん」

深々と頭を下げる。面を上げると、乃々葉の瞳が溢れそうなくらいに揺れている。謝られるとは思っていなかったようだ。

「僕は最低な人間だ。せっかく気持ちを伝えてくれたのに、それを受け止めようとしなかった。君のためだとか言って、結果的に君を傷つけてしまった」

逃げた過去は変えられない。許してもらおうとも思っていない。せめて、ひとりの人間として、伝えるべきことは伝えなければならない。

乃々葉は、しばらく黙って、こちらを見下ろしていた。怒っているのか蔑んでいるのか、表情からは何も読み取れなかった。

ふっと、彼女の火照った頬が緩んだ。その場の緊張の糸がほぐれた気がした。

「そんなの、今更よ」

うーん、と大きく伸びをして、フェードアウトする花の映像を名残惜しそうに眺める。容姿こそ大人びて成長しているけれど、大きな瞳は、高校生の頃と変わらず、キラキラと光っていた。

「薫は、もっと素直になるべきよ。好きなものも、嫌いなものも、何もかも薫のものにすべきよ」

やはり、乃々葉は偉大だ。眩しくて、たくましい。そして、美しい人。

「ありがとう」

そして、少し考えた後に付け加えた。

「やっぱり僕は…。音楽、また作ってみるよ」

僕は音楽を作ってこそ、生きたいと思える。生きていると心から感じられる。今度こそ、真に乃々葉のために音楽を作りたい。それがもし、ビジネスとして成功しなくても、もはやどうだっていい。

愛が何なのか、分からなくても。
作曲する意味さえ、不確かなのだとしても。

僕の信じたい世界を、描きたい。

乃々葉は腰に手を当てると、大きく頷いて言った。

「良い音楽、期待してる」

「ああ」

この気持ちは、何だろう。温かいような、苦しいような、切ないような、許せないような、愛おしいような。

この小さな身体に渦巻いている不可解な感情こそ、きっと僕が人間である唯一のあかしだ。

夜を満たしていた映像の明かりが完全に消えた。代わりに、いつもの都会を照らす街灯や電光掲示板、自動車のライトが、現実の世界へと人々を引き戻す。

それでも、映像を見た人々は立ち止まったままだった。もっと夢を見ていたい。もっともっと楽しませてほしい。そんな切なる想いが、壮大な拍手となって街を覆い尽くす。

唐突に乃々葉は、僕の方へ駆け寄った。あの秋の日のときよりも速く、そして大胆に。

「ありがとう」

僕らはキスを交わした。これまで隔てられた空白の時間を、切なくも埋め合わせるように。

「きっと、これも《魔法》よ」

鳴り止まない拍手が、熱を帯びた都会の夜を、いつまでも祝福していた。

〈完〉

オリジナル:「不可解」
歌唱/花譜
作詞・作曲・編曲/カンザキイオリ

https://www.youtube.com/watch?v=NDOJZSG9SPU

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