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そして誰も来なくなった File 4

ここ、何処なの?

三十畳はあろうかと思える、冷たくて空虚な場所。梶原美里は、部屋の隅でほのかに光る緑色の非常灯だけを頼りに、痺れた足を引きずりながら歩を進めた。

「たしか、私…」

壁伝いに非常灯へ近づいている間に、数時間前ここに迷い込んだときの記憶がフラッシュバックする。突然、硬直した今藤はじめの顔が目の前に浮かんできて、心臓の動脈がぎゅうと引き締まった。首筋にひんやりした汗が流れだして、呼吸が苦しい。自分がやってしまった行為を悔やんでもすでに後の祭りで、その罪悪感と現実の残酷さに骨が縮む思いがした。

前触れなく起きた停電のパニック。

恐怖に歪んだ今藤の両眼。

意外に軽すぎた彼の体躯。

視界の隅に入ってきた一筋の光。

美里は脳髄に固着した記憶を押し殺して進む。ゆっくり歩くうちに、痺れていた土踏まずが次第に血流を取り戻してきた。大したことじゃないのだけれど、自然と歩けることが美里の心に温かな強さを与えてくれた。非常口の前に立つと、ノブを握って左手でぐいと扉に力を入れる。

「どうか、開いて」

数センチだけ開いて、ほっと安心する。そのまま外へ出て飛鳥を探そう。そして私が知った事実を伝えるんだ。扉の奥へ体を進めようとしたとき、パチンという破裂音がして、左手に鋭い痛みが走った。

「熱い!」

加熱した鍋を押し当てられたような痛感。手を引っ込めて、薄暗いなかでそっと確かめると、左手首に火傷の痕が生々しく広がっている。皮膚が剥けてじんわりと血液がにじみ出てきて、痛いような痒いような感覚に足がすくんだ。非常口の上を見上げると、焦げた線香花火の匂いが漂ってくる。チチチという音が聞こえたので、本能的に扉から退くと、再びパチンと音がして美里の足元の床に傷跡を刻んだ。

「レーザー…」

今藤はじめを仕留めたときといい、このレーザーといい、物騒な仕掛けを館中に仕掛けている謎の人物、ノイ・テーラー。一体、彼の目的は何なのだろうか。流血が止まらない左手を抑えながら、眩暈がする頭で崩れるように床に転がった。

「血が出るほどの怪我をしたら、まずは傷を洗って、ハンカチで巻け」

飛鳥の声が聞こえた気がした。高校一年のころ、下校時に校舎の前で自転車の運転をしくじって派手に電柱にぶつかったときのことだ。たまたま通りかかった飛鳥が「美里はドジだなあ」と言いながら、慣れた手つきで美里の足首にハンカチを巻いてくれた。そのあと、足が不自由になった美里を背負い、フレームの曲がった自転車を押して彼女の自宅まで送ってくれた。後日、汚れたハンカチを洗濯して返そうとすると「いや、要らねえ。お前にあげる」と突き返してきたつれない表情も、印象的に美里の脳裏に焼き付いて離れなかった。

飛鳥とは近隣の町会で育ち、同じ小中学校を卒業した間柄だ。しかし外で遊んだ経験もなければ、学校のクラスも別々であった。ほんの数カ月、中学校の運動会のアナウンス係で一緒になったことがあったが、そのときも飛鳥は美里のことをほとんど見ようとはせず、むしろクラスの他の男子とつるんでいた。だが、飛鳥は彼ら男子とはさほど仲が良いわけではなかったことを、高校になったときに知った。「クラスで席が近かったから、適当に話を合わせていたんだよ」と、悪戯をばらすかのようにニヒルな笑みを浮かべて美里に教えてくれたのだ。

飛鳥とは、高校のときにようやく本当の意味で「出逢えた」のだ。

美里は当時のハンカチをポケットから取り出して、左手首に蛇のように巻き付けた。美里は高校に入って部活動に所属しなかった。幼馴染の朱莉が吹奏楽部でクラリネットを鳴らしていたり、智花がソフトボールの練習をグラウンドでやっているのをよそに、独り静かな図書館に身を潜めるのが日課だった。思春期の美里は、誰からも邪魔されない時間が必要だった。テストの成績をぎりぎりで中の上くらいを保つプレッシャーも、中学生から増してきた生理痛も、水が合わない女子のグループも、美里のストレスを助長させた。一つ一つは年相応のよくある悩みかもしれないが、それらが重なり合い、屈折し、空中分解を繰り返すなかで、いつ心のピアノ線が切れてもおかしくない状態にまで追い詰められていた。それだけ美里は感じやすい性格だった。感じやすいことを両親や成人した兄に告げることはできず、独りで消化し、気休め程度の慰めを自ら施し、その日が終わるのをしんみりを迎えていたのだ。苦しさの渦中にいることに気がつかなかったからこそ、恒常化した苦しみが逆に美里に力を与えて、その場を乗り切る原動力となった。もしも彼女が「メタ認知」や「自己分析」といった心理学的知識を早々にもって自らを判定したならば、胸を締め付ける種々の要因の多さと深さに苛まれて精神的に回復できなくなる虞さえあった。苦しみを苦しみと認めるには、相応の年齢と苦しみを受け入れて支えるだけの他者の存在が必要だった。

その「他者」になってくれたのが飛鳥だった、と現在になって美里は思う。図書館で大好きな作家の本を眺めていたとき、「梶原はそれが好きなの?」と声をかけてきた飛鳥。ぎこちなく頷いてお気に入りの本を一冊手にすると、ふうんと興味深そうに顎を撫でて本を取り、司書の先生に「これ、借ります」と何の恥ずかしげもなく宣言したのには驚いた。好きな作家はオノマトペの使い方が違うとか、ベストな読書タイムは通学中のバスの中だとか、読書という行為に愛着とこだわりを持っている飛鳥のことが知りたくなった。彼も彼の方で、美里が私物という私物にファルシファ―とかハンソロとかいう謎めいた命名を施すのを面白がった。呼び名が「梶原」から「美里」へ、「佐渡くん」から「飛鳥」に変わるのもそう長くはかからなかった。

早く、迎えにきて。飛鳥。

美里は、レーザー装置で部屋に閉じ込められている現実を実感しつつも、同じ館で生きているだろう飛鳥の姿を想像して、不思議な安堵を感じていた。

                             (つづく)

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