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マニュアルの見直し

新人はだいぶ仕事を覚えて来た。最近は事務作業を彼が、受け入れ窓口やサービス担当者会議などの表立った業務は私が担当するなど、役割分担がはっきりして来ている。何でもかんでも私に仕事が回って来た数ヶ月前と比べると、負担は軽い。
休憩時間が終わり、席に戻ったら、新人が私を見つけて顔を上げた。
「さかきさん、Bさんが来週いっぱいお休みだそうです」
「はい。送迎表の名前は、消しましたか?」
「あ、いや、まだです」
「お願いします。あ、理由はなんと言ってました?」
「それは…」
新人が口籠ったのを見て、私は連絡帳を確認しに行った。Bさんの連絡帳には、脳の検査入院のため、来週いっぱいお休みします、と家族の字で書かれていた。
「シャント手術の前のタップテストじゃないかと思います。お休み記録用ノートには、連絡帳にある通り書いておいてもらえますか」
「はい」
連絡帳を手渡しながら、私は新人に依頼した。
「タップテストって、何ですか?」
横で聞いていた介護士さんが私に訊ねた。新人もハヤくんも興味深そうにこちらを見ている。
「簡単にいうと、水頭症がある人に、シャント手術の適用があるか、髄液を抜いて障害が改善するか確認するテストですね」
「へぇ」
「タップテストで障害が改善したら、脳に圧が掛からないように髄液を外に逃がすための手術をするんです。…ですよね?」
私はその場にいた看護師さんに同意を求め、逃げるように看護師さんに解説をお願いした。
「良くご存知ですね」
「老健勤務でしたから、施設長が丁寧に教えてくれるんですよ。相談員だから施設長から入所者さんの家族に病状の説明をするときに同席するんですが、家族が分かるように、噛み砕いて説明するんで分かりやすいんですよね」
「なるほど」
説明の後、ハヤくんが感心して私を褒めてくれた。
たくさん勉強した証だから、褒められると嬉しい。
「ありがとうございます。褒めてくれて、嬉しいです」
ハヤくんが生きていた時は、照れ隠しに全然違う話をしてしまっていた。でも今は、褒め言葉を素直に受け取ることができる。

新人にもパソコン操作に慣れて欲しいから、なるべくデイケアの部屋にあるパソコンは新人に使ってもらうようにして、私はデイサービスの部屋にあるパソコンを操作するようにしている。通所介護サービス計画書を作成していると、デイケアの部屋にいたハヤくんがデイサービスの部屋にやって来た。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
ハヤくんがデイサービスの申し送りノートに目を通しているので、私も席を立ってハヤくんの横に付いた。
「Cさんが午前中に体調不良を訴えてて、さっき早退してます。奥さんがお迎えに来てくださいました」
「あっ、はい」
「Cさんは時短処理しますね」
「はい、それで大丈夫です」
状況の報告はハヤくんの生前から続けている習慣だ。報告することで、私も得た情報を頭の中で整頓しやすくなる。

ハヤくんは、私が入職してから仕事を教えてくれた相談員の先輩だ。私が引き継ぎを受けて2ヶ月弱で、ハヤくんは亡くなってしまった。
その後すぐに新人相談員が入職して、新人の私が新人を教える事態となり、他の職員は私の負担を減らすべく、相談員じゃなくてもできる業務はみんなで分担してくれるようになった。
そして、ハヤくんはいま、私と一緒に仕事をしている。
この世を去ったはずのハヤくんは、いつも私のそばにいて、時々アドバイスをくれる、頼もしい存在だ。

感染症対策マニュアルの叩き台が完成したので、関係各所にチェックの依頼をして回った。10年前のマニュアルのままだから、新型コロナウィルス感染症の項目が存在しない。そのため、急ピッチで新型コロナの項目を作成していた。上司たちの了解を得られたら本部に提出して、全員に周知してマニュアルが正式に追加される。
あとは事故防止マニュアルの再編と避難訓練の実施、通所リハビリテーション実施計画書の担当振り分けか。
「ハヤは一人で全部やっちゃってたからな」
「今も似たようなものですよ」
主任のぼやきに私が答える。
新型コロナウィルスの項目だけとはいえ、結局マニュアルの叩き台を作っているのは私だ。
私は上司に見てもらい、チェックを受けてから本部に提出している。だからみんなが関わっているという体をかろうじて保っているだけで、私が作っているのと変わりない。
「事務長が言ってたけど、一人で抱え込むと全部やらなきゃいけなくなるからね」
「お言葉ですけど、急いでやらなきゃいけないのに、担当はいつまで経っても決まらない、自分からやろうという人もいないじゃ、誰かが引っ張っていかないとやりませんよ。そんな人間関係もそうですけど、いつまで経っても大変なことは手付かずのままって問題ですよ。このマニュアルで放置したら実地指導で絶対引っかかります」
「ハヤは一人でちゃっちゃとやっちゃってたからね、自分がやれば早いって思っていたんだよ」
結局、こうなってしまうのだ。
自分が参画しないから、存在も知らない。入職後にマニュアルを定期的に読み返していないから、内容がわからない。担当が決まっていないから、更新もされない。

介護の事業所には、感染対策や事故防止など、各マニュアルがなければならない。元々開設された時点でマニュアルはあったようだ。しかしハヤくんが相談員になった時点で、開設から時間が経っていたためにマニュアルは古い物ばかりだった。
「この古いマニュアルたちをハヤさんが見た時は、愕然としたでしょうね」
ハヤくんが、主任の後ろで、眉根を寄せて静かに頷いた。
「事業所の体を成すために、なんとかしようと思っても、他の職員も別の仕事で忙しいからと、誰にも相談出来なかったんじゃないかと思います」
「あいつは何も言わなかったからね、一人で抱え込んだんだよ。言えば良かったのに」
主任が誤魔化すように手を振った。その責任を逃れるような態度につい、私も眉を顰めた。
「ここまではやりましたので、チェックしてください。師長たちや本部にも同じものを渡してチェックしてもらってます。他の職員にきちんと周知させるのは上司の仕事ですよ。今度の会議でみんなに言ってください」
「そうだね」
私は頭を下げて、主任の前を離れた。
ハヤくんが私を追い越して、渡り廊下で振り返った。
「さかきさん、ありがとうございました」
ハヤくんが、晴々とした表情を私に向ける。
「なんですか?」
「わたしが言いたいことを、言ってくれました」
そうして、訥々と、話し出した。

介護職員は利用者がいる時間が勝負だから、マニュアルのことは言い出せなかった。
自分の目の前で事故が起きた時、書類がないことに疑問を持って調べたら、事業所に存在がないと知って自分で作った。
本部にも確認したが、書類は手に入らなかった。
勉強会は、必要だと思ったから企画した。
忙しいから、と出席しない人も多かった。
本部には認められず、残業代も出なかった。
「なんだか、やるせ無いですね。必要なことなのに」
「そういうとこなんです、ここは」
また、吐き捨てるようにハヤくんが言った。
向こうから、歓声が上がる。
レクリエーションで盛り上がっているようだ。
多分ハヤくんは、マニュアルやら書類やらで追われるよりも、レクリエーションで利用者と触れ合って汗をかきたかったと思う。しっかりしているようで、抑え込まれて、我慢することを覚えた多感な青年。
みんなが一緒に汗をかいて働いているその陰で、彼は利用者と接する機会も少なく、黙々と働いた。
「本当は、ハヤさんも一緒に、レクリエーションとか、入浴介助とか、送迎とか、みんなとコミュニケーションとりながらやりたかったでしょう」
「そりゃあそうですよ、介護をやりたいから入った職場ですから」
利用者が帰り、職員も帰って静まり返った事業所の中で、事務所だけに煌々と電気をつけて一人働いた。
一年。

「ハヤさんの頑張りを、上司が知らないのはいけないと思います。そのためにはみんなを巻き込まないといけませんね。マニュアルは普段は目にしなくても、いざという時にはファイルを開いて目を通すものです。本来は普段から頭に入れておいて、マニュアルに沿って行動するものなんですけど」
「仰る通りです」
「まだ事故対策マニュアルが残ってます。今からでも、やりましょう」
私の言葉に、ハヤくんの目に光が灯った。

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