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相談員の武器

通所事業所では各利用者について、定期的にカンファレンスを行なっている。
ある日のカンファレンス実施予定者に、Dさんの名前もあった。
「Dさんは、このところ、利用日は毎朝転倒しています。先日は利用中に意識低下がありました」
「そのあとすぐ戻ったんですよね」
「はい。ただ、前日の転倒で頭部を打撲していますから、それによる影響もあるかもしれないということで、病院受診をしていただきました。結果は異常なしということで、先生から経過観察の指示がありましたね」
看護師から経過の報告があり、担当リハビリ職員、介護士、相談員の面々はうーん、と低い唸り声をあげた。
「私としては、もうDさんはここでは見られないと思う。利用日の朝はヘルパーさんが入っているけれど、訪室すると毎回転んでいて、体も傷だらけ。食事も息子さんが買ってきたお寿司とか揚げ物を食べているっていうけど、うちでは飲み込みが悪くて、全粥極刻みで提供している人が、どうやってお寿司を食べているんだろうって疑問に思います」
看護師が一気に言う。苦渋の色が滲んでいた。
「もう少し家族が協力できれば、ねぇ…」
リハビリ職員が相槌を打った。
看護師がまだまだ言い足りない、とばかりにそのあとを引き取る。
「そう、見守りや食事を、もっと気にかけてほしいんです。低栄養ではないかと思われる体に傷があったら、その治癒のために栄養がとられて全身の栄養が不足するわけですから。だけどご飯は、ご家族の判断でDさんの体重が増えたからと言って減らされてしまいます。下肢の浮腫があって毎日体重を測っていますが、それが裏目に出ている状態です」
いつも迎えに行き、日頃のお世話をするのは介護士だから、看護師の話に大きく頷いて同意を示す。
「足のむくみがあるから、席にいる時は下肢をオットマンで挙上しています。足がパンパンだと、歩きづらいですし、いつ転んで、足に傷ができてしまうか分かりません。傷ができれば、そこから感染症につながる可能性も高いです」
介護士も丁寧にお世話しているが、サービス提供時間外のことについてはお手あげだ。
「ですので、これ以上の利用は無理なんです。いつ意識低下が起きるか分からない状況で利用を継続するなんて」
皆、一様に私を見る。私は少し考えて、言葉を紡いだ。
「利用をお断りすることはできます」
「出来るんですか」
皆からハッとした表情が溢れた。意外そうな、嬉しそうな、しかし無念そうな。
「同意書には、サービス提供を継続することが困難な心身状態になった場合には、事業所の都合で利用を終了することができるとあります。例えば、入浴やリハビリができない程度の体調不良、食事摂取がままならない、バイタルに異常がある、それが受診の目安であるのにも関わらず、受診のお願いをしても家族や本人に受け入れられない場合とか、バイタル異常が何日も続いている場合とか」
「いま、Dさんの状況に当てはまってますね」
私の言葉を、看護師が繋いだ。その後ろで立ったまま話を聞いているハヤくんが、目を見開いていた。
「ただし、それにはより細かい記録、証拠が必要になります。家族に要望したが聞き入れられなかった、本人の状態が著しく悪かったなど、事細かに記録して、家族やケアマネに説明します」
「要望に応えきれない家族が嫌になって、家族から終了の希望を出してくる可能性もありますね」
「あります。さらに、別の事業所へ行く場合は、安心安全に次に利用する事業所に繋げられるように、次の事業所にしっかり引き継ぎをする必要がありますね。今の記録は全体的に不足しているように見えます。元気だったら何も書かないのではなく、元気だったと書いてほしいし、元気でなければどう元気がないのかを書いてほしいです。今回のカンファレンスの内容は、ケアマネに伝えます。私たちに必要なのは、実績という武器です。どんどん記録しましょう」
一同が一斉に頷いた。

ハヤくんは私に今の事業所で相談員業務を教えてくれた、年下の先輩だ。
私が入職してから、すぐ横で業務を教えてくれて、2ヶ月足らずでこの世を去った。
彼の丁寧な仕事ぶり、穏やかな物腰、まめな対応は今でも私の目標だ。
彼が去ってからしばらくは彼に教わったことを忠実に守ってきたが、想定外の状況も起こるようになってきた。
ハヤくんはまだ仕事に未練があったのか、戻ってきた。失った肉体は戻ってこないし、誰にも存在を気づかれない。だけど私には彼が、置いて行った仲間たちや利用者のところに戻って来ているのがわかる。
ハヤくんは、空いた椅子を私の席の横に持ってきて、人一人やっと通れるコピー複合機と私の机の間に窮屈そうに座った。
「ハヤさんが小さく見えますよ」
「大丈夫です」
クックッと笑って私はDさんの個別ファイルに視線を戻した。今すぐDさんを利用終了とするつもりはなくても、綿密な記録は必要だ。
カンファレンスで、仲間たちに記録を頼んだ。次は私の仕事だ。
「Dさん、利用終了にさせるんですか?」
ハヤくんが心配そうに私の顔を覗き込む。
「とんでもない、今の様子では、私にそんな腕前はありませんよ」
ハヤくんの表情もまた、嬉しそうな、しかし残念そうなものだった。
「ハヤさんは在職中、事業所都合で利用終了って、やったことありますか?」
「いえ…」
私が尋ねると、ハヤくんは自信なさげに首を横に振った。私がサービス利用同意書のページを開いて、ハヤくんに渡すと、ハヤくんは早速内容を確認し始めた。
「サービス利用の継続が難しいことが明らかな場合、なので、我々だけではなく、他に入っている事業所にもチェックしてもらいます。事実だけを伝えて、指示を仰ぎましょう。そうすれば、利用が妥当か第三者にも判断してもらえます。利用を継続するにも終了するにもみんなの協力が必要です。相談員の武器を作ってもらわないと、家族に現状を伝えられません」
私はメールを作成し始めた。

訪問看護ステーションへは、看護師から電話で実情を説明してもらい、私はケアマネに手紙を書いた。
リハビリ職員や看護師に添削してもらった手紙を、ファクスで送信した。

要点としては、
一つ目は、家族が用意する食事は、本人の状態に合っていない形態であり、食事が満足に摂れていない可能性があるので、食事形態の見直しと栄養指導をしてほしい、家族が対応できないのなら、家族へ配食サービスの提案をしてはどうかということ。

二つ目は、栄養状態の改善とリハビリを目的に、定期的に老人保健施設への入所をすることの提案。

三つ目は、来所前に自宅で転倒していたら、こちらへ連絡するのではなく、まずは訪問看護ステーションへ相談してほしいというホームヘルパーさんへのお願い。

回答の電話は夕方に掛かってきた。ケアマネの反応は、自宅ではアジフライやトンカツなどを食べている。食事形態はそちらで提供している刻んだ食事こそ、食べ慣れていないから食べられないのではないか、という意見だった。
「もう、1年以上この形態なんですよ。むせ込むようになったのは、最近です」
『いやいや、うちのケアマネ事業所内で話を聞いても、飲み込みが悪い人でもアンパンぐらい食べている人はいるっていう意見が出てるんですよ』
「そりゃあ、人によってはしゃぶるように食べれば、リンゴだって食べる人はいるでしょう。それは自宅での話ですよ。自宅では食べているからとは言っても、事業所ではむせ易い人に常食をお出しするわけにはいきません。何かあったら、飲み込みが悪いのを知っていてなぜ常食で提供していたのかと問題になってしまいます。そのあたりの事情も理解してください」
『はあ、そんなものなんですね』
「ご家族へも、うちではお粥や刻んだ食事を召し上がって頂いていることは説明しているはずですが、ご自宅でDさんは唐揚げとかを召し上がっているって本当ですか?」
『本当ですよ』
「ご家族に確認されたんですよね?」
『しました』
「では栄養状態の確認もしていただいても良いですか?」
『はい、今度の往診で採血をしてもらいましょう』
施設入所を急いでもらう必要はない。でも、私は老人保健施設への定期的な入所を勧めた。老健はリハビリ施設だから、体調を整えたり、リハビリをしたり、寒い時や暑い時の生活が心配な時に過ごしたりと、オールマイティに使える。自宅での生活を続けるためにも、Dさんに老健を上手く使って欲しかった。

電話を切った私は、大きなため息をついた。
看護師も介護士もリハビリ職員も、私の様子をまじまじと見ている。
「どうだった?」
「言いたいことは全部ファクスで送ったんですけど。食事は常食で充分だから、栄養指導は必要ないって言われてしまいました」
「えーー」
ハヤくんは私が電話している時に書き込んでいたメモを見て、すでにやり取りを知っている。同僚たちが私が書いた殴り書きのメモを回し読みして、えーっと声を上げていた。
「飲み込み悪くてもアンパンぐらい食べられるって…アンパンを常食で出してって言われても、うちでは絶対出せないわね」
「うちに言語聴覚士がいれば、嚥下の評価ができるけど、うちでは出来ないからねぇ」
電話が鳴ったので出た。Dさんのケアマネだった。
対応して電話を切った。
「要件はなんですって?」
看護師が私を促す。
「さっきの件で、ケアマネさんが食事のことを息子さんに聞いたら、昨日の夕飯は全然飲み込めなくてほとんど食べられなかったそうです。今度からお粥とか、食べやすいものに変えますって」
「あーーー」
介護士が空を仰ぎ、看護師が顔を手で覆った。ハヤくんも眉を寄せている。
「もしかして、家族は今までDさんがご飯を食べてるところを見たことがなかったんじゃない?ご飯を買って、自分は帰るから一人で食べてねって」
「そうだよ、絶対」
口々に、家族やケアマネへの不満が噴出した。
夕方は利用者が全員帰宅しているので、この時間の介護士は書類の整理や翌日の準備をしていて、手は動いていても目や耳や口は割と自由だ。私が行なった電話のやり取りはみんなが耳を傾けて聴いている。だから、私がさりげなく思考を誘導する。
「ともかくご家族が食事形態を見直してくれることになりました。食事形態が改善すれば、ある程度は食べられるようになって、体力が付いてきますね」
敏感に反応したのは看護師だ。それもそうね、と大きく頷いた。
「Dさんが元気になってくれれば、転ばなくなるかしら」
「そうしたら、なにも施設に入れたり利用を断ったりしなくても済むわよね」
そこまで聞いて、ハヤくんの表情が明るくなった。
「そうよね、いつ入院になるかとヒヤヒヤしながら利用することもなくなるし」
「これからしっかりご飯が食べられるといいよね」
うんうんと一同が頷き合った。

ハヤくんが私のそばにきて、嬉しそうに私の名を呼んだ。
「さかきさん」
「はい」
「ありがとうございます」
「いえ」
私にはまだ仕事がある。どんなやりとりをしたか、記録に残す。パソコンに向き合っていた。
「あれだけのやり取りをしたにも関わらず、やっと一つ改善しただけです。私たちは同意書という伝家の宝刀を抜いてしまいました。もう通用しません」
「え」
「私たちは宣戦布告したばかりです。戦いはこれからっていうことですよ」
ハヤくんは驚いた表情を隠しきれない。同僚たちが、Dさんの生活環境が改善の兆しを見せ始めて手を取り合って喜んでいる。ハヤくんは、仲間たちと私の温度差に戸惑っているようだった。

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