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アサーション

新人の愚痴は言うな、言うなら主任に言えと本部の事務長に言われてから、私は他の人が新人の愚痴を言うのを聞いたら、その場を離れるようにしてきた。だが、主任が他の平社員に愚痴を話しているのを見てからは、主任にも相談しづらくなってしまった。
「ハヤさんも、こんな感じだったんですか?」
ハヤくんは眉根を寄せて無言で頷いた。
「これじゃさかきさんも相談出来ないですよね」
「出来ないどころじゃないです、これじゃ」
新人の様々な問題を、同じ空間で働いている同僚に言われていることに、たまにしか来ない本部の人が気づいた。
しかも。
主任も一緒になって愚痴を言い合い、たまに私を巻き込もうとする。おそらく、私も新人の愚痴を言っていることが主任から漏れている。
「事務長が主任には話して良いって言ったって、主任がバラしてたら、話にならないですよ。主任から、さかきがこう言ってたってみんなに言われたら、主任にしか言わない意味がないですって」
「あの人の悪い癖なんだよなぁ」
ハヤくんが胃の辺りを手で押さえて、あからさまに肩を落とした。

多分、そういうところなんだと思う。

ハヤくん、としておこう。
彼は私の先輩で、たくさんの人に慕われるデイサービス・デイケアの相談員だった。
その仕事ぶりは年下ながら学ぶところが多く…しかし私が入職して間もなく退職が決まり、引き継ぎをすること2ヶ月足らずで亡くなった。

いくら、上司が私の愚痴を聞いてくれたとしても…
「上司の口が軽いと、信用出来ませんね」
「ほんとそれですね」
ハヤくんが眉根を寄せている。私が自分と同じ道を歩むかもしれないと、感じ取ったようだ。
だから生前のハヤくんは、誰とも話さなくて良いように、昼は自分の車の中で休憩していた。
「まぁ、お昼を買いに行ったりしますし、一人だと気楽なんで」
なんて話していたけど。
ご飯を食べなくていいハヤくんは、休憩中は天気が良いと大体外にいた。この敷地の周りは自然が多いから、散歩するだけでもリフレッシュになるんだろう。

私は利用者の担当ケアマネジャーに電話をかけて、介護士から頼まれたことを伝えた。
朝の時間はあっという間に過ぎる。集中していたら、いつのまにか昼食の時間だ。ケアマネジャーと連絡を取るなら、ケアマネジャーが訪問から戻る昼か夕方なのだ。

レセプト業務のために本部から来た経理のカナさんは、しばらく主任と話し込んでいるだろう、まだ戻ってこない。
新人はお昼の配膳のために席を外している。
朝一番に頼んだ仕事が終わっていないのに、利用者の食事を優先している。もちろん食事も大切なんだけど。
頼んだ書類は、カナさんが提供票を印刷したらすぐ使うものだから、出来れば急いで完成させて欲しい。まだ、入力が終わっていないようだ。
「悪いけど、こっちに戻ってくれませんか?」
「はい」
小さい声で新人の名を呼び、デスクに呼び戻した。
「先に書類を作成してください。どれぐらい終わっていますか?もう食事が始まってますから、食事終わって一息ついたところを見計らって、利用者さんからサインもらってください」
「はい」
新人が、腕を組んで私の話を聞いている。
「終わったらコピーとって…前にお伝えした通りですが…原本をすぐ使います」
「あっ、はい」
腕を組んだままなのはイラッとするが、言いたいことはそれだけじゃない。だから全部飲み込んで、話を続けた。
「提供票と一緒にファクスするので、カナさんが提供票を刷り終わったらすぐ必要になります。この後もまだ仕事がありますよ」
「はい」
「カナさんに進捗聞いて来ます。お願いしますね」
新人の返事を聞くのもそこそこに、私はカナさんがいる部屋の方へ向かった。

そういえば、私はパソコンで入力をしていたが、カナさんと主任が新人の話をしているから逃げて来たのだった。戻ることに抵抗を感じながら、渡り廊下で立ち止まり、深呼吸を三つした。
「さかきさんはすごいですね」
話しかけられて顔を上げると、追いかけて来たハヤくんだった。
「なんでですか?」
「わたしだったら、全部自分で引き受けてしまいますから」
イライラしている私の頭を冷やすために声をかけてくれているのだろう。ハヤくんは穏やかに、私に笑顔を向けた。
「さかきさんは、きちんと指示を出してました」
「はい、いえ…ハヤさんは、そうでしたね」
ハヤくんは、怒ることも、叱ることも、表情に出すこともなかった。ただ粛々とやるべき事をやり、黙々と業務に取り組んでいた。
同じことを三回も四回も言われても、まったく表情に出すこともなく…それではストレスも溜まるだろうにと、何度思ったか分からない。
「私はハヤさんを尊敬していますよ」
「はい」
「でもね、言いたいことを我慢しないで、かつ相手を不快にさせずに伝える言い方があるんです」
ハヤくんが、あっ、と表情を変えた。
私はカナさんがいる部屋に入り、腕組みして話し込んでいる主任とカナさんのそばに行った。
「カナさん」
何事か、と主任とカナさんが同時に腕組みを解く。
そこに私が畳み掛けた。
「お話し中すみません、明日の朝一番に、提供票をファクスしたいんです。提供票はどこまで進んでますか?」
「あっごめん、もう印刷できるよ!」
「ありがとうございます、じゃあお願いします」
二人の会話はそこでお開きとなった。
カナさんが慌てて持ち場に戻ると、主任も配膳する介護職員の様子を見に行った。
「さすがですね」
「アサーションっていってね」
渡り廊下を歩きながら、うまくいった、とホッとしながら、私はハヤくんに向き直った。
「相手の気持ちも汲み取りながら、自分の主張も伝えることが出来れば、自分だけが我慢する必要が無くなるんです」
ハヤくんの目を見ると、ハヤくんもいつもの真っ黒い瞳で、ジッと見つめ返してくれた。
「昔、悩んだことがあって、本をたくさん読んだんです」
「さかきさんも、悩んだんですか」
「悩みました」
ハヤくんが、胸に手を当てて息を吐いた。
「本を読むなんて、勉強家ですね」
「ハヤさんだってそうじゃないですか」
生前のハヤくんが、色々な本を持って来ていたのを知っている。本はいつの間にか無くなっていた。退職するから持って帰ったんだろう、なんて勝手に思っていたけれど。私は彼が勉強家なのを知っている。

たくさん勉強して、今の仕事に生かそうと考えた。
営業もやって、利用者を増やす努力もした。
うちの売りはデイサービスとデイケアが併設されていること。コロナ禍で利用者数が低迷している中、どうやって売り上げに繋げていくかを考えていかなければならない。
ハヤくんは考えて、色々な提案をして、軒並み却下されて、失望を繰り返したと思う。

上司に相談を繰り返していたらしい。だが、その上司もまた、ハヤくんに向き合うには忙しすぎた。上司との会話の端々に、ハヤくんにもっと寄り添えていれば…という言葉が透けて見えるのだ。
「ここに来て、後悔ばかりですよ」
なるべくハヤくんを見ないようにして、言ってみる。
「だって、いろいろ教えてくれると思ってた先輩は思わぬ形でいなくなるし、給料は安いし、その割に仕事は、以前燃え尽きた時と変わらないぐらいあるし」

ハヤくんはもう、この世にいない。
それはこの事業所すべての人間が知っている事実だ。
だけど、私の心の中ではハヤくんがこの事業所にいて、ひっそりと仕事を続けている。
戻ってきてすぐは、非常に居心地が悪そうだったが、しばらく経つと以前のように利用者のケースファイルに目を通したり、利用者に寄り添ったりし始めた。

遺された職員は、ハヤくんの不在に順応して元の生活に戻ろうとしている。ハヤくんの幻影に囚われているのは私だけ。勝手にそんな孤独を感じるけれど。
「カナさん、準備ありがとうございます。新人さんも終わりそうなので、午後から仕分けをやります」
書類の作成をしている新人を横目に、私はカナさんにフォローの一言を入れた。
お昼の時間。ハヤくんは、嬉しそうに外の空気を吸いに行った。

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