見出し画像

選ばなかった人生に思いを馳せる。

元会社の同期が、とあるメディアに載った。同期は大ヒットした新製品の開発ストーリーを記事の中で語っていた。
記事の中の彼女はキラキラと輝いていて、毎日育児しかしていない私には眩しくて、羨ましかった。そして思った。

「そうか、これも私が選ばなかった人生なんだな」と。

私は新卒でメーカーに就職した。
元々メーカーを志望して就活していたが、特にやりたいことがあったからではない。銀行やインフラ関連の説明会にもせっせと足を運んだけれど、仕事のイメージが全くわかなかった。
その点「物を作って売る」というメーカーのビジネスモデルは、わかりやすかった。とても単純な理由だ。

入社したら、まずは周りとの温度差に驚いた。
入社時はざっくり理系院卒の「研究系」と学部卒の「営業系」に分かれているのだが、「営業系」のほとんどがマーケティング志望だった。
メーカーの花形部署と言えばマーケティング部なので当たり前なのだが、特に何かやりたいことがあって入社したわけではない私は圧倒されるばかりだった。
そして、出身学部も商学部や経済学部ばかり。全く仕事に活かせそうもないことを学んでいた文学部卒は、私しかいなかった。

思えば、最終の役員面接で「どんな新製品を作りたいか」と問われて、私だけ言葉に詰まったのに、なぜ受かったのだろう。

そして唯一の文学部卒である私は、結局最後まで会社でやりたいことが見つからなかった。

彼女とはたまたま出身大学が一緒で、内々定の頃から学内でごはんを食べたりしていた。彼女は大学でマーケティングを専攻していて、もちろんマーケティング志望だった。

研修の頃から彼女の優秀さは際立っていた。研修時の彼女の素晴らしいプレゼンを私は忘れない。営業系は、出身地から離れた支社で営業としてスタートするのだが、私は人柄が優しいと言われる地域に、一方で彼女は排他的で厳しいと言われる地域に配属された。
私たちはちょうど5年間支社で働き、地方に配属された同期の女性陣では最も遅く、東京に戻ってきた。

私は東京に戻ってすぐ産休に入ることになっていたため、営業部内の閑職に回された。
一方、彼女は念願のマーケティング部に同期で初めて配属された。

その後私は出産を機に進学を決意し、会社を辞めて今に至る。
彼女はMBA大学院に行くなど、順調にキャリアを積んでいる。

同じスタートラインに立っていたのに、全く違う人生。

でも、今10年前に戻ったとしても、私はマーケティング部を志望することはなかっただろう。

ではなぜ、彼女のことを羨ましいと思ってしまうのか?

それは、彼女が学生時代からやりたいことがあってその仕事が出来る会社に就職し、見事にその夢を叶えたからだ。その期間、やりたいことが全くぶれることなく、彼女は大ヒット商品のマーケターとなった。

一方の私。

就活の時にいくら自己分析をしてもやりたいことが見つからず、ふんわりとした思いでメーカーに就職。会社に入ったらやりたいことが出来るかもと思っていたが結局それもなく、30代になってようやくやってみたいことが出来たので進学。

そこまではいいのだが、内心はそれが本当に自分が輝ける仕事なのかわからないし、大いに不安という心境。未だに揺れている。

要するに、私はぶれずに思いを持ち続けてそれを叶える人に強烈に憧れるのだ。なぜなら超かっこいいから。そうやって自分がやりたいことを持ち続け、それを仕事にした人が心底羨ましい。私のもやもやした気持ちはそこにあった。

私の口癖は「あの時、〇〇していたら」。
あまりにも繰り返すので、未来志向の夫にいつも呆れられている。

なので、つい「選ばなかった人生」の方に思いを馳せてしまう。

でも途中でハタと気付く。あの時に戻ったとしても、私は絶対に今の人生を選んでいただろうと。

そう思うと今の人生がちょっとだけ愛おしく思えてくる。そうしてこれからも悩みながら自分の道を模索し続ける人生になるのだろう。

(「選ばなかった人生」と偉そうに書きましたが、私が彼女と同じ道を志しても、優秀な彼女のようはなれなかったはずです…)

追記:
先日このnoteを読み、この言葉に大いに励まされた。

いま、たまたま体験していることやたまたま出会った人、それに対して自分はなに感じて、どんな行動をとるのか、逆算思考ではなくて積み上げ方式で毎日を生きてみる。自分の好きを分かったり、毎日を自分のお気に入りにすることって、これでしか得られないんじゃないかな

まさに私は「積み上げ方式」で人生を歩んでいるので、「これでもいいのか」と自信を得た。自分と真逆の人生を生きている人の言葉には、学びが多い。