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夏炉冬扇 #7

※第6話はこちらから

一階のフロアへ降りたとき、私はちらと通路の奥にある文芸資料室の入口を遠目に見た。惜しいことをしたもんだ。あの部屋には文豪たちの遺品や原稿用紙などのオタカラがたくさん展示されている。せっかくお金を払ってきたのだから、これら資料も閲覧したかったのだが、兄が来ているかもしれないタイミングでは難しそうだった。人に気づかれないように舌を出して、私は受付に座る里子さんに会釈した。

「ありがとうございました。これから用事があるので、失礼します」

予想よりも早々と退館するからだろう、里子さんは少し意外そうに眉を寄せた。

「あら、もういいの? お目当てのものは見れた?」

「秋聲の『あらくれ』を見たかったけどありませんでした」…とは言いづらい。本音を口にするだけの勇気と機会が今は皆無だ。軽く曖昧な返事だけをして、私は足早に玄関を出た。

兄が、建物のすぐ傍にいるかもしれない。花束を買った理由も、誰に会いに来たのかという疑問も、洗いざらい話してもらわねば気が済まない。

出入り口のドアに手をかける。真鍮の取っ手がひんやりと冷たく、うすら背中に鳥肌が立った。ゆっくり扉を開いた私は、はたと動きを止めた。

「冬扇ちゃん?」

いぶかしむ里子さんの言葉が意識に入らないほど、私は目の前の光景に見惚れてしまっていた。

雨だ。

しかも結構な降水量。土砂降り。

この世界が、雨に流されている。

天空は灰色よりも紺色に近い雲に覆われていた。目には見えない速度で雨粒が落下して、物体に着地した瞬間にその形が飛散し、爆発する、爆発する、爆発する。あちらこちらで雨が狂ったように躍り、歌い、浮世の色々な汚れを洗っているように感じる。一歩外に踏み出すと、軒にぶつかって撥ねた雨水が髪の毛に降りかかった。すっと手のひらを出してみれば、ボタボタと雫の仲間たちが集まってくる。冷たいような、ぬるいような、優しいような。秋の香りと温度が入り混じる液体を指の谷間に貯め、試しにぺろりと舐めてみた。

味はしない。少量なのだから当たり前のことだ。それに最近の雨は大気汚染とかで身体には良くないと聞く。でも、私は満足だった。この私の頭上で雨が降っていて、自然の音楽を奏でていて、懐かしい記憶が呼び覚まされる。世界すべてが雨にかき乱されているからこそ、美しいものも醜いものも存在しないことにできる。

雨のなかでなら、私は自由だ。

職場や家での居場所に不安を感じている。兄の不穏な動きに戸惑っている。『あらくれ』を見つけることができない悔しさが残っている。趣味でお金にならない小説を書いている焦燥が漠然と募っている。大人と子どもの境界線でふらついてしまう私自身を怖がっている。

でも、そんなこと、どうでもいいんだ。

雨のなかでなら、私は自由になれるのだから。

「何してるの? 傘はあるの…って、冬扇ちゃん!?」

里子さんが驚くのも無理はないだろう。私は傘を持たず、そのままの姿で大雨のなかを走りだした。

天気予報を知らずに傘を持ってこなかったせいでもある。兄を追いかけて飛び出したという理由もある。でもそれは後付けの理屈だ。とにかく私は雨に濡れたかった。濡れたくて仕方がなかったのだ。こころの奥に眠る本能が、過去が、言葉が、私を雨に駆り立てた。

花壇までは十数メートル。視界がグチャグチャに歪んで、防水でないシューズも瞬く間にズクズクになる。頭の頂点から毛先へかけて重みが増し、パーカーは小さな肩から腕へと黒く染まっていく。路地の凹みの水溜まりを盛大に踏んづけて、一張羅のズボンさえ台無しになる。

でも、嬉しかった。これでいい、これでいいんだ。これこそが、ありのままの私の姿なんだ。

心臓が爆発するかと思うくらいに興奮してきた。やっぱり雨は天才だ。社会人になって掃き溜めたストレスすべてを快感に塗り変えてくれている。天からの贈り物だとさえ思った。建物の裏手に回って、私は花壇の前に立った。そこに兄がいると信じ込んでいた。そこで兄を呼んだ。

「お兄ちゃん…あれ?」

雨のお陰で気分が高揚していたせいで、始めは状況が呑み込めなかった。予期に反して、兄の姿なんて、影も形もなかったのだ。暗い雨は夕暮れ時の建物を強く叩きつけるばかりだ。

足音は、別人だったのだろうか。結局兄は来なかった。またもや肩透かしを喰らった気分だ。私は、何度目かの溜息をついた。

だが、とぼとぼ花壇の脇に設えた詩碑へ近づいたときに、見つけたものがあった。詩碑の前に、桃色のコスモスが供えられていたのだ。

「どういうこと…?」

私は詩碑の前にしゃがみ、コスモスの花束を観察する。『フレア』で買ったものとは違う、テカテカ光る銀色の紐で括られた花束だった。これが、兄の花束なのだろうか。誰かとの約束の品なのだろうか。濡れて固まっていく頭髪とは対照的に、むくむくと疑問の雲が頭のなかで膨張していく。

雨に揺れている花たちは、無知な私をあざ笑うかのように、何ひとつ真実を語ってはくれなかった。

コスモスから視線を離して、詩碑の方へと顔を向けた。すっかり冷たくなった指先で碑文をなぞる。

天つ風 絶ゆるとき
いにしえの鳥は歌う
だ聴かぬ 神の言葉
到らぬ者のあるべきか

初めて文芸講座を受講した日に見つけた、短い詩。神秘的で、悲壮的で、それでいて優しさを湛えているような、不思議な詩。この詩を、いつかの兄が鼻歌で歌っていたらしい。私自身は兄に話していないのに、どうして知っているのか、全くもって不可解だった。

今日は上手くいかないし、分からないことが多過ぎる。もしや厄日かもしれない。仕方がない、やっぱり自宅に帰ったときに、兄に訊かなくては。

きびすを返して、駐輪した場所に戻ろうとしたときだった。鋭くて細くて、そして低い声が、私の背後から聞こえたのだ。

「…ぇろ」

ただならぬ殺気を感じて、はっと私は後ろを振り向く。雨でぼやけた視界の片隅に、黒い何かがうごめいている。

「何…?」

黒い影がレインコートだと気づいたときには既に遅かった。急に速度を増して私に接近してくる「それ」に、私は成す術がなかった。

「…消えろ!」

私の無防備な首元を、不気味な両手がぬっと鷲づかんだ。



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