間に合う、間に合わない

人生には、間に合うことと間に合わないことがあると思う。
限界まで耐えて、助けが来る前に力尽きるか、それともギリギリ誰かが手を取ってくれるか。
元夫と暮らしていて、元夫の散財により私の手術費用が足りなくなった。「間に合わなかった」から、私は愛猫との別れを選んで、実家に帰った。だけど、実家では両親が健在で、「間に合った」から今でも実家に身を寄せていられる。
以前の職場では、膝の痛みに耐えかねて、業務内容の見直しを訴えたことがあるが、その後急激に膝の調子が悪化し、上司の対応まで「間に合わなかった」から、休職、挙句退職することになった。

「どこにあるか分かるようにショートカットを作ったんですけど、余計分からなくなりますね」
「最近は検索ウィンドウから出しちゃってますね」
「あー、もはやショートカットが要らないやつですか」
私が操作しているパソコンの画面を覗き込んでいたハヤくんが、うーん、と白いゲーミングチェアに寄りかかって伸びをした。

備品だと思っていたその椅子は、ハヤくんが自宅から持ってきた私物だったと聞いた。ハヤくんがいなくなっても、ハヤくんが遺したものは職場に息づいている。

ハヤくんは、私に相談員の業務を教えてくれた、年の若い先輩で、私が入職して2ヶ月足らずでこの世を去った。
肉体を失った後も、いつも私の心の中にはハヤくんがいて、困った時にアドバイスをくれる、今でも頼もしい先輩だ。
「どこにファイルがあるか分からなかったら、とりあえずデスクトップから探した方が早いですよ」
「そうですね、そうします」

このデスクのどこを見ても、パソコンのファイルを見ても、ハヤくんがいなくなる直前の日付で残されたデータが、そしてこの事業所の中にはハヤくんの持ち物が、ハヤくんが作った一覧表が遺されている。きっと、自分を忘れないでほしいという、不器用なハヤくんが遺した、精一杯のメッセージなんだと思う。
この事業所にいる限り、この事業所の職員は、しばらくというか、当面は、ハヤくんの存在を忘れることは出来ないだろう。一緒に働く仲間を喪った仲間同士、遺されたものを大切に使っている。
それが証拠に、ハヤくんの名前が出ない日はない。
「あのねぇ、ハヤくんが前に作ってくれた一覧表なんだけど、更新してないから訳がわからなくなっちゃってるのよ」
副主任が一覧表を指差しながら、私に相談してくれている。ハヤくんが今までやっていた業務を介護職員が引き継ぐことになり、その介護職員が表の更新をしないからなんとかしてほしいと言うのだが、そもそも表がおかしくなっているので更新しようがないのだ。
「それ、関数消しちゃった人がいるから、中身がめちゃめちゃなんですよ」
「さかきさんでも直せないの?」
「直すそばから壊れてるんで、誰かいじってるんだと思います」
私はハヤくんからパソコンの操作の説明は受けたが、内容としてはこのファイルはここにあって、入力はこのタブにして、くらいの簡単なもので、特にExcelの使用方法についての説明は特に何もなかった。
請求ソフトについてだけは、今後分からなかったらサポートセンターに連絡して、くらいの説明があったから、多分私が分からない操作があるなら、他の職員に聞くよりサポートセンターに問い合わせた方が早いという結論だと思う。
「さかきさんのパソコン操作は問題ないと思いますよ」
席に戻ると、さっきのやりとりを聴いていたハヤくんが、送迎表のチェックをしながら教えてくれた。
ハヤくんは私の心の中の存在だから、他の人には見えない。もう仕事をしなくても良いのに、まだ職場のことが気になるのか、私と一緒に仕事をしてくれている。
「寧ろ、わたしがいない時点で、パソコン操作はここではさかきさんが一番出来ると思います」
「パソコン操作で褒めてもらったのは初めてですよ」
ハヤくんに褒めてもらったのが嬉しかったので、つい笑みが溢れた。
「他の人は多分、関数とか分からないんじゃないかな」
「そういえば、さっきの一覧も、関数直してたらびっくりされました…」
「相談員はパソコン使えてナンボですけど、介護の人はダブルクリックとか電源の切り方とかから教えないといけないので、時間がかかるんですよ」
なるほど、と私は納得した。ハヤくんが夏の終わりに退職することを決めたのは、私が仕事を覚えるのが想定より速かったからだそうだ。

人生、間に合うことと間に合わないことがある、と思う。
「クロノトリガーってやったことあります?」
「一回だけですけど、あります」
仕事をしながら、つい雑談に花を咲かせてしまう。
ハヤくんが在籍していた頃も、もちろん作業の手を動かしながら、電話が鳴るまでの短い間、ちょこちょこと雑談をしていた。
「クロノトリガーは何巡もやって楽しむゲームですよー」
「そうらしいですね」
ゲームが好きだと打ち明けた私に、ハヤくんが珍しく食いついた。
「わたしは、「風の憧憬」が好きです」
「ハヤさん、通ですね。私も好きですよ」
私が誉めると、ハヤくんが嬉しそうに笑った。
「ロボが大地を耕す時に流れてる曲なんですよね」
「ああ、そうですね」
「その後、ルッカの少女時代に戻るんですけど、覚えてます?」
「いや…」
主人公の幼馴染のお母さんが、過去に機械の誤作動で大怪我を負うシーンだ。上手く機械を止めることができれば、大怪我をしないで済む。このイベントの前に、この機械を止める方法が存在することを知っていれば、それも可能だ。これも、「間に合う、間に合わない」になるんだろう。
「アラレちゃんそっくりな女の子でしたよね」
「その年でアラレちゃんという名前が出るなんて、ビックリです」
「いやいや、出ますよ、アラレちゃん」
ハヤくんと私は、年が一回り違う。
それなのに、ジェネレーションギャップを感じさせない、聞き上手な彼とくだらない話で盛り上がる。
「世代が違っても、良いものは良いんですよ」
「そうですよね」
仕事の手を止めて、しみじみ頷き合う。

途中、何度か電話を取った。作業の方は、ファイルをまとめる軽作業だったから、それほど頭を使うこともない、地味な作業だ。私はハヤくんとお喋りをしながら、手を動かした。
こんな時間が続けば良いのにと思っていた。ハヤくんの退職が決まって、引き継ぎを受けて、お別れ会をやって花束を渡して涙のお別れをする…
普通の退職の流れだと思っていた。
それが、違った。

待っていたのは、在職中の職員の死、だった。引き継ぎを受けている途中だった私はもちろんだが、全職員にとって、衝撃だったと思う。

集められたお花代は、そのまま香典になった。
お別れは無言だった。
来てもらうのではなく、こちらが葬儀場へ出向いた。
本人不在で、ご家族と挨拶をするお別れ会なんて、初めてだった。

ハヤくんの予定では多分、最終出勤日まで出勤して、有休消化までして、退職するつもりだったんだろう。
だけど、気力が持たなかったのかもしれない。
だから彼の中では「間に合わなかった」んじゃないかと私は思う。

だけど、私は2ヶ月足らずとはいえ、彼と同じ時間を過ごし、彼から直接指導を受けることが出来た。
充分かどうかは別として、私は引き継ぎに「間に合った」のだ。一つの出来事でも、人によって「間に合った」ものと「間に合わなかった」ものがある。私はそれがよく分かった。
「ハヤ「くん」」
「はい」
「私は、ハヤ「くん」のこと、好きですよ」
「えっ」
じっとハヤくんを見つめていると、ハヤくんの細い目が見開かれた。
次に会ったら聞こうと思っていた誕生日。
次に会ったら言おうと思っていた言葉。
全部「間に合わなかった」。
心に寄り添えなかった悔悟、伝えられなかった愛情を飲み込んで、今度は「間に合わなかった」が無いようにしよう、と思う。
一回深呼吸して天井を見上げたハヤくんが、目を細めてた。そうして私の方に向き直って、胸に片手を当てて。
「ありがとうございます」と頭を下げた。

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