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5.たぶん運命の出会い

乳白色の朝日がカーテンを柔らかく照らしている。薄い雲のヴェールに包まれた空の下を鳶がゆっくり旋回する。気温がぐっと下がったせいで、エルは毛布から這い出るのがとても億劫だった。

肌を引き締めるほど冷たい空気のなか、エルは汚れた下着を脱ぎ捨てた。角ばった細身のシルエットが暗やみにうごめく。肉体に刻まれた生々しい傷痕は、アラベスクにも似た幾何学模様を作っている。

清潔なシャツに着替えたあと、エルは家政婦のベガから支給された図書館職員の制服に袖を通した。動きやすいラカイユ麻で織った群青色のブレザーに、生成り色の作業ズボン。さらに職員専用の懐中時計のおまけつき。どんだけ金があるんだかと呟きつつ時計をしまうと、カバンを肩に提げて玄関へ向かった。

木製のドアを開けたとき、エルはぎょっとして反射的に後ずさった。

「なんだこの視線……」

あちこちから視線が彼の部屋に集まっていた。そっとドアの隙間から外を窺うと、他の寮生が好奇や嫉妬の眼で見ているのが感じられた。考えてみれば昨夜はちょっと強引すぎたかもしれない。裏口就職もいいところの手段で名門神学校の職員になったのだから、怪しまれても文句は言えまい。

「俺、目立っちゃだめなんだが」

気を通り直してエルは襟を正すと、勢いよくドアをあけた。次の瞬間、ガツンと岩の砕けるような音が響き渡った。

「いってえ! ……ったく、何すんだよ!」

廊下に出ると、二十五歳くらいのソバカスの青年が鼻を抑えてうずくまっている。

「あ、ああ。すまん」

動揺しながら謝ると、相手は短い首を子犬のように震わせた。

「すまん、じゃねえよ! この神秘的でアルカイックなご尊顔が目に入らねえのか! 鼻がつぶれたらどうしてくれる!」

「はあ?」

肉づきの良い日に焼けた青年をエルはまじまじと見つめた。どっからどうみても「神秘的」で「アルカイック」な顔だとは思えない。

「なんだ、人を食ったような顔して! はは~ん、わかったぞ。さてはお前、自分よりも整った顔の俺様に嫉妬してるんだな! 館長に金を積んで就職したくせに生意気なんだよこの成金イケメン贔屓ボンボン野郎!」

……こいつの話を聞いてると頭痛がしてくる。自慢したいのか嫉妬したいのか、おそらく両方なんだろうけれど付き合いたくない気持ちが先行して、エルは無言のまま朝礼に向かおうとした。早いところ館長に挨拶を済ませたかったからだ。すると青年は意外にも素早い動きでエルのカフスボタンをつかんだ。

「待て! お前に渡すものがある」

青年は三本指をぐいっとエルの胸に突き出した。見るとの指の間に天秤のデザインが刻まれた銀の塊が輝いている。青年は無理やり手のひらに握らせて言った。

「私立ミレトス学院の校章エンブレムだ。いくらお前が生意気な成金イケメン贔屓ボンボン野郎だとしても、こいつがなけりゃタダの人間にすぎない。わかったか? これは俺たちが生きてくための大事な証さ」

エルは頷いてエンブレムを胸につけた。青年は満足そうな笑顔で眺めると、腹筋の力だけで跳ね上がった。

「俺はダビィ。ここの図書参考係だ。よろしくな」

さらにダビィは、図書館職員のエンブレムは正五角形の縁取りをしているが、教員は正六角形、学生は正方形だと説明を付け加えた。

「あ、ああ。いろいろと助かるよ。俺の名前はエルクルド・エーフォイ。エルと呼んでくれ」

「エルかあ、かっけえ名前だなあ! 俺もそんなのが良かったぜ。家のじいちゃん、古い伝承とかにこだわって俺をダビィと名付けてくれたけどよ、実はあんまり戴けない意味なんだぜ。『屠殺者の幸運』だって」

エルは苦笑しつつ、機関銃のように喋るダビィの後を大人しくついていった。馴れ馴れしいのが気に食わないが、悪いやつではなさそうだ。真新しい五角形のエンブレムの角を指でなぞって、エルは微笑んだ。ダビィは新人の育成係といった役目をハマル神父から命じられているらしかった。

ダビィの饒舌はまだまだ続いた。明日からは朝礼の一時間はやく起きて皆を手伝うこと、学院の生徒への対応は仕事に慣れてからでいいこと、監視役のピーコック先生がおっかないから注意すること……。廊下を歩く間も、女子生徒や先輩職員から朗らかな挨拶を交わしているところ、かなり人好きのする男なんだと察しがついた。

エルにとって、この図書館はしばらく身を隠すための仮住まいだ。強盗事件のほとぼりが冷めた頃を見計らって姿をくらますつもりでいる。だからこそ、「いま・ここ」を上手くやり過ごす必要があった。

初手で目立ってしまったから、図書館職員として仕事に忠実な人間だと周囲に思わせなければならない。

「ダビィの言う、図書参考係って何をする仕事なんだ?」

「そうだなあ。地味でつかれる仕事だぜ。他のとこじゃやってない、面倒なことも請け負ってる」

「それはどういう……?」

「ここの蔵書を駆使して、お客様が知りたいことを代理で調査するんだ。図書館には貴重な古文献から現行の行政文書まで揃っている。先祖の家系図とか地域の歴史とか、あれやこれやと知りたい人がやってくるのさ」

「なるほど。でも、依頼ってそんなにあるのか?」

「あるんだよ、それが。夢に出てくるほど」

「へえ……」

エルが聞き直そうとしたとき、廊下の反対側から二人の女学生がやってきた。ダビィは、幽霊を見たように表情をこわばらせて、エルを空き教室の隅にまで強引に引っ張った。

「急になんだよ?」

「静かに!」

ダビィはそっとドアから女学生の様子を窺っていた。エルもつられて視線を上げると、片方の背の低い少女に目を丸くした。

「眠りながら歩いてる……!?」

背の低い少女、エレナ・ローゼンハイムは白眼を剥いて眠りながらも歩き続けている。隣で歩いているカペラは親友の奇態を不気味がって、できれば他人面していたそうな雰囲気だ。

「昨日、大人しく眠ってればよかったのよ。寮を抜け出したりして」

エレナは返事をするときだけエメラルドの瞳を開けるようだった。カペラを責める口調で小声で言った。

「しーっ! 誰かに聞かれたらどうするの」

「大丈夫よ。それより貴女も、無茶するわね」

「私は無茶だと思ってないわ」

「そういうのを無茶っていうのよ」

「うう……。私は純粋に、ヒーローぶって強盗を倒したやつのことが気になっただけよ。そいつ、絶対ワケありの人生を送ってきたに違いない。行動が命知らずだもの。私がとっ捕まえて、そいつの秘密、洗いざらい吐き出させてやるんだから」

言い切ったあと、エレナは再び白眼になって歩き出した。真横の空き教室で硬直している青年がいることなど、露知らず。

ダビィはほっとして教室を出た。

「やっと行ったか。あの背の低いエレナって子、うちの部署に足繫く通って、厄介ごとを持ち込むんだよ。これを調べろ、あれはどういう意味だ、ってしつこいんだ。でも今、いい弱みを握れたな……。ふふ、こいつは使えるぞ」

エルの耳は、ほとんどダビィの言葉など聞いていなかった。代わりに、深海に沈むような冥い声で、こう尋ねた。

「ダビィ。そのエレナがやって来る時間帯を教えてくれないか」

彼の微かな緑色の瞳には、底知れぬ殺意が滲んでいた。

(つづく)

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