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そして誰も来なくなった File 5

ベージュ色のカーペットが敷かれた細長い廊下を、マーガレットさんの後ろにくっつくかたちで歩いている。彼女は背中を大胆に広げたドレスを着ているので、その肌を見ないように前を進むのになかなか苦心した。

「飛鳥くん。あなた、女性慣れしていないでしょ」

僕の内心をえぐるような質問を投げかけるマーガレットさんに、僕は閉口した。渡したいものがあると言ってきたから、わざわざ彼女の部屋までついてきているのである。決して女性の部屋に興味があるからではない。しかも、この年まで異性と交際関係をもたなかった僕としては、彼女の質問は意味のある質問ではなく、自分にとって触れてほしくない自明の事実を確認するだけの悪戯にしか聞こえない。

「あの、僕はただあなたについていっているだけですが…」

するとマーガレットさんは呆れたようにブロンズの髪を揺らして振り向いた。

「フツー、女性が男性を招いたときは、『もしかして、チャンス!?』と思って横並びに歩くものよ。そうやって異性とコミュニケーションをとりながら身体的にも心理的にも距離を縮めるの。わかって?」

「は、はあ…」

やたら熱のこもった口調のお説教を受け流しつつ、一体この人は僕に何をさせたいのだろうかと思った。まさか知り合って数時間で僕を好きになるわけでもないし、それは自惚れというものだろう。万が一、彼女が僕にその手の感情をもっていたとしても、残念ながら僕の方にはまったくその気がない。

「まあ、いいわ。はい、ここが私の部屋」

205号室の扉を開けて通された部屋に入ると、思わず僕はうっと後ずさりした。たった一日でここまで汚せるかというほど物が散乱していたのである。『JEE』『NOE』『QRESIDENT』などの雑誌、ペン先が出しっぱなしのペン類、食べた後のカップラーメン、ほか雑多にベッドへ投げられた衣類…など。煙草を吸ったのか、部屋の空気がきつい臭いで充満している。

「悪いわね、ちょっとだけ散らかってるの。これでも自宅より十倍はましよ」

僕は絶対に彼女の自宅へ上がるまいと固く決心した。

「ああ、あったあった!」

ほとんど歩くスペースがないカーペット上を無造作に探って、マーガレットさんは一冊のノートを取り出した。どうやったらカオスな空間から目的の品を探し当てられるのか、ある種の才能を彼女に見出した気がした。

「はい、三十八ページ」

唐突に渡されたノートは、小学生のころによく使った学習ノートである。下の「なまえ」の欄には「M・K・M」、題名の部分にはご丁寧に「そうごうがくしゅう」の科目シールが貼ってある。いい年をして、ふざけているのかと思って彼女を見返したが、逆に彼女のほうが苛立ったように手を振ってページをめくるよう促した。

しぶしぶ開いた三十八ページに、僕の視線が硬直してしまった。

「今藤はじめ…」

それは今藤はじめの生前にまつまるデータベースだった。東京都出身、昭和四十二年生まれ。大学卒業後に中小コンサルティング会社の事務員就職。平成五年に今藤安子(旧姓、木村)と結婚。子どもはなし。平成二十五年に離婚。離婚以外を除けば、大きな問題なく生きてきた男に感じる。

しかし僕は、その下に書かれた内容に釘付けになっていた。

「企業利益を五百万円横領…?」

「正確にはちがうわ。横領というより、譲渡と表現する方がいいわね」

コメントの仕方がわからない僕に向かって、マーガレットさんはすらすらと驚くような事実を口にした。

「彼は、入社当時はコンサルティング会社で真面目に働くサラリーマンだった。真面目な勤務態度が認められて順調に昇給を重ねて、営業職についてからも着実に社内の地歩を築いていった。二十六歳で安子さんと結婚。どこからどう見ても幸せで平凡な男だった。それが崩れたのは、彼が三十歳になった春よ」

マーガレットさんは胸の前に拡げたノートの中身を完璧に暗唱しながら、書いてある内容を述べていく。

「調べたところによれば、彼は課長職や部長職を好まず、ひたすら平社員を継続していたそうよ。会社の同僚から出世したくはないか聞かれても、頑なに拒んでいた。俺には妻ひとりしかおらず、子育てをしなくていいから、給料の高望みはしないってね。役職に就いてしまうと、多忙で妻と一緒に過ごす時間が削られるとも言って社内では評判だったそうよ。そして、あくまで順当に仕事をこなしていた。…そう、不正に会社の利益をせしめている事実を隠しながらね」

「どうして、そんな真面目な人が?」

「あら、あなたは推理小説がお好きなら、どれほど人間が信じられない生き物かご存じのはずでしょう? 見た目が平凡な人物ほど、肚の中で何を企んでいるか知れたものじゃない。しかも彼は決してバレない横領をやってのけた。事務員という立場を最大限に活用してね」

僕は眼で先を続けるよう彼女を見た。

「そうよ。彼は数年の真面目な勤務態度から、社長の信頼を得ることに成功した。事務員のフロアにいながらにして、決して崩れない不動の信頼をね。彼の真面目さは、仕事の遂行能力だけじゃなかった。他の社員に見つからないかたちで、勤務怠慢をしたり、仕事をごまかしている社員を社長に告発していたのよ」

「目付ってことですか」

「ええ。会社組織のなかで最後まで力を保つのは社長や部長じゃない。彼らは給料こそいいかもしれないけれど、上位者になった代償に、いつ左遷や降格をされてもおかしくないプレッシャーがのしかかる。その点、事務員は上がることはあっても下がることはない。その位置に甘んじながら、社長の目付役として信頼を得れば、これ以上の盤石な地位はない」

大人の社会って複雑なものだ、と辟易しながら聞いていた。マーガレットさんはふふと頬を緩めて笑った。

「嫌な話を聞かせてごめんなさいね。でも、必ずしも目付が悪い役目じゃないのよ。いい意味で社員の不正を糺せる人もいるんだから。でも、今藤の場合はちがった。その立場を、私利私欲のために悪用したのよ」

そうして地位を固めたのを見極めてから、飲み会の席の余興で社長にお願いごとをしたという。

『ここのところ不景気でボーナスも少ないご時世ですね』

『そうだな。働き者の君には申し訳ない限りだ』

『そんなことをおっしゃらないでください。社長のことを私は尊敬しています』

『ああ、そうか。それは有難い』

『それはさておき、実はまた、不正をしている社員を見つけまして。入社したてのAという若者です』

『なんだと…』

『証拠は私が握っています。車の中でご覧にいれましょうか』

『ああ、そうしてくれ。君はよく気がつくので重宝するよ。お礼にボーナスを五十万、私の懐から出してあげよう』

『そんな、もったいない』

『いいんだ、ほんの気持ちだ…』

「このような手口を使って、社長の同意を得ながら着実にお金を受け取っていったの。勤務に対する対価とは別に、社長への密告の報酬として。そして約十五年間に五百万円以上の利益を手に入れた。元は社長のポケットマネーなのだから、監査にすらひっかからない。実に巧妙な人物よね。その後、安子さんと離婚するまで、彼はお金を受給しつづけた」

僕は気になっていた事実を口にした。

「今藤の手口を理解しましたが、わからないことがあります。どうしてマーガレットさんがこの事実を知っているのですか? ノートに記録までしているなんて」

それはね、と彼女は妖艶な表情をしてみせた。

「トップシークレットと言いたいところだけど、あなたには話すわ。私の裏の仕事は探偵だったのよ。ある公的な機関に依頼されて、こうした不正な金銭の流れを調査する仕事をしていたの」

探偵、と自らを名乗る人間に生まれて初めて会った気がする。本の中でしか存在しないものだと思っていた。

「言っておくけど、現実の探偵は地味な仕事よ。まちがっても、ジュウジュツを使って大悪党と滝壺に落ちたり、ヨーロッパを横断する列車のなかで殺人に巻き込まれはしないわ」

そうだろうな。

「安子さんは離婚後すぐに病気で亡くなったのだけれど、それまで健康そのものだった彼女が急死したから、不審に思った私の上司が調査を依頼してきたの。以前から、上司は今藤の不正に目をつけていたらしくてね。それで、ここまでの事実をつかむことができた。でも、それでチョンよ。気がつけば今藤はコンサルティング会社を辞職して、行方不明になってしまった」

なるほど。では、館で再会した時はさぞ驚いただろうな。

「では、名探偵マーガレット女史にお尋ねします。今藤の過去については理解しました。でも、安子さんの死はどうお考えなのですか?」

彼女はアイラインの濃い眼をつむって、少し困った顔をしてみせた。

「悔しいけれど、よくわからないのよ。彼の不正が関係していることは予想がつくけれど、それが何故、安子さんの死につながるのか…。万が一、彼女が不正に感づいて夫を責めたために消された、と仮定してもまちがいね。彼女の死は殺人ではなかったわ。検死をしても、心筋梗塞ただ一つの原因しか見いだせなかったの。それに彼女の死は離婚後のことよ」

これは、保留にすべき問題だと思った。推理するにはあまりに材料が少なすぎる。『あなたは妻を妻としてのみ扱い、そして捨てた』と宣告した「声」の意味も、今後に考えていくべきだろう。

「それにしても、どうやってノイ・テーラーは今藤を殺したのでしょうね?」

マーガレットさんは手先で招待状をくるくると玩びながら考えに耽っていた。その疑問は僕の脳内でも激しく巡っているものだった。果たして、あの暗闇で彼に傷一つつけずに命を奪うことが可能なのかどうか。彼女に一言断ってから、ベッド横に備え付けられたアームチェアに腰を掛けて、顎に指を当てた。

「アームチェア・ディティクティヴってところ? あなたのこと、信頼しているわ」

買い被りかごますりか、はたまた僕を騙そうとする手口か知らないが、彼女の言葉を無視してじっと天井を眺めていた。この謎を解かなければ、美里の濡れ衣を晴らせないのだと思えば、がぜん必死になるのものだ。それを知ってか、マーガレットさんは「あなた、良い彼氏ね」と残念そうな顔をした。

「ですから、そういう関係では」

「でも、傍目で見てていい感じよ。少なくとも美里ちゃんのほうは脈アリね」

ニタニタする彼女の脳天を叩こうとしたが、次の言葉で手が止まった。

「そういえば、あなたの過去だけ聞けなかったわ。美里ちゃんの過去を告発する途中でブレーカーが落ちたから」

たしかに。でもそれで幸いだった。

「そうでしたね。でも、僕の過去は大したものじゃありません。恥の多い生涯を送ってきました」

「何、ペシミズムじみたこと言っているの。真面目に生きてる?」

そんな風に叱咤されても、事実そうなのだから反論のしようがない。僕はマーガレットさんが招待状で叩いてくるのをかわすべく、頭を前後させた。

そのときだった。ふと、招待状の一部が光った気がした。

「ちょっと、それ貸してください」

僕はマーガレットさんの招待状を手に取って文面を穴の開くまで眺めた。そしてポケットから自分宛ての招待状を並べてみせて、ぼそりと口にした。

「マーガレットさん。僕、ノイ・テーラーの意図が、わかったかもしれません」

目を丸めている彼女を尻目に、僕は二通の招待状を握って部屋の外へ出た。

                            (つづく)








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