【短編小説】自戒



1. どこにでもいる「あなた」


<To: marionetteonwires@tkgtkmail.com>
―――企業からプレミアムスカウトが届いております!

登録した記憶のないメールマガジン。就活サイトからの求人票の案内。企業からのヘッドハンティングのお知らせ……。『999+』と頭の悪そうな数字がひょこっと顔を出すメールボックス、その受信トレイを開いて、閉じて、砂山絵理すなやまえりは何万度目かの溜息を吐いた。
学歴。
保有資格。
ビジネス英語試験の点数。
テンプレートとさほど変わらない自己PR。
学生時代に力を入れた経験。
取ってつけたような趣味特技。
顔写真。
これだけの情報をネットの海に易々やすやすと垂れ流して、自分は一体、何がしたいのだろう。
り固まったスマホ首を右手中指の腹でグッとして、ふっとゆるめる。一本の太い氷柱つららに、頭から腰までビキビキとつらぬかれているみたいだ。スマホを背後の布団に放り投げて、机上に頬杖ほおづえき、絵理は窓の外に視線をすべらせた。けれど、何かがに入ってくることはなかった。
深い夜。日付が変わって、もうすぐ二時間ほどが経とうとしていた。
安い、おんぼろ四階建てアパートの、その二階。隣の部屋からは、もうかれこれ三時間ほど、女が男にさかっているき声が騒然とれ続けていた。それを、絵理の真下の部屋に住む人間が天井に何かをドンドンと叩き付けて、迷惑がっていることをしきりにうったえてくる。
「はあ……」
大学生のカップルであるらしいというのは、玄関先の廊下で度々すれ違うから知っている。女が男を連れ込んでいるのだ。両隣や上下階の部屋へ響き渡っていると解っていながらなのか、それとも、本当に周りの人々の存在が見えていないのか、そんなことはもはやどうでもいい。自分も高校生の頃は、隣人に聞かれているだろうと理解していても、お金がないことを正当化して、なのに遠慮の欠片かけらもなく、当時付き合っていた男の住む薄壁アパートで同じようなことをしていたのだから、別に、他人への配慮が足りていない彼らをとがめるつもりは毛頭ない。
むしろ絵理にとって悪質なのは、真下の住人であった。夜通し興に乗っているのは隣の部屋なのに、なぜか自分の部屋の床がゴンゴンと振動する、この謎めいた虚無きょむの時間。ここまで劣悪れつあくな環境で生活していると、もはや怒りや呆れを通り越して、珍しい野生動物の未知の習性をおりの外から観察しているような、そんな不可思議な気分にさせられる。
この環境を、劣悪だ、と思えるぐらいには、日本での生活に馴染なじんできたのかもしれない。絵理はまた、首の後ろを指先でほぐすようにさすった。
うなじめ込まれた発条ぜんまいが、び付いた瘡蓋かさぶたをキシキシと空気にこすらせて鳴いている。この歯車が回り切れば、物語は終わる。例えばの話、今ここで無理やり引っこ抜いてしまえば、すぐに終わらせられるのだろう。そんなことを、今晩何食べようかな、ぐらい、いや、それよりも何気ないことのように考えている。

リモコンを操作したわけでもなく、不意にテレビがついた。
ハッと息を呑んで、絵理は反射的にテレビ画面に視線をった。その瞬間、ジーンとめ付けられるような激痛が首筋に走った。どうやら、首をひねってしまったらしい。歯を食いしばり、目尻に涙をにじませながらテレビの光を睥睨へいげいすると、画面には陸上競技のトラックが映し出されていた。
それは、欧州某国にてリアルタイムで開催されている、陸上競技の国際大会であった。
男子の中距離種目、その予選。スタートラインには既に選手が並んでいて、カメラが選手たちの顔を正面からとらえていく。カメラの前で自信に満ちたポーズをとる者、手を高々と上げてお辞儀をする者、無表情のまま精神統一にぼっしている者、選手たちの表情は十人十色である。かつての日本代表選手やアナウンサーがキャスターを務め、これから行われる競技の見所や注目選手を紹介していた。
ああ、と絵理は見当がついた。
テレビが勝手についたのは、この生中継の番組枠を視聴予約していたからだ。家具家電付きで契約した部屋、テレビは元から設けられていたものの、ハードディスクまでは完備されていないため録画機能が使えない。それでも視聴予約は可能なため、予約した番組が開始されると、自動的にテレビのスイッチがオンになる仕組みになっているのである。
周りの部屋に迷惑が掛からないように、音量を最小限に下げて、絵理は腰を沈めていた座椅子もろとも、身体をテレビ画面に寄せた。
『On your mark』
そのスターターの合図で、全人類がふと心臓を掴まれたかのように、世界が静まり返った。
選手、補助員、観客、実況、解説、カメラマン、キャスター、テレビ視聴者……。空間も距離も越えて、全員の気配が消え去る瞬間が世界を包む。その無限にも感じる時の中で、絵理は誰かの吐く息が震える音を聴いた。
それもつか、すぐさま雷管らいかん咆哮ほうこう刹那せつなの沈黙をバンと蹴破けやぶった。
鳴動が空気をき、脳裏のうりに火花が弾け散る。横並びにスタンディングスタートの姿勢で構えていた細身の選手たちが、その肩や脚にせた重厚な筋肉を猛々たけだけしく隆起りゅうきさせ、地球を押し沈めんとする勢いでトラックに雪崩なだれだした。
中長距離の種目はスタートからゴールまで全力疾走というわけではなく、選手同士の駆け引きによってレース展開が大きく変わってくるのが常である。主に、優勝候補の選手たちが集団の中でどのような動き方をするのか、といったところに気を張って走りながら、粛々しゅくしゅくと、かつ俯瞰的ふかんてきに、レース全体の様子をうかがうことになる。時には序盤から熾烈しれつなハイペースとなって、先頭集団と後続集団の差が大きく開くこともあるし、時には終盤まで全員がひとつの集団に固まって、いつどのタイミングで誰がどう仕掛けるのかを探り合うスローペースな展開になることもあるのだ。
この予選の第一組は、序盤は注目選手が先頭に立ってペースを支配しながらも、集団はひとつのダマとなって、ややスローペースのスタートとなった。ジリジリと脚に乳酸が溜まっていく中、終盤ラスト一周や二周で誰が最初にギアを上げ、そこに合わせて誰が喰らいついていけるのか、非常に精神が摩耗まもうする辛い展開になりそうである。
『こぉれは苦しい展開になりそうだぁ!』
集団が最初の一周を通過した時、あふれ出る興奮を隠しきれていない様子の実況が、絵理も思っていたようなことを、溌溂はつらつとした声に出してうなった。
この組の中には、何人かの注目選手の中でも群を抜いた走力を誇る優勝候補が二人いる。彼らは集団の最後方に位置付けて、まるで、広大なサバンナでこれからシマウマ狩りを始めんとするライオンのごとく、落ち着いた面持ちで他のランナーたちを見つめていた。

野球、サッカー、テニス、バスケ、バレー、ラグビー、卓球……。スポーツ全般にうとい絵理だったが、陸上競技のレースだけは事あるごとに注目して観るようにしていた。それは、自分が日本での高校生活・・・・・・・・を通して、陸上強豪校の、まさにその陸上競技部に所属していたことが大きいだろう。
陸上競技は、他のスポーツに比べて、勝敗の決まり方がシンプルなのが好きだ。
ただ速く走る。
ただ速く歩く。
ただ高く跳ぶ。
ただ遠くへ跳ぶ。
ただ遠くへ投げる。
記録が一番速かった者、一番伸びた者が勝ち。こまごまと規定は敷かれているが、簡潔にまとめれば、大まかなルールはこれだけだ。
他の誰よりも、自分の身体能力を前へ押し出す。100mなんて、たったの10.00秒前後を争う世界である。その0.01秒の一瞬を勝ち取るために、自分の身体を理解し、「速く走る」とはどういうことかを理解し、何年もかけて緻密ちみつなトレーニングを積み上げるのだ。
これでもかと限界を引き上げて、そのうえで、もう一回、もっと前へ、もっと上へとからだを持って往く。
正気の沙汰さたじゃない。陸上競技は、人間がもつ陸生動物としての根源的な力量の極限をぶつけ合う最も美しいスポーツだ、と絵理は思う。
ラスト一周の鐘が鳴った。未だに、集団は台風の如く、ひとつの塊のまま猛然とトラックを吹き抜けている。
残り400mを切った。ずっと先頭を引っ張っていた注目選手がギアを上げ、後続を一気に突き放しにかかる。
それでも、集団は一段階上がったペースに喰らいつく。
なんて辛い展開。準決勝に進めるのは上位五着までだ。
残り200m。割れんばかりの歓声。
流れが変わったのだ。ずっと最後尾を走っていた優勝候補の一人が、異次元のスピードで追い上げてきた。
残り100m。ラスト直線、ホームストレート。
あっという間もなく、彼が先頭に躍り出た。
一番最初から、この大会が始まるずっと前から、誰もが彼を警戒していた、そのはずだった。そんなことはお構いなしの、怒涛どとうの台風をもろともしない、疾風迅雷しっぷうじんらい一閃いっせん。彼の走る様は、逃げ遅れたシマウマの終焉しゅうえんを次々と喰らい尽くしていく、飢えに飢えた獅子ししそのものあった。
ああ……。
苦しい。恐ろしい。
何を、見せられているのだ。目の前で繰り広げられている光景に、理解が追いつかない。ここまで疾走してきて、一体どこに、まだそんな力が残っていたのか。
気がつけば、選手たちも観客も絵理も、全員が固唾かたずを飲んで、鬼の形相ぎょうそうを浮かべ、彼の背中だけを追っていた。
レースが終わり、絵理はドッと息を吐いた。
鼓動。喝采。雄叫おたけびを上げる彼。呼吸を荒げてゴールラインを切り、朦々もうもうと倒れ込む選手たち。
全身が震えていた。テレビ画面を見つめる、その開き切った瞳孔どうこうが静かに元の大きさに戻っていくのを、絵理は感じた。依然として、隣の部屋では絶えず仲睦なかむつまじい甘言かんげんが交わされているし、相変わらず床はドンドンと突き上げられるが、そんな些末さまつなノイズは、絵理の世界から完全に消えていた。
今、この瞬間は、とにかく―――
大会に臨んだすべての選手たちに、「ありがとう」と言いたい。
生きていて、本当に良かった。生きていてくれて、本当にありがとう。一意専心で競技に傾倒する勇姿を、見せてくれてありがとう。そんな感情の灯火が胸にポッと咲いて、静かに、躰の器をじんわりと満たしていく。
涙が頬を伝った。それは、すくって飲み直したくなるほど温かく、優しい味のする涙だった。

唐突に画面が切り替わった。
チャンネルが切り替わったのではない。カメラはどこかの報道スタジオを映しており、正面に座るニュースキャスターを捉えていた。大会の生中継、その尺繋ぎの合間に、ニュース速報が差し込まれたようだ。
闇バイトに手を染めて捕まった若者の、逮捕時の映像が流れた。
組織的な詐欺グループの、一番の下っ端たちである。ジャンパーのような上着で顔は隠されているが、テロップで一人ひとりの名前と年齢が公開されている。
未成年の子がいた。絵理と同い年の子もいた。そして、つい五分ほど前にレースを一位で駆け抜けた彼と同じ年の子も。
十代、二十代、「若者」と呼ばれる者たち。お金に困っていた、断れなかった、という旨の動機が書かれているらしいニュース原稿を、キャスターが抑揚のない無機質な調子で読み上げていく。
燃え上がっていた心臓が、頭から氷水をかぶったかのように、一気に冷めていく。部屋を取り囲む獣たち騒音が、急に大きくなった気がした。
むしゃくしゃしてやった。死刑になりたかった。幸せそうな顔をしているのが許せなかった……。そんな独りよがりの、動機にもなり得ない狂暴を振りかざして、自分と同年代の子たちが、いとも容易たやすく人生をどぶに棄てる選択をしてしまう現実が、生きているこの世界には広がっているのだ。
次の瞬間、未成年の子以外の“犯人”の顔写真が映し出された。
学生、無職、自称経営者……。どいつもこいつも・・・・・・・・犯罪者の顔・・・・・をしている・・・・・、と一瞬でも思った自分に、絵理は愕然がくぜんとした。
二十代で、フリーターで、不安定で……。ああ、自分だって、その「どいつもこいつも」と、なんら変わらないではないか。
全然、他人事ではない。このままこうして膝を抱えてうずくまって、ひたすら現実逃避を続けていては、遅かれ早かれ、いずれ自分も、「どいつもこいつも」たちと同じあやまちを犯すことになる。そんな気がして、ならない。
『この時間のニュースは以上です。それでは、大会の続きを、どうぞ』
自分の番を終えたニュースキャスターが、ホッと安堵あんどするような穏やかな声でそう述べ、するりと流れるようにお辞儀をした。
闇バイトの事件の他に、二、三件ほど報道されていたと思う。ある政治家が特定の宗教団体から賄賂わいろを受け取っていた、だとか。どこかの大学の理事長が脱税していた、だとか。だが、それらの内容は何ひとつ、頭に入ってこなかった。

大会の舞台へと、再びカメラが戻される。
その瞬間、ほんの一瞬だけ、テレビ画面が途切れて黒くなった。その黒に反射した自分の顔は、果たして、“善良な市民の顔”をしていただろうか。
画面の左下に、この番組枠で中継される大会スケジュールが表示された。応援している日本人選手が出場するまでは、まだ一時間以上もある。
絵理は床に転がっていたリモコンをつかみ上げて、それをゆっくりとテレビに向けて、人差し指の爪を立てて赤い電源ボタンを押した。「今つけてやったばかりじゃないか」とでも言いたげな、くたびれた溜息を吐いて、液晶のディスプレイがぶつりと切れる。その暗がりに映った自分の顔つきは、うごうごとうごめく黒い影にまれていてよく見えなかった。
発条がキシキシと音を立てる。
「ショートコント、忍耐」と題して、日本人選手の出場するレースが始まるまでのあと一時間とちょっと、この部屋でわずらわしいあえぎ声と断続的な振動にさいなまれながら、ひたすら座禅を組んで黙想をして暇を潰す、というのも面白そうではあった。だが、すぐにつまらないと思い直し、絵理はひとつ舌打ちをして、地球を踏みつけるように座椅子から立ち上がった。

三和土たたきへ降りる玄関の段差を踏み外して、二、三歩ほど踏鞴たたらを踏み、その勢いのままサンダルを突っ掛けた絵理は、戸口とぐちかるようにして外に出た。
廊下にまで洩れ出ている嬌声きょうせいの前を通過して、アパートの階段を下り、地上へ降り立つ。
湿った夜気やきを胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと細い息を吐く。すると、寝間着のすそに生まれた余分の隙間から、肢体したいの末端めがけて冷気が這い上がってきた。
スマホ首が痛むので、見上げることはせず、視界の上半分に垣間見える夜空に眼をらす。星が瞬く空は澄んでいて、叩き割りたくなるほどに奇麗な夜である。
今、この瞬間、地球上で何人の人が、この星屑ほしくずきらめきに心を動かされているのだろうか。
全人類の瞳に映っている大きな世界、自分の瞳だけが独り占めできている小さな世界、そのどちらでもない世界。たしかに存在している世界のことを想うたびに、胸が、感情が、どうしようもなく締め付けられて、視界に映る風景の輪郭が曖昧になって崩れる。
絵理は裾の内側に両手を忍ばせ、そこに在る、冷えた自分の腹をさすった。そうすると、少しだけ、発条の回転がなめらかになったような気がした。

とりあえず一時間、何をしてこの夜を過ごそうか、そんなことを考えていた―――その時だった。
不意に、鈍い音を聴いた。
蚊やゴキブリを叩き殺した時。アリやカエルを踏み潰した時。カタツムリを蹴り飛ばした時。カマキリやザリガニの腕をいだ時。ミミズやダンゴムシの胴体を引き裂いた時。ネズミを水に沈めて溺死させた時……。
瑞々しくて、どろりとした命の手触りが、からだにフラッシュバックする。
全身が粟立あわだった。
絵理は、この鈍い音の正体を知っていた。
それは、魂がひしゃげる音。神経を逆撫さかなでするような、耳障りな音。そしてその不快な音は、同時に、絶対に耳を塞いではいけない、聞かなかったことにしてはいけない、いのちのこえだった。
誰かが泣いている。自分の手の届く場所で、誰かが泣いているのだ。ハッとそう直感した時、すでに絵理の脚は駆け出していた。
アパートの敷地内、住居の角を曲がる。
ベランダ側が建物の裏手であり、そこには駐輪場が設けられている。その脇に引かれた細い通路の奥に、何かが倒れていた。
「……っ!」
息を呑む。暗闇に眼が慣れてくると、すぐにそれが人だとわかった。
「大丈夫ですか!」
絵理はすがり付くように滑り込んで、声を掛けた。その人の肩を揺らし、頬を叩く。朦朧もうろうとしてはいるが、まだ意識はある。息もしている。ただ、ひどい出血。頭を切ったのだろうか。
絵理はすぐにポケットからスマホを取り出して、119に通報した。
遠影とおかげ消防署です。火事ですか、救急ですか?』
「救急ですっ!」
遠影消防署のオペレーターに、絵理は叫んだ。
『住所は今いる場所で間違いないですか?』
「え? あ、はい! そうですっ!」
どうやら、スマホで位置情報が伝わっているらしい。
『どういう状況ですか?』
「人が倒れています!」
『何人ですか?』
「一人ですっ!」
男性か女性か、年齢はいくつぐらいか、意識はあるか、怪我はどの程度か、周囲は安全か……。オペレーターは、倒れている人の情報を淡々と絵理に訊いてくる。冷静さを欠いてはいけない、と自分に言い聞かせながら、怒号にも似た声をあげて、絵理は荒々しくオペレーターに叫び続けた。

深夜の澄み渡った空の下に、救急車のサイレンが聞こえてきた。
その時には、絵理の他に、三、四人の住人がその人を取り囲んでいた。周りに乱立するアパートやマンションのベランダから、遠巻きに事態を傍観する者もいた。
ある者はその人に回復体位をとらせ、ある者は止血を試みて、ある者は声を掛け続けて、絵理は救急隊をその場まで案内した。どうしてそうなったのかも思い出せないほどに、アパートは騒然として、その人を救おうと一人ひとりが必死だった。
その人の躰が担架に載せられ、救急車へと運ばれていく。第一発見者である絵理も、救急隊の指示に従って救急車へと乗り込もうとした。
その瞬間―――
「……ろして」
その人が、何かを呟いた。嗚咽おえつに紛れてかすれていたが、たしかに、絵理はその人の声を聴いた。
「大丈夫ですよ、楽にしてくださいね」
救急隊員の男が、その人を落ち着かせ、応急処置に取り掛かる。
すると、その人はもう一度、震える唇を噛み締めるようにして口を開いた。
「もう……、殺して」


2. A Numb Alien


それからの一週間ほどは、水平線に浮かぶ蜃気楼しんきろうのように曖昧なものだった。
アパートの裏手で倒れていたのは、土山詩夢つちやまぽえむさん。絵理よりも四つ上の二十八歳で、同じアパートの四階に暮らす職業不詳の女性だった。
夜間救急外来の外科病棟、その待合室の長椅子に呆然と座っていたら、土山さんのご両親が凄まじい剣幕で駆け込んできて、絵理の手を取って詫びに詫びてくださった。
娘を助けてくれてありがとう。恐い思いをさせてしまってごめんなさい。そんなような言葉を延々と浴びせられていたような気がする。救急車に乗り込んでからの記憶は、その時の、土山さんのお母様の手がとても温かかったことしか憶えていなかった。
数日にわたってアパートの事故現場では見分調査がり行われ、絵理は自室で発見の経緯や当時の状況などを警察に説明した。断片的な記憶のページをめくっていく最中さなかには、「もう、殺して」と言う土山さんの声が、おどろおどろしいほど生々しい温度をともなって、脳裏にへばりついて木霊こだましていた。
土山さんとは面識があったか。なぜそんな夜遅くに外へ出たのか。アパートでは住人トラブルなどはあったか……。事情徴収で尋ねられる質問の数々は、半ば自分が犯人扱いされているようなものも多くあった。だが、淡々と受け答え、同時に現場検証が並行して進められていくうちに、本件は事件性が限りなく低い事故だと結論付けられた。
病院で治療を受けた土山さんが、自殺をするつもりで飛び降りたのだと自白したらしい。
土山詩夢。言ってしまえば、同じアパートで暮らしているというだけの赤の他人である。それ以上でも、それ以下でもない。彼女の自殺が未遂で済んでいようがいまいが、絵理の人生にこれといった損失はない。いや、一連の事故のせいで、待ち侘びていた日本人選手が出場するレースをリアルタイムで観ることが叶わず、朝のネットニュースに目を通して五秒で結果だけを知る羽目になったことは、むしろ損失と捉えられるかもしれない。
でも、咄嗟とっさの判断で助けた。助けなければいけない、などとは考えもせず、躰が先行して動いていた。自殺願望のある赤の他人を助けるというのは、自分の独りよがりな正義なのだろうか。
―――もう、殺して。
土山さんの口から放たれた言葉の意味を、絵理は考えていた。
分からなくなってくる。自殺を図った、それでいてまだ息をしていた土山さんの命を世にとどめた自分は、正しい行動をとったんだよな?
絵理は項に手を当て、回る発条を掴んで自分に問い掛けた。だが、歯車は乾いた音をカラカラと鳴らすだけで、そこからの応答はなかった。

土山さんは精神科の病棟で入院することになった、という話を彼女のお母様から聞いたのは、一体いつ頃のことだっただろうか。
救急外来の待合室で陳謝された直後だった気もするし、あれから随分と日が経った頃の昼下がり、あるいは夜半よわだった気もする。直接聞いたのか、あるいは電話越しに知らされたのか、何ひとつとして鮮明に思い出せないのに、なぜか絵理は土山さんが入院中であることを知っていた。
身辺の取り調べがひと段落して、警察の束縛から解放された絵理は病院へと足を運んだ。見舞いに行くつもりなのか、冷やかしに行くだけのつもりなのか、それすら分からなくなってくる。怪我の程度がどれほどのものだったのか、容態は安定しているのか、退院の目処めどは立っているのか、今後の生活はどうするつもりなのか……。そんなことを気にかけながらも、おそらく自らは何も訊ねないだろう、という気もしていた。
事故の後、しばらくの間、土山さんと同じ病院の精神科に絵理も通院していた。傷病者の第一発見者で、しかもそれが自殺未遂で倒れていた人間だったので、警察からメンタルケアの通院を勧められたのである。たしかに、土山さんを発見した瞬間やら、彼女の口から「もう殺して」という言葉を聞いた瞬間やら、特定の場面で心情を切り取ると、かなりショックを受けていたと思う。しかし、どれだけ大きなショックを痛感しても、それをいつまでも引き摺ったり、感情の制御が利かなったりすることはない。そのため、経過観察の検診でメンタルが回復しつつあるわたし・・・・・・・・・・・・・・・をアピールしているうちに、だんだんと馬鹿らしくなってきて行かなくなってしまった。
無責任に生命の尊さをうたう、なんて恐ろしいことは、絵理にはできない。しかし、どんな形であれ関わりをもった以上は、生きることに対して土山さんが少しでも前向きになってくれればいい、と人並みに願うばかりであった。
エントランスホールに足を踏み入れて、面会受付の窓口の前に立つ。
「大変申し上げにくいのですが……、土山さんは、ご本人様の意思により、ご親族様以外の方々との面会をお断りしております」
応対してくれた事務員の女性に事情を説明すると、そう返された。
絵理は呆然と立ち尽くした。
「ああ、そうですか」
左手に提げていた紙袋を落としそうになり、力を込めて握り直す。
ご親族様以外との面会をお断りしております。それすなはち、土山さんとは縁も所縁ゆかりもない絵理には、彼女に顔を見せる権限がないということである。お見舞いのしるしに、焼き菓子の詰め合わせを買って持ってきたのだが、どうやらすべてが無駄足に終わってしまったらしい。
「もしよろしければ、お土産だけでもお渡ししておきましょうか」
気まずそうにお尻をもぞもぞとさせて座る受付の女性が、絵理の持つ紙袋に視線をって提案してきた。
「はい、では、お願いします」
「お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「砂山絵理です」
たしかに土山さんの身を案じて菓子折りを持ってきたのだから、持ち帰って一人で消費するのも気が引ける。気味の悪い物体を遠ざけるような心地で受付の女性に紙袋を手渡した絵理は、ひとつ会釈をして身をひるがえし、その場から引き返すほかなかった。

清水きよみずの舞台から飛び降りた人の生存確率って、どのぐらいだったんでしょう」
ガソリンスタンドでのアルバイト中、事務所の休憩スペースで一緒に軽食をとっていたバイトマネージャーに、ふと絵理は話しかけた。
すると、少し離れたデスクに張り付いて、たどたどしい手つきでパソコンのキーボードを叩いていた店長が、ぼんやりとした口調で曖昧な反応を見せた。
「んあぁ、なんか、意外と高かった、みたいな話があるよなぁ」
「八十パーセントぐらいあったような気もしますね。江戸時代の当時は、真下の地面が土で柔らかかったり、木が生い茂ってたりしていて、それがクッションになって死なずに済んだ、みたいな話は聞いたことあります。というか、どうしたんですか砂山さん、もしかして、何か思い詰めてることでもあるんですか?」
コーヒーを片手に京都の観光雑誌を読んでいたバイトマネージャーは落ち着いた物腰で言うと、かけていたメガネを外して絵理を見つめた。彼女は絵理よりも二つ年下の二十二歳だが、その理知的な言葉遣いやたおやかな所作は、絵理よりも店長よりも大人びて見える。
「い、いやぁ……、そういうわけじゃないんですけど……。ほら、それ、京都の雑誌読んでたから、ふと気になって」
真意を見定めるようなバイトマネージャーの視線に射抜かれて、絵理はしどろもどろに言い淀んだ。
日本の高校を二十歳で卒業して、ここでアルバイトをしながらフリーター生活を始めてかれこれ三年の歳月が経つ。病棟で土山さんとの面会が叶わなかった後もその日々は変わらず、絵理は最低限生活を営めるほどの費用を稼ぐためだけにアルバイトをこなし、記憶にも残らないぼんやりとした毎日を淡々と送っていた。
「あぁ、そういうことでしたか。砂山さん、こないだの急なシフト変更の時から、なんとなく上の空だから、その……」
バイトマネージャーが心配そうな上目遣いで言う。
「そうそう、あの時は大変だったなぁ」
今まで無遅刻無欠勤でここの接客業務に尽力していた絵理が、初めて店長に急なシフト変更を申し出たのは、土山さんの自殺未遂の一件での取り調べを受けていた時のことだ。だが、その一連の出来事を二人に打ち明けることは、土山さんのプライバシーに関わることもあるし、個人的な思いもあってしておらず、「家庭の都合で欠勤を余儀なくされた」と伝えてあった。当然、事故に遭遇して巻き込まれた時期も、既に月間のシフトは組まれていたため、一、二週間ほどのシフトの穴埋めや時間帯変更を快く承諾してくれたピンチヒッターの子たちには感謝してもしきれないほどである。
「ほんとすいませんでした、ご迷惑をおかけしてしまって。今後はないようにしますので」
「いいよ、いいよ。砂山さんには頭上がらないほど助けてもらってるからさ、あんま無理しないでね。なんか相談事があれば、気負いせずに言ってよ? 正社員登用の話なんかも……、まぁ、興味があれば、でいいんだけどね」
店長はそう言ってはくださるものの、あまり正規労働者を必要とする仕事ではないからか、今の業務内容のまま正社員に昇格することは難しいらしい。
「ありがとうございます。本当に路頭に迷ったら、チャレンジしてみます」
自動車整備士や運転免許などを取得できるほどの稼ぎのない絵理は、現在、このまま一生を終えても構わないと思いながらも、この仕事を通して苦ではないと感じた接客業を視野に、正社員としてやってみたい職業をなんとなく探しているのである。

地面がふかふかだったから、木が生えていたから、それらがクッションの役割を果たして、清水の舞台から飛び降りても大半が生き延びれた。
事故現場となったアパートの駐輪所脇の通路には、景観保持と雑草対策を兼ねて、本物と見紛うほど精巧にデザインされた人工の芝生が敷かれている。その上に落ちたから、土山さんはかろうじて一命を取り留めることができたのだろうか。
飛び降りは二階でも頭から真っ逆さまに落ちれば確実、地面がコンクリートなら問題なく逝ける、変に思い留まって死ねなかったら逆にもっと地獄、そんなことより生きることを考えろ……。アパートの四階から飛び降りた時の生存率をインターネットで検索すると、質問掲示板には雑多な回答がつらつらと散りばめられていた。飛び降り自殺が未遂に終わった代償に、半身不随の障碍しょうがいを負って生き続けている人々の記事もいくつかヒットした。恐らく今も入院生活を送っているであろう土山さんの怪我は、果たしてどれほどのものだったのだろう。
土山さん本人の気持ちがどうであれ、彼女が一命を取り留めて本当に良かった、と絵理は思っている。
絵理の働くガソリンスタンドはセルフサービスではなくフルサービスなので、誘導から送り出しまで全てスタッフが応対する決まりになっている。入ってきたお客様の車を給油スタンドまで誘導して、ガソリンの種類と給油量の注文を受け、開けた給油口にノズルを差し込んでガソリンを充填していく。その間にガラス窓を拭いたり、他のお客様の車を誘導したりして、最後に清算して送り出して一件終了。時には洗車やオイル交換、タイヤの空気圧チェックなども手伝う日があり、業務中はひたすら動き回っていた。
誘導、給油、会計。誘導、給油、会計。誘導、給油、会計……。身体を動かしていると、自ずと土山さんのことは思い出す暇もなく、飛ぶように時間が過ぎていく。特にこの店舗は主要な大通りに面していることもあり、仕事終わりの夕方や土日はかなり忙しいほうらしい。たしかに手を休める暇はないが、躰に馴染めば回転効率よく動けるため、絵理自身は、あまり辛いと思ったことはない。何より、なんでもいいからとりあえず収入がある状況に在る、というのが非常に助かっていた。

「砂山さん!」
唐突に名前を呼ばれたのは、夕方の繁忙時間帯を乗り切って一息ついた頃だった。
絵理は肩をびくりと震わせて、叫び声を上げそうになるのを必死に堪えた。給油スタンドに案内した軽自動車の運転席の窓が開き、注文を受けようと駆け寄ったタイミングで運転手から声を掛けられたのである。
絵理はまた、自分に溜息を吐きたくなった。視聴予約をしていたテレビがいた時もそうだったが、不意に眩しい光が瞬いたり、大きな声で名前を呼ばれたりすると、躰が過剰に反応してしまうのである。悪癖とまでは言わないが、些細な笑い声が背後でポッと湧いただけでも心臓が跳ねあがるほど過敏に驚くことがあるから、意識的に直したい気質ではあった。
「ああっ! お久しぶりです!」
運転手は、土山さんのお母様だった。
「あたしもここ頻繁に使うからさ、砂山さんがここで働いてるの知ってたんだけど、来る度に声を掛けようかどうしようか、迷ってたのよ」
「あぁ、ご近所にお住まいなんですね」
「ええ、ウタ・・のアパートから車で五分もかからないところにあるわ。あ、えーっと、レギュラー二千円分でお願いします」
「はぁい、かしこまりました!」
お母様から千円札二枚を受け取り、絵理は軽のワンボックスの給油口を開いて赤色のノズルを突き刺した。
「菓子折り持って、ウタのお見舞いに来てくださった、って病院から聞いたわ。ごめんねぇ、会えず仕舞いにさせてしまって」
その声からは疲労が滲み出ているが、事故当初に比べれば、お母様の顔色は随分と血色が良くなったように見える。
「いえいえ、その……、ウタさんのご容態はいかがですか?」
布巾で手早くフロントガラスを磨きながら、絵理は注意して言葉を選んだ。
「まだ入院してリハビリ中だけどね、それなりに元気にやってるわよ。今月末から通院治療に切り替わるから、退院したら真っ先に砂山さんにご挨拶するよう強く言っておくわ」
何の気ない表情で土山さんの身を案じるお母様を見て、絵理は確信した。
気にはなっていたのだ、「詩」に「夢」と書いて、「ぽえむ」と読む土山さんの名前が。高校時代、「海音」と書いて「まりん」という名前の女の子が同じクラスにいたから、絵理は事情徴収を受ける最中に彼女の名前を目の当たりにしても、さほど驚きはしなかった。
キラキラネームと言っただろうか。世間一般では通用しないような、風変わりな読み方をする名前である。恐らく、土山さんの実名は「ぽえむ」と読むのだが、通称名として「ウタ」という呼び名を採用しているのだ。
レギュラー二千円分の給油が完了するまでの合間、絵理はお母様と少しばかり近況報告を交わし合った。土山さんは、当分の間は車椅子で生活することになるが、リハビリが上手くいけば、ゆくゆくは杖のみでの生活ができるようになるまでの回復の見込みがあるらしい。アパートの四階から飛び降りたのにもかかわらず、ここまで怪我が軽微な程度で済んだのは奇蹟的な幸運であるとのことだった。
「娘を救ってくれて、本当にありがとうね。この度の御恩は必ず、また改めてお礼するわ」
「いえいえ、とんでもないです……。また、お願いします」
給油を終えたお母様のワンボックスカーを出口まで見送り、その去り行く背中に絵理は深々と頭を下げた。
「……」
娘想いの、素敵なお母様だな。そんな、幾度も味わった羨望と嫉妬の心地が、少しだけ項の発条に絡まって渦巻いた。

性懲しょうこりもなく、受かる望みのなさそうなキラキラした大企業のオンライン説明会をスマホで眺めていると、部屋のチャイムが鳴った。
光熱費をケチって暖房を切っているため、神経を刺すような冬の冷気が足許あしもとを這っている。テレビ番組が年の瀬の特番を組み始めるような頃だった。
相変わらず、極貧生活を送っている自覚はあった。
お金はないが、別に幸福でも不幸でもなく、食事と運動と睡眠にのみ気をつかう毎日。昼勤夜勤に関わらずシフト希望を出して、ほぼ毎日ガソリンスタンドで接客をこなし、家賃とスマホ台、国民年金と国民皆保険が支払えるだけの給料を稼ぎ、それを差し引いた残金をすべて生活費にて、ようやく人間っぽい暮らしができている。
客観的に見れば生活水準はかなり低いだろうが、大勢の人間と関係を築いて馬車馬のように働きたいと思えるほど、絵理にとって人間社会は魅力的ではなかった。これと言って欲しい物も崇高すうこうな目標もなく、溢れ返る娯楽や恋愛に興味も関心もなく、生きることに対して希望も絶望もない。持ち金の範囲内で自由に暮らして、何かしら病にしたらそれまでの人生でもいい、と絵理は思う。
最初に訪れた死を先延ばしにせず、大人しく受け入れよう。所詮は裕福な奴隷か貧乏な自由人かの違いでしかない、というのが今のところの結論である。
解約しても何ひとつ損はないな、と思えるほど退屈なスマホの画面をスリープ状態にして、パジャマ姿の絵理はスマホ首を揉み解しながら玄関口へと向かった。
「ああ、絵理ちゃん、こんにちは」
「ああ、ウタママさん、どうも」
扉を開けた先には、お母様がたたずんでいた。
アルバイト中に初めて声を掛けられたあの日以来、絵理と土山さんのお母様はガソリンスタンドで会う度に談笑するようになっていた。
そして、気づけば今では、絵理は「ウタママさん」と、お母様は「絵理ちゃん」と呼び合う関係になっていた。肝心のウタさんとは一度も再会できていないのに、である。
「よかったぁ。部屋番号教えてもらってたのに、うろ覚えだったから、違う人が出てきたらどうしよう、ってそわそわしちゃった」
「どうされたんですか?」
壁の薄いアパートだからあまり大声を出さないでほしい、という意図も含めて、絵理は声を潜めてお母様に訊ねた。
「ちょうど一週間前に娘が退院したの」
「ああ、そうだったんですか。おめでとうございます!」
「うん、ありがとう。その節はお世話になりました。しばらくは実家のほうで通院しながら養生ようじょうすることになったから、ちょっとご挨拶にと思って」
「ああ、それは……、よかったです」
あの事故から、かれこれ三ヶ月ほどは経っているだろうか。ぼんやりとした感覚で日付を数えていると、お母様が何の気ない調子で切り出した。
「それでね、忘年会じゃないけど、今夜うちで手巻き寿司をやるの。子供達の帰省に合わせて毎年恒例でやってるんだけど、その……、もしよかったら、絵理ちゃんもどうかな?」


3. A Clear Demon


絵理は、お母様からの誘いを断り切れなかったことを少し後悔した。
お母様の軽自動車に乗って連れられてきた土山さんのお宅は、高校時代にお洒落しゃれと思って買ったセーターにジーンズという冬場唯一の外着がひどくみすぼらしく思えるほどの邸宅だった。
門扉もんぴの付いた駐車スペースには、いつもお母様が乗っている軽のワンボックスカーの他に、まばゆい光沢を放つ外車が二台止まっている。土山さん一家は、お父様にお母様、ウタさん、それにウタさんのお兄さんとお姉さんを入れた五人家族。そこに加えて、大きなシベリアンハスキーを二匹も飼っていた。住居の前には、ハスキー犬二匹が駆け回れるほど大きな、かぐわしい草原の庭園が広がっていた。
臆することなく話してみると、すぐに絵理は土山さん一家と打ち解けた。お父様は国内最大手の大規模総合商社の役員、お母様は専業主婦だった。お父様が遺産相続で譲り受けた土地が都心にあり、そこで経営する月極つきぎめの駐車場からも不労所得を得ているらしい。お兄さんとお姉さんはすでに結婚しており、自立して各々の家庭をもっているのだとか。
家族の命の恩人だからか、お母様以外の方々とは初対面にもかかわらず、皆さんは絵理のことを快く歓迎してくれた。どうして、ウタさんが絵理と同じアパートで暮らしていたのかは知らない。だが、どうやら絵理は、“上級国民の命”を救ってしまったらしい。
お母様とお姉さんがキッチンに立って手巻き寿司の準備をして、お父様とお兄さんと絵理がリビングのソファに腰掛けて談笑を交わす。そんな一家団欒だんらんとした、学校の教室二つ分はあるほどの空間に、ウタさんの姿はなかった。
「ウタさん、元気ですか」
「ああ、元気にやってるよ。今、庭にいるんじゃないか?」
それとなく絵理が訊いてみると、お父様が平然と答えた。その視線の先、レースのカーテンが掛かったガラス窓越しには、前庭へ突き出た縁側が続いている。
「まぁ、あたしらもいて、ちょっと気まずいんだろうね」
「かもなぁ。別に不仲ってわけじゃないんだけど、さすがにあんなことがあったからな」
そう言って、困ったように眉をひそめて笑うお兄さんとお姉さん。ウタさんが自殺未遂を起こしたことは、当然、家族には知れ渡っているらしい。
「あの子のためにわざわざ来てもらったのに、挨拶のひとつもないだなんて……。ちょっとあんた、ウタのこと呼んできてちょうだい」
そう言って、お母様が低い声でお父様に指示を飛ばす。
あー、とも、うー、ともつかない声をあげながらソファから立ち上がろうと身じろぎをするお父様を、慌てて絵理は制した。
「いや、いいですよ。わたしが行きます。素敵なお庭も拝見したいですし」
「そう? ごめんなさいねぇ」
「いえいえ」
困ったように笑うお母様に微笑を返して立ち上がり、絵理は半ば逃げ出すようにリビングを後にした。
窓を開け、物持ちの良さそうな履物に足を通して、縁側から前庭へ降り立つ。その間際、「いい子じゃん」「そうでしょう」と言い合うお姉さんとお母様の嬉々とした声を背後で聞いた。

コニファーの生垣が外縁を囲うようにそびえ立ち、地面では青々とした天然の芝生が風にそよいでいる。
無駄なく整えられた、どちらかと言えば西洋的な風情のある庭園。お父様の私物だろうか、縁側の脇にはパターのゴルフクラブが立て掛けられている。庭の中央にはベリーのような赤い実のった庭木が植わっており、その周りをぐるりと走るように、縁側からレンガタイルの小径こみちが滑らかに伸びていた。
思わず裸足で走り回りたくなるような衝動に駆られたところで、シベリアンハスキーが一匹、長い舌を垂らして絵理の元に駆け寄ってきた。腰の高さほどはある、灰と白のふかふかな毛をまとった大きな犬である。初めて見る客人なのに頭を撫でても吠えたりせず、大人しくて人慣れしていて、テストでも解かせたら絵理よりも断然高い点数を取ってしまいそうなほど利口に見えた。
犬が走ってきた方向に視線を流すと、庭木の向こう側の小径にウタさんがいた。車椅子に座り、芝生で寝そべるもう一匹のシベリアンハスキーを眺めている。遠目から垣間見える横顔からは、物思いにふけっているようにも、何も考えずに安閑あんかんとしているようにも見えた。
「こ、こんばんは」
レンガタイルの小径を辿って歩きながら、絵理はウタさんに近づいた。
「ああ……、どうも」
ウタさんは絵理に気づくと、ついに来たか、とでも言いたげな気まずそうな表情を浮かべて頬を緩めた。
風がさわりと頬を撫でた。その隙に流れた沈黙は、吸い込まれそうになるほど深く、遠く、うすら寒いものだった。
「……大きな犬ですね」
挨拶だけして立ち去るのもばつが悪いと思い、絵理は平静を装って呟いた。
「そうでしょう。あたしたち子ども三人が独り立ちしたからって、母が里親として譲り受けたそうよ。これでまだ子犬なんですって」
「まだ大きくなるんですか!」
当たり障りなく、それでいてやや大袈裟に反応を返してみる。
すると、ウタさんの表情が少しだけほころんだ
「そうみたい。あそこでボーっとしてるのが女の子のモノで、あなたの側にいるのが男の子のクロよ」
「モノとクロ。そのままの毛並みをモノクロームで表現できるから、ってことでしょうか?」
「単純に、白と黒の二色だからってことじゃないかしら」
「ああ……、なるほど」
であれば、モノとクロではなく、シロとクロになるはずではないか。白と黒の二色で白黒を表現した場合、それは“monochrome”ではなく“black and white”である。そんな余計な指摘がつい口からこぼれそうになったが、張り詰めていた雰囲気がせっかく解れ始めたのだから、と絵理は納得したように口をつぐんだ。
「モノ! おいで!」
そう言って手を叩くウタさんに反応し、芝生で寝転がっていたモノが尻尾を振ってウタさんの脚にり寄ってきた。
ウタさんがモノの頭を優しく撫でる。その和やかな光景を見ていたら、些細な言葉の定義の違いなどどうでもよくなった。それに、ペットの名前ということを考えれば「シロ」より「モノ」のほうが女の子らしい響きがするし、何も問題はないだろう。
「お利口さんですね」
ひざを折ってしゃがみ、クロの背中をわしゃわしゃと撫でてやると、クロは気持ち良さそうに目を細めて大きく欠伸した。

ハスキー犬を愛でたことを皮切りに、高校時代に同じ陸上部だったことや、小説や漫画が好きなことで意気投合し、絵理とウタさんはぎこちなさを残しながらも盛り上がった。
絵理の眼には、ウタさんの辿ってきた人生の何もかもが光に満ちて見えた。
淡々としていながら裏では心配してくれる、優しい両親に兄と姉。賢くて人懐っこい犬が二匹。街中でも一目置かれるほどの豪邸。何もせずとも湧いて溢れ出てくる金。ウタさんは、絵理が未来永劫手にすることができない物を、すべて持っていた。一夜限りのお誘いだし、と割り切っていたが、これほどまでに歴然とした貧富の格差を見せつけられては、さすがに骨身に応えるものがある。
クロを撫でながらウタさんと話しているうちに、絵理は吹き出してしまいそうになった。時折、あまりにも自分の人生が惨めすぎて、声をあげて笑ってしまうことがあるのである。
「絵理さん、しっかりしてるわね」
ウタさんが言った。
「そうですか?」
「うん。なんか、あたしなんかより、ずっと大人に見えるわ」
溜息交じりにそう問いかけてくるウタさんは逆に、実年齢を知っているからか、なんだか余計に子供じみて見えた。
「今年で二十四になりましたよ」
「すごいね、ついこの前まで大学生だったのよね?」
「あー、いや、わたし大学には行ってないんです」
「ああ、高卒なのね。それにしても、高校出てから六年しか経ってないなんて、信じられない」
「えー、正確には、まだ三年ぐらい、なんですけどね」
「え? どういうこと?」
四年制の私立大学で教育学の学士号を取得し、一年間アメリカの語学学校へ留学し、卒業して帰国した後は英語教諭として公立高校で教鞭をっているというウタさんは、例の事故により現在は離職中で、リハビリと静養に専念している。そんな彼女にとっては、習い事をすること、国公立だろうと私立だろうと大学まで進学すること、語学留学で渡米すること、そこまでの教育費はすべて親が負担してくれること、それらすべてが普通で、当たり前のことなのだ。
高校で留年したのか、海外留学でもしていて卒業が遅れたのか、そんなことを矢継ぎ早に訊ねられたが、絵理はやんわりとそれらを否定した。
「実は、わたし……、生まれも育ちも日本じゃないんです」

これ以上妙な眼差しを向けられるのも面倒だったので、仕方なく、絵理は自分の生い立ちを打ち明けることにした。
イギリスで生まれ、シングルマザーの家庭で育ったこと。向こうで義務教育課程を終え、同年に日本へ移り住み、その翌年から派遣社員として働きながら定時制高校へ四年間通っていたこと。高校の陸上部には授業を終えた全日制の子たちに混じって参加しており、絵理は練習の後に授業を受けていたこと。高校を卒業した後、今は近場のガソリンスタンドでアルバイトをしているということ。朧げな記憶を断片的に話しているうちに、だんだんとウタさんの顔色が好奇から悲哀へと変色していくのがわかった。
「お母様は、まだイギリスにいらっしゃるの?」
「ええ……、いる、と思いますよ」
母親との関係までは伝える必要もないだろう、と絵理は笑ってはぐらかした。
「砂山さんが大人びて見える理由が、なんとなく分かった気がするわ。大変だったでしょう」
ひとつ間を置いて、ウタさんが言った。まだ理解が追いついていない様子だったが、その声からは驚愕と懐疑と、少しばかりの憐憫れんびんの情が滲んでいたような気がした。
「まぁ、大変じゃなかった、と言えば嘘になりますけど、別に、大して苦労はしてないですよ。入学試験とか、あってないようなものだったし」
嫌味ではなく、本当に勉強面では苦労していない。日本に来てからの生活は、別に悪いものではなく、むしろ幼少期よりもだいぶマシになった、と断言できるだろう。
「はあ……、すごいわね。十代で、しかも高校生で独り立ちだなんて、尊敬しちゃうわ。十六、七の頃なんて、あたし、なんも考えてなかったなぁ」
なぜかは分からない。だが、冬晴れの清々しい空を見上げるウタさんの横顔を見て、絵理はふと思い出した。
―――もう……、殺して。
自殺を図って一命を取り留めたこの人が、救急車に担ぎ込まれたその瞬間に、そう吐き捨てた記憶を。
「その……、体調はいかがですか」
キシキシと音を立てる項の発条に手を添えて、絵理はウタさんに訊ねた。
「ああ、うん……、それなりに良くなってるわ。ありがとう。そうそう、あの焼き菓子の差し入れ、とても美味しかったわ。ごめんなさいね、すぐにお礼に伺えなくて」
「いえいえ……、事が事だったし、無理もありませんよ」
「ええ、本当に、助けて頂いたことは感謝してもしきれないわ。最近、生きていて良かった、ってようやく思えるようになってきているの。あの時はちょっと、まともな精神状態じゃなかったから……」
「……何があったのか、聞かせてもらえませんか」
絵理は意を決して、それでも何の気ないようにハスキー犬のクロとじゃれ合いながら、ウタさんと目を合わさずに言った。
「……そうね、そうよね―――」
ウタさんは遠い思い出を懐かしむようにそう前置きをすると、滔々とうとうと事の顛末てんまつを語り始めた。

「あたし、普段は『ウタ』って呼ばれているけれど、本当はウタじゃないの。戸籍上の本名は、ぽえむ。『うた』に『ゆめ』と書いて、『ぽえむ』って言うの。おかしな名前でしょう」
「……」
「あら、もしかして知ってた?」
「……ええ、実は。警察から取り調べを受けていたので……、偶然ですけど……ごめんなさい」
「そう、別に、砂山さんが謝ることじゃないわ。むしろ、知ったうえでこんなふうに接してくれる人、滅多にいないから嬉しい」
こんなふう、というのがどんなふうなのか分からなかったが、絵理は自然と受け流してウタさんに続きをうながした。
「それで、小中学生の頃は小馬鹿にされてたの。『ぽえむ』って誰かから名前を呼ばれると、教室でクスクスとわらわれたり、学校中に響くぐらい大きな声で名前を連呼されたりね」
「うわぁ、ひどいですね」
「ううん、それが、そうでもなかったの。今になって思い返せば、いじめられていたのかも、って感じる時期はあるわ。けれど、クラスメイトとは仲良くやれていたし、普通に友達もいたし、いじられキャラみたいな感じで、その時は嫌じゃなかったの」
客観的に見てそれがいじめだったとしても、被害者にあたるウタさんにいじめられた自覚がないのであれば、大事にはならなかったのだろう。きっと、ウタさんの人柄と町の治安が良く、奇蹟的に道徳をわきまえた児童生徒が学校に集まっていたのだ。
ひとつ溜息を吐いて、ウタさんは続ける。
「それから、授業参観だったか保護者面談だったか、あやふやなんだけど、何かしらの形で、あたしの名前が小馬鹿にされていることが学校から両親に伝わったの。キラキラネームだからというだけのことで、社会人になった時に他人よりも苦労を強いられるかもしれない、って。うちの母親、鈍感なんだけど変なところで物分かりは良くてね、それで、高校進学を境にあたしのことを『ウタ』と呼ぼう、って言い出したの」
誰が彼女を『ぽえむ』と名付けたのか。親が子に名前を与える時、その子の行く末にどれだけ想像をせて願いを込めるものなのか、それは分からない。だが、お母様は名前を付けることに対する認識が浅く短絡的だったことに気づいて、大いに反省して、『ぽえむ』とは別に『ウタ』という通称名を用いることに決めたのだ。
「地元の誰とも進学先が被らないように県外の私立高校を受験して、ありがたいことに受かって……。それで、その進学先には事情を説明して、『ウタ』という名前を使ってくれ、ってひたすらお願いして、そこからあたしはウタになったの。生まれ変わった、なんて言ったら少し大袈裟だけどね」
そう言って、ウタさんは少女のような幼気いたいけな笑みを浮かべた。

話を聞いている限り、改名するという選択肢はなかったのだろう。
家族もウタさん自身も、『ぽえむ』という名前を嫌っているわけではないのだ。正式な書類などは本名の『ぽえむ』で通さなければならないが、学校側と綿密に連携すれば、周囲の子たちが彼女を「ウタ」と認識するように、学校環境を表面的に操作することはできたはずだ。
「でもね―――」
その瞬間、ウタさんが唇を震わせ、こらえるように強く瞬きをするのが見えた。
「ここ二、三年かな。高校教師になって初めて他校に異動になってね……。その移動先で、いつの日からか、生徒たちがあたしのことを『ぽえむ先生』って呼んでくるようになっちゃってね……」
「……それは、愛称ではなくて、ですか」
「あたしも最初はそう思ったの。でも、そんなんじゃなくて、明らかに侮辱ぶじょくしてくるような言い方でね、ぽえむ先生、ぽえむ先生、って。隠し通せるとは思ってなかった、というか、最初から隠してるつもりもなかったんだけど、どういうわけか、そこであたしの本名が知れ渡っちゃってたのよ」
「……」
「そこからは、もう、何をしても何を言っても駄目でね。市内でも一際ひときわ名高いほど治安の悪い高校だった、っていうのもあったのかもしれないけど、教師と生徒の関係でも容赦がなくて……。教室に入れば『今日の一句』って黒板に落書きされてたり、背後から消しゴム投げつけられたりね。人の名前を馬鹿にしないで、って訴えても聞く耳持ってくれないしで、もう散々」
「完全に、教師いじめですね」
形は異なるが、絵理はこれに似た感覚を知っていた。
「そうなの。あれは完全にいじめの域だった」
「他の先生方には……」
「相談してみたわよ。でも、『生徒からの揶揄やゆなんてあって当然でしょう』とか『お前にはスルースキルが欠けてる』とか、『そもそも改名せずに通称を押し通そうとしたのに無理があったんだ』みたいなことまで言われちゃってさ」
「うわぁ……、的外れですね」
「でしょう? 全然まともに取り合ってくれないの。まぁ、とはいえ、みんな忙しいから、煙たがられるのに納得しちゃう自分もいたりしてね。それで、ただでさえ尋常じゃない仕事量なのに、生徒からのいじめに対処しようにも八方塞がりで、とか言ってれば生徒同士のいじめは発生するわで、もう精神的に参っちゃって、休職することにしたの」
無理もない話だ、と絵理は思った。
学校とは、いわばその国の社会の縮図である。校長や教員がいれば、児童生徒がいる。クラスのリーダーがいれば、付き従う者がいて、いじめられる者がいて、群れない者がいる。組織には支配者層がいて、労働者層がいて、異端者がいるのが常だ。集団を統治する支配者層の目のかたきにされた者、集団に上手いこと馴染めなかった者は、知らず知らずのうちに排斥はいせき対象となり、多数派を成した大勢の労働者によってしいたげられることになる。
多数派の秩序を守るためだ。
そして、その秩序は、支配者層のためにある。支配者層は集団に、自分にとって都合の良い秩序・・・・・・・・・・・・・というものを求め、それを聞こえの良い言葉に言い換えて暗に示すのだ。
第三者視点から俯瞰して、そのルールに納得した九人が間違っていて、反抗した一人が正しかったとしても、その正しい一人を排除してしまえば、異論を唱える者はいなくなる。その結果、九人の間違った思想に基づいて出来上がったルールは、間違ったまま正しい物として・・・・・・・・・・・・・運用されていくことになる。
ウタさんは卑劣ひれつな精神攻撃を受け続け、休職するという選択を余儀なくされた。
子どもの世界も、大人の世界も、構造は同じだ。
他力本願。誰もが見て見ぬふりをして、手に負えない爆弾を押し付け合って、知らない人の手で爆発してほとぼりが冷めるのを待っている。いじめのない集団にしましょう、と笑顔を貼り付けてニコニコと言い合いながら、その陰で、いじめられた少数派を集団から離脱させるよう仕向ける・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・事態が起こるのだ。
労働者層が論理的な思考を放棄して、まやかしの刷り込みを従順に受け入れて、多少の不満を抱えていながらも大人しく同調していてくれる。そう言う集団をつくった方が、支配者層にとって居心地が良いし、経済的にも効率が良いのだ。
「たぶん、いろいろなことを考え込みすぎちゃって、それで……、自分の信念にも自信失くしちゃってね。もう、自暴自棄になっちゃって……」
涙を滲ませながら嗚咽おえつらし始めるウタさん。その肩にそっと手を添えて、車椅子の前に回り込むと、絵理はそのまま彼女を強く抱きしめた。

前のめりになったウタさんは絵理の胸に顔をうずめると、腰に腕を回して、静かに、か細くすすり泣いた。
しばらく、絵理はウタさんを抱きしめていた。
抱きしめることしかできなかった。
はらはらと頬を伝ったウタさんの涙が、セーターの縫い目に吸い込まれていく。それを絵理は、ただ、見ていた。
綺麗事を言うつもりはない。同情するつもりも、可哀想にといたわるつもりもない。辛かったね、苦しかったね、しんどかったね……。そんな言葉を投げかける度胸なんて、微塵もない。
―――わたしのほうが・・・・・・・もっとひどかったよ・・・・・・・・・
違う。そうじゃない。そうじゃないのだ。
不幸のアピール合戦なんて、そんな無意味ないさかいをしたところで、ウタさんの負った傷が癒えることはない。そんなの、かえって自分の傷口を広げるだけだ。
教員として最前線で護るべきであるはずの子供達から攻撃されたのだ。それに、他の大人達が救いの手を差し伸べることはなかった。孤立したウタさんは、見て見ぬふりをされ続けた。その瞬間に彼女が味わった苦しみは、痛みは、屈辱は、恐怖は、絵理の想像の範疇はんちゅうを遥かに越えた、筆舌ひつぜつに尽くし難いほど凄惨せいさんな悲劇だったに違いない。
項の発条がカラカラと空回る、その音が耳の奥に障った。隙間なく噛み合っていた歯車に、空洞が広がっていくのを感じる。
「……誰ですか」
怒りではない。ただ、厭な気分だった。
「……え?」
「一人ひとり、名前を教えてください」
間違ってる―――
「すな、やま……さん?」
いじめられた側が泣き寝入りするしかない社会なんて、そんなの間違ってる。
「誰が、ウタさんを、ここまで追い詰めたのですか」
わたしたちの世界に、悪魔は要らない。奪われ、もてあそばれ、ないがしろにされたウタさんの平穏を、なんとしてでも取り戻さなければならない。
「砂山さん、ごめん……、違うの。仕返しがしたいわけじゃ―――」
……作らないと。
他人をいじめた人間が、徹底的に蹂躙じゅうりんされる世界を。正しい一人が護られて、間違った九人が排除される世界を。
わたしの手で……、作らないと……。
心をもった―――
「“人間”だけの……、世界」
「絵理ちゃんっ!」


4. Clear Demons


「なぁ、土山っているじゃん。英語の土山。あいつの名前、『ぽえむ』って言うらしいぜ」
隣の席に座った奴が、開口一番に言った。
「えぇ、何ぃ? あいつって……、えー、たしか『ウタ』じゃなかった?」
煙草たばこの灰を床に落としながらワタシが訊き返すと、不意に目の前にスマホ画面を突き出された。
「これ、回ってきたやつ」
身を乗り出して見ると、それは同学年が集まるラインのグループチャット画面だった。
スマホを受け取り、トーク履歴をスクロールしてさかのぼる。すると、土山の卒アルの顔写真が出回っていた。中学校時代のものだろうか、その土山の顔写真は今と全く顔が変わっていなかった。どうやら、この高校の誰かの親が、土山の中学時代の同級生だったらしい。
「すご、ガチで土山じゃん。よく見つけたね」
「ここ、見てみろよ」
土山の顔写真画像、その下部に記された名前が、指でグッと拡大される。
「うわぁ……、マジじゃん」
拡大された分、画質は粗くなる。だが、「土山詩夢」という漢字の上に、「つちやまぽえむ」と読み仮名が振られているのがギリギリ確認できた。
「廊下で見かけたら、『ぽえむ先生』って呼んでみようぜ」
「いいね、ポエム詠んでくれんじゃない?」
―――それこそ、次の英語の授業は土山じゃないか。
そう言いかけた瞬間、開いている後ろの扉の前の廊下を、プリントの束を抱えた土山が横切った。
「おーい! ぽえむせんせぇー!」
ワタシはその一瞬を見逃さず、脊髄反射で叫んだ。
前の扉をガラガラと開けて、土山が教室に入ってくる。
なんだか、いつもと雰囲気が違う―――そんな微かな違和感を察知した時だった。
「わたしのことを『ぽえむ先生』と馬鹿にしたのは、あなたですか?」
教卓にカバンとプリントを置くと、土山は氷柱つららで射抜くように、ワタシをにらんだ。
「何、その目つき、キモいんだけど」
「『ぽえむ先生』と嘲笑あざわらったのはあなたですか、とわたしは訊いたのです」
「いいじゃん、ぽえむせんせぇ。可愛い可愛い……あ、そうだ、ねぇ、ぽえむせんせぇ、今日の一句は? 今日の一句。なんかポエム詠んでよぉ」
「質問に答えていただけますか? それとも、質問を理解できるほどの言語知能がないのですか?」
「はぁーい。ないでぇーす。バカなんで何言ってるか解りませ……」
ワタシの口が、煽り文句を言い切ることはなかった。
顔面に強い衝撃を受けた。視界に黒い闇が瞬く。光を覆い隠すほどの何かが、凄まじい速さで飛んできたのだ。
教卓。それを視認した時には、為す術もなかった。
脳が揺れ、真っ暗な視界の中に電光がほとばしる。鼻の骨が砕ける、その音を聴いた。
叫ぶ間もなくワタシの身体は座席から吹っ飛ばされ、後方の壁に叩きつけられた。
「うっ……!」
ワタシはうめいた。飛んできた教卓と壁に挟まれ、腹の底から臓器が持ち上がる。鈍い轟音ごうおんを立てて、身体が床に落ちた。
胸のあたりが痛い。肋骨が粉々に割れて、その破片が肺に突き刺さっているみたいだ。
それに、反り切った首が、元に戻らない。力が抜けているのか、首の骨が折れたのか、神経が切れたのか、分からない。
まぶたを開ける、ような動作をワタシは試みた。見えている映像が、実際の視界に映る景色なのか、脳裏に流れている記憶なのか、それすらも判然としない。ただ、首があり得ない方向にねじ曲がっており、プリントがパラパラと宙を舞い、胴体が教卓の下敷きになっているということは解った。
遠のく視界の中に、人影が入ってきた。
……土山だ。土山が、ワタシの顔を覗いてくる。
怖い顔。だが、その表情からは、何も見えない。憎悪も快楽も、悲哀も憐憫も、何も浮かんでいない。虚無だけが、そこに在った。
「理解し合えなくて、非常に残念です」
視界が光を失う間際、土山がそう吐き捨てた。それは、土山の声とは思えないほど恐ろしく、意識の緒が断たれるまで耳の奥にへばりついていた―――

瞬きをしたのは、一度だけだったと思う。
その一秒にも満たない時間に、突風が吹いた。オレがすがめた目を再び戻すと、教室の景色は一変していた。
背面黒板に歪な穴が開き、壁が穿うがたれている。巨人が握り拳で思いっきり殴ったような有様だった。
あり得ない。
視線を床にふらふらと落として、オレは息を呑んだ。
ついさっきまで煙草を片手に目の前で笑っていたクラスメイトが、教室後方の壁際に倒れている。教壇の上に置いてあったはずの教卓が、彼女をし潰していた。
ひっくり返った教卓の傍らに、土山がたたずんでいた。
あんなに騒めいていた教室が、静まり返っている。クラスメイトは悄然しょうぜんと立ち尽くし、感情を奪われたロボットのような顔をして停止していた。
写真の中にいるみたいだ、と思ったのも束の間、土山がふっと口から息を吸った。
「なぜ、この子が、わたしのことを『ぽえむ先生』と揶揄して嗤ったのか。その理由をご存知の方、どなたかいらっしゃいますか」
その場から微動だにしない土山の声が、教室中に響き渡った。
その瞬間、オレは手元にスマホがないことに気づいた。先の突風で吹き飛ばされたのだ。
わなわなと視線を彷徨さまよわせると、床に転がったひび割れたスマホが視界に入った。それに手を伸ばそうと、オレは身を乗り出した。しかし―――
「なんですか、これは」
オレが座席から腰を浮かせたのは、土山がそれを拾い上げた直後だった。
「あ、の……、先生……」
「どうしましたか?」
スマホの画面には、土山の卒アルの顔写真と名前が映った画像が表示されたままだった。
「それ、あの……、オレのスマホです」
「この、わたしの卒業アルバムの顔写真を無断でいたのは、あなたですか」
のっぺりと迫り来る土山は、浮遊しているように見えた。
「い、いえ、オレじゃないです! 理系の、八組の奴です! 本当です!」
オレの口は、半ばすがり付くように叫んでいた。
「……そうですか」
目前でオレを見下ろすそいつは、もはや、土山の顔をした別の何か・・・・・・・・・・・だった。
「では、あの子にこの写真を見せたのはあなたですか?」
そう言って、土山はスマホの端を指先でつまむように持ち、オレに手渡してくる。
「……はい」
震える唇に、力を込める。
オレはスマホを右手で受け取ろうとした。だが、土山はオレのスマホを掴んだまま離さなかった。
「ではあの子に、わたしのことを『ぽえむ先生』と呼ぼう、と提案したのもあなたですか?」
「……」
息が苦しい。心臓が鷲掴みされているみたいだった。いや、本当に、鷲掴みされているのかもしれない。
「質問を理解できませんでしたか?」
「い、いえっ! その、悪気はなかったんです! 本当に、すみませんでした!」
「あなたが、『ぽえむ先生』と呼ぼう、とあの子に言ったのですね?」
教卓の下敷きになって死んでいる彼女を一瞥いちべつして、土山が念を押すように再び訊いてくる。
「……は、はい! 申し訳ないことをしたと、反省していま……」
「謝る必要はありません」
「……っ!」
オレが押し黙ると、土山は掴んでいたスマホをそっと手放した。
スマホが吸いつくように、オレの右手に渡る。
「あなたが大いに反省していようが後悔していようが、知ったことではありません。生殺与奪の権は、わたしにあります。あなたは、もう、生きていないほうがいい」
そう言い捨てて、土山は後ろの扉から教室を出ていった。
差し出されたスマホに触れた時から、異変には気づいていた。
受け取ったそれが・・・・・・・・オレの右手から離れない・・・・・・・・・・・
手に力が入り過ぎているようにも感じるし、スマホがベルト状の何かに巻かれててのひらくくり付けられているようにも感じる。左手で引き剥がそうにも、スマホは右の掌と指でがっちりと固定されていた。机の上に置くことも、振り解くこともできない。
どういう原理で力が働いているのか、何がどうなっているのか、あの女は土山なのか……。何も……、何も解らない。だが、とにかくオレのスマホは、オレの右の掌にぴったりとくっついて離れなかった。
……音。
ピッ、っと、何かが起動したような、そんな音を聞いた。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……。音は一秒の間隔を刻んでいる。
オレは、スマホの画面に視線を落とした。
そこには、数字が、表示されていた。
十五、十四、十三……。一秒ごとに一つずつ減っていく数字に、視線がとらわれる。
考えろ。考えろ。考えろ。考える余地が残されていなくとも、考えなければならない。
身体が小刻みに呼吸する。息が上手く吸えなかった。
―――生殺与奪の権は、わたしにあります。
「ああ……」
口から声が洩れたのは、死へのカウントダウンが、残り五秒を切った頃だった。オレは動くことも、叫ぶこともできなかった―――

前の扉が開いて土山詩夢つちやまぽえむが教室に入ってきたのと、凄まじい爆音が鳴り響いたのはほぼ同時だった。
完全に不意打ちだった。床が突き上げられるように身体が揺れ、どこかのガラスが粉々に割れて散らばる音が聞こえた。オレは周囲の奴らと顔を見合わせながらも、意識は土山詩夢に向けていた。
今の揺れはなんだ、そう言いかけた―――その時だった。
周囲から、クラスの奴らの気配が消えた。
姿は見えている。目の前に立ってはいる。だが、気配がない。普通に騒々しく喋っている気はするのに、そこにいる感じがしないのだ。まるで、教室の日常風景の夢を見せられているような、そんな錯覚にオレはおちいった。
平然と教壇の上に立ち、教室を見回す土山詩夢。その空虚な双眸そうぼうからは、呑み込まれそうになるほどの深淵が覗いていた。
妙だ。次は英語の授業じゃないはず、という些細な違和感ではない。もっと不穏で、禍々まがまがしい、おぞましい何か……。
「わたしの卒業アルバムの顔写真を無断でラインに流出させたのは、あなたですね?」
土山詩夢が、オレに視線を向けて訊いてきた。脳の裏側をざらりと撫でられるような、おどろおどろしい声だった。
「おい、あいつ、なんか言ってるぞ」
オレは身をよじって、すぐ背後で喋っていた友人たちに声を掛けた。だが、彼らはオレに振り向く様子もなく駄弁だべっている。
「なぁ、なぁおいって……」
おかしい。こんなに目の前にいるのに、声が届かない。現実世界からオレの存在が切り離されてしまったかのような―――
「あなたに訊いているのですが」
その威圧的な声にハッとして視線を戻すと、目の前に土山詩夢が迫っていた。
「……あ? だったらなんだってんだよ」
オレは反射的に声を荒げて言い返した。
「いかなる目的であれ、顔写真を本人の許可なくインターネット上に流用するのはやめていただけますか?」
「……はあ、うっせぇなぁ」
「あなたは、わたしの尊厳を傷つけた」
「はあ……? 尊厳? きも」
オレは机の脚を蹴り飛ばして座席から立ち上がり、机をひとつ挟んで土山詩夢と対峙した。
そして、すぐにそうしたことを後悔した。
おびえているのか? たかが教師に、オレが?
息を呑み、右足を一歩だけ後ろに引いて身構える。闘ってはいけない―――そう本能が警告している。
こいつは、人間じゃない。土山詩夢の皮を被った・・・・・・・・・・別の何かだ・・・・・。身をひるがえして、逃げなければ。
だが―――
「相手を一人の人として見ることができないあなたは、人間社会に出ても無価値です」
足がすくんで、オレは一歩も動けなかった。
「社会にいても無価値? お前、たかが教師の分際で、さっきから何言って……」
「たかが教師の分際で、とはどういうことですか?」
「……知るかよ」
膝が震えている。足裏に気を張っていないと、今すぐにでも崩れ落ちてしまいそうだった。
「いいえ、あなたは気づいている。無意識に、あなたは教師を見下している。もしくは、自分は護られているから、安全な場所にいるから、何を言っても赦される、と思い込んでいる。だから、教師の分際で、などという空虚で中身のない言葉が吐けるのです」
「……」
「教師として、ひとつ、あなたに教えてあげます―――」
土山詩夢を装った悪魔は、そこでようやく、いつもの土山詩夢らしい柔らかい微笑をふわりと浮かべた。
「誰も、あなたを護ってなどいません」
次の瞬間、鋭いとげが刺さるような激痛が身体を駆け巡った。
「うっ……ああっ!」
呻くと、口から血が飛び散った。
土山詩夢の服に、オレの吐いたそれが振りかかる。だが、彼女は後退あとずさることも顔をしかめることもせず、恐ろしいほど優しく微笑んだまま口を開いて続けた。
「あなたはもう、誰からも護られていないのです。人間一人ひとりに尊厳があるのだ、それを軽んじて侮辱してはならない、ということは、義務教育を終えるまでのどこかしらのタイミングで自ずと解るものです。十五年もかけて未だに気づけないあなたは、未熟な子どもから未熟な悪魔になり、やがて未熟で独りよがりな狂暴を振り翳して、人間・・のために回る社会に損害をもたらすでしょう―――」
痛い……。腹を押さえると、ぬらりとした感触が手に走った。
見ると、手は見たこともないほど赤黒く染まっていた。白いワイシャツに、同じ色をした染みが海をつくっていく。
「自分のことを人間だと思い込んでいる悪魔に、あなたは人間ではないのです、とちゃんと教えてあげて、人間社会に解き放たれてしまう前に抹殺する。これが義務教育以降の教育機関の、真の役割なのです。ですから、生まれ持った人の名前を嘲笑ったあなたは、ここで殺します。本人と面と向かっていなければ、何をしようが、どんな悪口を吐こうが自分は安全だと、そう錯覚していたのであれば、その軽薄で浅はかにしか育たなかった思考を呪いなさい―――」
痛い痛い痛い……。鋭利な言葉が、たしかな実体をともなって、躰の奥深くまで突き刺さっている。
脳がぐらついた。踏ん張っていた脚の力が抜け落ち、オレは受け身も取れずに床に倒れ伏した。
顔面が床に叩きつけられ、前歯が折れた。
化物の声は、まだぶつぶつと何か言っていた。だが、聞き取れる日本語のはずなのに、言葉の意味が解らない。オレにはもう、その降り注ぐ無数のナイフを躰に受けることしかできなかった。
躰が熱い。燃えているみたいだ。
床に血の海が広がる。やがて視界がぼやけて、光が遠のいていく。
その途方もなく空虚な暗闇の中で、ずっと、幻聴が鳴っていた。
カラカラカラカラカラ、と、歯車が空回りしているような、何かが―――

連日対応に追われている、とあるクラスで勃発した生徒同士のいじめのほとぼりがやっと冷めてきたかと思う頃だった。
「土山先生の話、何か聞いてる?」
職員室で昼休憩をとっている最中、隣のデスクで眉間にしわを寄せている学年主任が訊いてきた。どうやら、いじめをした側の生徒たちに書かせた反省文に眼を通しているらしい。
「んあー、生徒から嫌がらせを受けてるっていうやつですか?」
「そうそう」
学年主任は不愛想な眼差しのまま、心底疲弊しているように溜息を吐いた。
「もしかして、先生も相談されたんですか?」
「受けたよぉ……。もう、ほんっと勘弁してほしい!」
ただでさえ生徒指導で手一杯なのに、と嘆くように、学年主任は白髪頭を抱えて搔きむしった。
「土山先生って、なんかちょっと甘えてる部分ありますよねぇ」
「あー、やっぱ分かる? もうどれぐらいよ……、四、五年目とかだろ? この業界じゃベテランと言ってもいいぐらい年数経ってんのにさ、未だに新人みたいな質問してくるよな。そんなことも一人で対処できないのか、って」
「嫌なら無視すればいいのに、って普通なら思いますけど……。まぁ、名前で苦労してるところもあるんでしょうね」
「あぁ、名前な。『ぽえむ』だもんな。なんだよ、ぽえむって」
「キラキラネーム、最近増えてきてますよね」
「んー、たしかに、よく見る。クラスに一人は名前読めない奴いるもんなぁ。幼稚な親っていうか、後先を考えられるだけの知能が欠けたまま大人になっちゃった親っていうか、そういう人間が増えた気がする」
「土山先生、自分のこと『ウタ』って生徒たちには呼ばせてましたけど、そんなふうに嘘ついてたって、遅かれ早かれバレますよね」
「あー、そうそう、だからオレ、『そもそも改名しないから面倒なことになってんだろ』って言ってやったよ」
「自業自得ですよねぇ……。もうアラサーなんだし、いい加減、大人になってもらわないと」
「まぁ……、ぶっちゃけると、悪い気はしないよ。オレ、最初からあいつのこと気に食わなかったし」
そう言って、学年主任がぐらりと頬を吊り上げた。
その顔色が、徐々に、青白く落ちていく。
「……先生?」
恐る恐る、ワタシは学年主任に声を掛けた。
次の瞬間、空間から音が消えた。
耳鳴りが神経を障った。その中に、キリキリキリキリ、と金属を擦り合わせるような不快な音が混じる。聞いたことのない音。それなのに、記憶にこびりついている音。錆びたオルゴールが空回りしているみたいな、そんな薄気味悪い音だった。
学年主任の口元から笑みが消え、その上体が前後にゆらりと揺れた。
かと思えば、彼は白目を剥いて椅子から崩れ落ち、床にだらりと倒れ込んだ。
「いやぁあああっ!」
思わずワタシは悲鳴をあげて、自分で自分の躰を抱きしめた。キャスター付きの椅子ごと後退り、その場から距離を取る。
そして、すぐにハッと息を呑んだ。
「土山、先生……」
学年主任の座っていた椅子の背後に、土山先生が佇んでいた。
……違う、土山先生じゃない。おかしい。明らかに土山先生の風貌なのに、それを本能的な何かが否定する。
まったく気配を感じなかった。いや、今も、彼女の気配があるようには思えない。一体、いつからそこにいたのだろう。もしかして、今の会話、すべて聞かれてしまっただろうか。
「訊きたいことがあるのですが、少しお時間、よろしいでしょうか」
「な、何か……」
視界が明滅し始め、鼓動が速まる。ワタシは周囲に視線を走らせた。
職員室は、この三人以外、いつも通りだった。周囲を行き交う先生方は授業を終えて戻ってきたり、事務処理に追われてパソコンに噛り付いていたり、日常の忙しない光景が広がっている。
だが、誰一人として、この惨状に気づいてはいなかった。
「わたしの名前が『ぽえむ』であることと、あなた方がわたしの抱えている問題に向き合おうとしないのは、何か関係があるのですか?」
土山先生のような何かが、ワタシに問い掛ける。その痛いほどてついた声は、耳を介すことなく、ワタシの脳を、骨を、心臓を掴んでぐらぐらと揺らした。
「土山、先生……、違うの……。その……、そういうつもりで言ったんじゃなくて……」
ワタシはわなわなと唇を震わせたが、そこから先は言葉が続かなかった。
寒い。急激に、職員室の温度が冷えていく。いや、違う、外気じゃない。躰の内側に、氷柱のように冷たい何かを突き立てられたような……。
土山先生は唇を引き結んだまま、感情のないまなこでわたしの言葉を待っていた。
ひとつ息を吐き、意を決して、ワタシは土山先生を睨み返して口を開いた。
「だって、それはあなたの個人的な悩みでしょう? 自分でどうにか妥協するしかないじゃない。学校が動くことじゃないわ」
「違います。わたしは学校に動いてほしかったのではなく、あなたに、動いてほしかったのです」
冷徹な眼差しに貫かれ、ワタシは身をすくめた。
ここでひるんではいけない。ワタシは、正しいことを言っているのだから。
「あなた、もう大人でしょう? ちょっとは自分の頭で考えたらどうなの? 名前で損をしてると思うのなら、区役所だか家庭裁判所だか知らないけど、ちゃんとした手続き通して、さっさと改名しなさいよ。みんな忙しいの。あなたのそのちっぽけな不満に構ってあげられる暇なんてないの。一秒たりともないの。解る? そんなどうでもいいことで周りを巻き込んで、いちいち他人ひとの手をわずらわせないでちょうだい!」
ワタシは、自分でも何を言っているのか解らなくなりそうなほど声を荒げてまくし立てた。が、目の前に立つ怪物の表情はぴくりとも変わらなかった。
怪物はふと視線だけで足許を見下ろすと、その場にふわりとしゃがみ込んだ。天井に漂う冷気をゆっくりと引き摺り下ろすような、恐ろしいほどしなやかで美しい所作だった。
釣られるように、ワタシも床を一瞥した。床には、肌の温度を奪われたように顔面蒼白な学年主任が、白目を剥いて横たわっている。
「先生に……、何をしたの」
「殺しました」
「何を……、言って……」
問い質す声が、不安で震える。
この怪物は、何を言っているのだ。
怖い。理解できるできないの問題ではない。眼前に突き付けられたこの景色が、耳に入ってくる言葉が、それらすべてが、ただ怖い。何が起きているのか、何を言っているのか、これは夢なのか現実なのか、考えたくも解りたくもなかった。
「殺したのです。聞き取れなかったのですか? それとも、言葉の意味が解らないのですか?」
怪物は学年主任の片腕を掴むと、それを捥いだ。
小枝を指先で折るような、雑草を地面から引っこ抜くような、あまりにも軽々しい動作で捥いだものだから、ワタシは一瞬だけ、それが学年主任の腕だと理解するのが遅れた。
「殺した、って……っ!」
ワタシは押し黙った。
いや、違う。動物としての本能が、ワタシを黙らせたのだ。
背後に、猛獣の気配。
グルルルル……、グルルルル……、グルルルル……。
身体一つで鉢合わせてはいけない何かが、背後で低くうなっている。
怪物はするりと立ち上がり、ワタシの背後に向かって、引き千切った学年主任の腕を放り投げた。
否応なく、視線がそれを追う。かつて人間の腕だった肉は、歪な放物線を描いて床に落ち、ぐちゃり、ぐちゃり、と音を立てて二回跳ねた。
脳が考え始める。眼が捉えたものを、理解しようとしているのだ。
灰色と白の体毛に覆われた、巨獣。鋭い爪が覗く四つ足で肢体を支え、頭の上には三角に尖った耳。長い舌が伸びる口元からは、赤色の牙が剝き出しに光っている。
振り返ったその先は、赤黒いよだれをだらだらと垂らした、二匹のオオカミがいた。
「さあ、お食べ」
怪物の声を聞き入れたように、一匹のオオカミが耳をぴくりと動かし、学年主任の腕だった物に鼻先を近づける。そして、表皮を喰い破るように牙を突き立て、むさぼり始めた。
もう一匹のオオカミは、三白眼の眼を歪に眇めて、それを睨むように見つめていた。
「モノ、ほらお前も。不味まずい肉だとは思いますが、生きるためです。贅沢は言っていられませんよ」
モノ、と呼ばれたほうのオオカミは、何かを訴えるように怪物を見やると、その視線をスッとワタシに流してきた。
重なった視線が、外れない。
「先生」
「は、はいっ!」
ざらついた声に呼ばれ、ワタシはびくついて怪物に向き直った。
その一瞬で、違和感に気づき、そして悟った。
身体が・・・椅子に張り付いている・・・・・・・・・・
驚いている間に、脳が状況を理解する。空間か体内か知らないが、温度が急激に冷やされて、腰が背凭せもたれに、腕が肘置きに、尻が座面に、凍りついてしまったのだ。
「去勢していないおすの肉は、硬くて臭くて美味しくない、って知ってましたか?」
「え……、はあ……」
急になんの話だ、と思うことすらもなく、口が勝手に曖昧な返答を零す。気づいた時には、ワタシはもう、身体も思考も自在に操れなくなっていた。
「先生には、ふたつ、選択肢を与えます―――」
怪物が、何かを言っている。
「ここで椅子に縛り付けられたまま、ご自身の身体が足から食べられていくのを眺めているか―――」
耳鳴りと自分の鼓動が神経を掻き乱し、上手く聞き取れない。
「それとも、椅子から立ち上がって、一度は自分の脚で逃げ惑ってみるか―――」
モノがゆっくりと、ワタシの足先に迫ってくる。肉塊にくかいを喰らっていたもう一匹のオオカミも、血に染まった牙を剥いて近寄ってきた。残されたその場には、わずかな肉片がへばりついた、学年主任の腕だった骨がぽつりと転がっていた。
「さあ、選んでください」
ああ……。
これは、罰か。
解らない。解らないが、知らず知らずのうちに、ワタシはどこかで、つぐないようのない罪を犯していたのだろう。
脳が拉げていく音がする。絶対的な理不尽に、命が握り潰されていく。ワタシは、もう、容赦を乞えるような立場にいないのか。
「受け入れ、ます……」
口が勝手に答えた。
命拾いをする未来は、もう摘まれてしまった。拾える命も、棄てる命も、ワタシは持ち合わせていない。ワタシは今、死神が見せる束の間の気まぐれに生かされているに過ぎないのだ。
怪物がふわりとやわく微笑んだ。それは、土山先生のような笑顔に見えた。
「そうですか、良かったですね―――」
良かったですね。ワタシがそう言われたのかと思った。ワタシに向けられた、救いの一言かと、一瞬だけ思った。
だが、そんなはずがなかった。
「モノ、クロ、先生があなたたちの明日への糧になってくれるそうです。さあ、お食べ。悪魔の肉に変わりはありませんが、まだまだ若くて健康的なめすの肉です。雄よりは不味くないでしょう」
聞こえているのかいないのか、二匹のオオカミはワタシの脚を荒々しく嗅ぐと、脹脛ふくらはぎに勢いよく牙を突き立てた。
痛くはない。痛覚が機能していないのだろうか。それとも、夢を見ているだけなのだろうか。
オオカミが、脚の肉を喰らっていく。自分の脚が食べられているのだ、という実感が湧いてこない。
太腿ふとももが嚙み千切られ、手首の骨が砕かれ、脇腹が引き剥がされていく。ワタシの身体を構成していた肉片が、瞬く間にえさと化していく。ワタシは声も出せず、椅子に座らされたまま、ただ、その光景を茫然と見つめ続けることしかできなかった―――


5. 誕生日を知った日


見覚えのない廊下を歩いている。だが、絵理はこの場所を知っていた。
ウタさんの職場。うつろな悪魔の溜まり場である。
探し出し、捕らえ、殺す。
探し出し、捕らえ、殺す。
探し出し、捕らえ、殺す……。
魑魅魍魎ちみもうりょう阿鼻叫喚あびきょうかん。死にぞこないの断末魔が耳をつんざく。
叩き殺し、踏み潰し、蹴り飛ばす。
胴体を引き裂いて、四肢を捥いで、水底に沈める。
逃げ出す悪魔も、言い訳がましく反抗的な悪魔も、命乞いをしてくる悪魔も、対話の意思がある素振りを見せた悪魔も、傍観していただけの悪魔も……。相手を人間として見ることができない憐れな悪魔を、一体一体、漏れなく粛清しゅくせいし、その命を喰らっていく。
探し出し、捕らえ、殺す。
探し出し、捕らえ、殺す。
探し出し、捕らえ、殺す……。
十五匹ぐらいは減らしただろうか。殲滅まで、あとどれぐらいだ? 人間・・のウタさんを侮蔑ぶべつした悪魔は、あと何匹だ? いじめられたウタさんだけが護られる、ウタさんだけが生きていられる、幸せな世界。そんな世界をつくるには、あと何匹の悪魔をここから排除すればいい?
探し出し、捕らえ、殺す。
探し出し、捕らえ、殺す。
探し出し、捕らえ、殺す……。
古い校舎の四階、その片端の教室の窓から、憔悴しょうすいした一匹の悪魔が飛び降りた。
絵理は窓枠に手を置き、地上を見下ろした。
乾いた血の海原に、悪魔が浮かんでいる。眼を凝らすと、そいつは・・・・まだ・・生きていた・・・・・。骨が砕けて起き上がれないのだろうか、地面にべったりと伸びたまま肩と胸を荒々しく上下させて、生き長らえるための呼吸を繰り返していた。
なぜだ。校舎の四階から飛び降りて、なぜ死なない?
脳を踏み潰してとどめを刺さなければ、と絵理は窓枠に足を掛けた―――その時だった。
「絵理ちゃんっ!」
不意に、背後から誰かに抱き着かれた。
教室の窓際に差す斜陽よりも温かい人間の躰が、ふわりと絵理を包む。久しぶりに、認識できる言葉を聞いた気がした。
腰に巻き付いた腕に、絵理は手を添えた。
それは、ウタさんの温度だった。
「大丈夫ですよ、ウタさん。ウタさんの周りに蔓延はびこる悪魔どもは、一匹残らず滅ぼしますから」
「だめっ!」
ウタさんの悲鳴にも似た叫びが、脳の内側をキンと貫く。
「どうして……、何が駄目なのですか? 傷つけてくる奴らが傷つかないなんて、そんなのおかしいでしょう?」
「違う……、違うの! こんなことをしてもキリがないわ!」
「ええ、本当にキリがありません。早く、あいつを潰して次を見つけ出さないと―――」
窓から飛び降りようと絵理が足を踏ん張ると、身体が後ろへ強く引っ張られた。
窓枠を踏み外し、教室の床に転げ落ちる。
「絵理ちゃんっ!」
巻き付いた腕を振り解こうとするも、ウタさんは背中にがっちりとくっついて離れない。
「ウタさん! こんなところでわたしたちが揉み合っていては元も子もありません!」
取っ組み合いながら、絵理は声高に怒鳴った。
このままではウタさんを傷つけてしまいかねない、そんな不安が脳裏を過った。
その隙を突くように、ウタさんが絵理の上体に馬乗りになった。かと思えば、両肩を掴んで床に組み伏せた。
仰向けに押さえつけられ、そこで初めて、絵理はウタさんと眼が合った。

「……っ!」
頬に、はらりとしずくしたたった。
「……お願い、絵理ちゃん―――」
視界が捉えた映像に、耳が捉えた音声に、思考が麻痺する。
はかなく透き通った顔を苦しそうに歪めて、ウタさんは泣いていた。

高い天井。
見たこともないほど高い。高校時代に派遣社員として働いていた倉庫ぐらいはありそうな、そんな広く高い天井。
でも、その倉庫の天井を、わたしは見上げたことがない。だから、本当はどれぐらい高いのか知らないし、想像もつかないほどの空想でしかたとえられないのだ。
スマホ首だから。
いや、違う。それは、言い訳だ。
こんな自分でも、手を伸ばせば届くかもしれない。そんな惨めな期待を抱きたくなかったから、最初から見えていないふりをして、ただ避け続けていた、それだけのことだ。
幼い頃は、教会の孤児院で四六時中遊んでいたこともある。そのはずなのに、聖堂の天井の高さを思い浮かべようとしても、そのイメージはいまいち判然としない。
十六歳まで、自分がどうやってイギリスを生き抜いてきたのか、どこで過ごして何を食べて育ってきたのか、それすらもよく思い出せない。命からがら日本に逃げ込んだ、それ以前の記憶がまったくない自分に、今でもたまに愕然とすることがある。
羽田空港に着いて、入国審査のゲートを通り抜けた直後、初めてちゃんとパスポートを見た。そこで、わたしは自分の誕生日を知った。
同じ日本人の友達が欲しかった。
だから、高校に通うことにした。
選択肢は定時制の夜間学校しかなかった。お金がなかったから、昼間は働かなければいけなかったのだ。
担任の先生が、陸上部の顧問も担っていた。
お願いしたら、入れてくれた。
夕方には高校に行って、好奇の視線を向けられながらも、全日制の子たちに混ざって部活動を頑張った。陸上部の子たちは、みんな、優しかった。でも、友達として接してくれた子は、誰もいなかった。どこまで近づいても、どこかに境界線が引かれていて、結局、わたしは「友達」ではなく「夜間の子」だった。
それでも、嬉しかった。居ても居なくてもいい、という居場所に、居させてもらえていることが、ひたすらに嬉しかったのだ。
派遣業務で稼いだなけなしの貯金を全て使い果たして、初めてスマホを買ったのが、ニ十歳の誕生日。
よく憶えている。午前の業務を終えて、一時間の昼休憩の合間に、派遣現場の倉庫をこっそり脱け出したこと。昼からも途中離脱はできそうになかったし、夕方から夜にかけては部活と授業があるから、自由に動ける時間帯がそこしかなかったのだ。その足で携帯ショップに駆け込んで、中古で売り出されていた一番安価な機種に、わたしは震える左手を伸ばした。
身体をインターネットに繋げると、人類の世界はわたしが思っていたより、ずっと先に進んでいた。スマホを持つと、クラスや陸上部のみんなが盛り上がる会話に付いていけなかった理由が、みんながわたしを珍しがった理由が、少しだけ解った気がした。
世界を一つ知る度に、世界が厭になっていった。
みんなが生まれた瞬間から当たり前に持っている物を、わたしは何ひとつ持っていなかった。
知りたくなかった、知りたくなかった、と泣きながら、わたしは取りこぼしてきた輝きの欠片かけらを必死にかき集めた。自分が生きてきた世界は、触れてきた景色は、こんなに綺麗で美しいものじゃなかった。
本当に・・・わたしの世界はこんなものじゃなかったのだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
虚しくなって、すぐにやめた。
それからの人生は、ひどく色鮮やかで、楽で、淋しくて、安らかなものだった。
本当は欲しい物を、本当は手に入れたい物を、本当は手放したくない物を、ぜんぶ、ぜんぶ、「邪魔な物」「要らない物」「無くても困らない物」と自分に言い聞かせて、そう思い込ませてきた。
自分は不幸だから、自分は不運だから、自分は恵まれなかったから……。そうやって憧憬に蓋をして、手を伸ばすこともしなくなって、気づけば項垂うなだれてうつむいて、全自動の日々を延々と繰り返すマリオネットと化していた。
今日だけを生き延びるために地に足をつけたはずが、足許は底の抜けた沼だったような、そんな人生を、送ってきた。
ずっと。ずっと。ずっと……。

微睡まどろむ視界の中で、ウタさんが泣いている。
高い天井を見つめながら、その生きている声を、絵理は聴いていた。
「ウ、タ……さん」
「……っ! 絵理ちゃんっ!」
声を掛けると、ウタさんはガバッと顔を上げた。
腹にかかっていた薄い布団を掴んで、絵理は身を起こした。どうやら、土山家のリビングのソファに横たわっていたらしい。足と座面の隙間に分厚いクッションが挟まれて、脚の位置が高くなっている。
「あの、これは……」
絵理は困惑した。
「大丈夫? 動ける?」
「まだじっとしておいたほうがいいだろう」
ウタさんのお母様とお父様が、心配そうに見つめてくる。
「庭で突然、気を失ったの。怪我してない?」
ウタさんが取り乱したように早口で訊いてくるので、絵理は首を左右に振った。
「はい……、もう、大丈夫です」
動転する土山一家をなだめるように、絵理は笑ってみせた。
「あぁ、焦った焦った」
「もーう、救急車呼ぶ寸前だったよぉ」
安堵したようにドッと溜息を吐くお兄さんとお姉さん。二人に詫びようと絵理が口を開きかけると、突然、車椅子に座ったまま前のめりになったウタさんに抱きしめられた。
「よかったぁ……。本当によかった!」
「そんなぁ……大袈裟ですよ。ちょっと立ちくらみ起こしただけじゃないですか」
「だって……だってぇ……、そんな感じじゃなかったんだもん!」
子どものようにわんわんと声をあげてむせび泣くウタさん。その姿を見ていると、少しだけ気恥ずかしくなってくる。
なんだか、とても怖い夢を、見ていたような気がする。
でも、どんな夢だったのかは、もう思い出せない。凄まじい速さで、記憶の欠片が宇宙の彼方へ遠のいていく心地がした。
ただ、今はいでいた。
わたしのために大泣きしてくれるウタさん。その声だけが鮮やかに、いつまでも、いつまでも、わたしの中に響き渡っていた。
しばらく、絵理はウタさんの抱擁ほうように身を委ねていた。
どれぐらいの時間、そうしていただろう。気づけば、なかなか泣き止まないウタさんを全員で心配していた。
「ウタさん、もう、もう大丈夫ですから!」
「うぅ……、ほんとにぃ? ほんとにもう大丈夫なのぉ……?」
助けを求めて見回すと、ウタさん以外の四人はすでにダイニングテーブルを取り囲み、手巻き寿司に手を付け始めていた。
「大丈夫ですよ! ほら、手巻き寿司、早く食べないと乾いちゃいま……」
「うぅ……うわぁあああああああん!」
愛おしい悲鳴が耳を引き裂き、絵理は口を噤んだ。
ダイニングテーブルのほうで笑い声が弾ける。
「ありゃ、もうしばらく独身だな」
いくらと中トロを豪快に盛り込んだ巻き寿司を一口で頬張ったお兄さんが、遠い目をして、茶化すようにぼそりと呟いた。

ようやく泣き止んだウタさんの車椅子を押して、土山一家の忘年会の宴に加わると、ウタさんは誇らしげに絵理のことを紹介してくれた。
「絵理ちゃんはイギリス出身で、英語ペラペラなんだよ!」
「いや……、ペラペラというか、ネイティブですから。皆さんが日本語ペラペラなのとおんなじですから」
「……えっと、だから俺たちが見せるべき反応は……、日本語上手いね、になるのか?」
困惑したように、お兄さんが言う。
「それもなんか変だよね。見た目も話し方も、日本人にしか見えないし」
すかさずお姉さんが口を挟んで、手を叩いて笑った。
「まぁ、変ですね。家では普通に日本語……、だったと思いますし……」
「断然、あたしより英語の先生向いてるよ!」
ウタさんが瞳を輝かせて、前のめりに言う。
「いやぁ……先生にはなれませんよ。学習して身に付けたわけじゃないし、教え方なんてさっぱり……というか、日本の高校で習った英語、普通に難しかったし」
「……やっぱり、教科として英語を習う、っていうのが根本的に間違ってるのかなぁ」
ウタさんが考え込むように眉を顰めて宙を見上げる。
途方もない沈黙に包まれた―――その時だった。
「なんでもいいから喋ってみればいいだろう。ハロー、エリ!」
突然、お父様が英語で話しかけてきた。
日本の高校で聞いた英語とまったく同じ、日本語の発音に引っ張られた素敵なアクセントだ、と絵理は思った。
「Hi, Papa-san ! Are you alright ?」
ひとつ息を吐いて、絵理は英語で問い掛けてみた。
「ハ、ハァイ! えっ? ああ……、ん? 今なんて言ったの?」
「『アー、ユー、オールライト?』 って訊いたんだよ!」
ウタさんがすかさず小声でお父様に助け舟を出す。
「あぁ、そういうことか……『ォユラィト』にしか聞こえなかった……。で、どういう意味?」
「“How are you ?” みたいなことです」
「おぉ……、あぁ! それは解るぞ! アイムファイン、センキュー! エンデュー?」
高校時代の英語の授業で幾度となく繰り返した、
"How are you ?"
"I'm fine thank you. And you ?"
という謎のテンプレートが本当に交わされて、思わず絵理は吹き出してしまった。
Not too bad, not too badまぁ悪くはないですよ ! It’s an honour to meet you お会いできて光栄です !」
「お、オーウ! ザッツ……んあー、ファンタスティック!」
「Yes, it's fantastic. Lovely day, isn't it今日、天気いいですよね
「え、えー……イェス! ラブリー!」
How's your work going onお仕事の調子はいかがですか ?」
「あ、あー……、ウタ! パス!」
お父様に訊ねたつもりだったのだが、なぜだかウタさんにキラーパスが出される。自然と、期待に満ち満ちた土山一家の視線がウタさんへと移った。
「え? あ、あぁ……、アイ……、
I've got some mental health problemsちょっとメンタルやられてしまいまして……and I'm temporarily taking a leave of absense right nowそれで、とりあえず今は休職しているんです……合ってる?」
Ah……まあ、That's a shameそれはお気の毒に !
Have some rest and take care of yourselfゆっくりと休んで、どうかご自愛ください.
Hope you'll be feeling better soon早く少しでも良くなりますように
「Oh, Thanks, Eri」
自信なさげに顔を赤らめて、流暢な英語でウタさんが言い切ると、周りで歓声が上がった。

Thenところで, Mr. Papa-san,
your glass is almost empty. Would you like me to top it upグラスがもうすぐ空きますね。わたしがお注ぎいたしましょうか ?」
興が乗ってきた隙を突いて、絵理はウタさんにパスされた会話のボールをお父様に戻してみた。すると、お父様は鳩が豆鉄砲を食ったような顔を浮かべて、おどおどと背筋を正した。
「……あー、んえっ?」
「絵理ちゃん……、もうやめてあげて」
見かねたお母様が、溜息交じりに会話を止めに入る。
You wanna get some more drinks tonight今夜はもう何杯かいかがですか ?」
絵理はなんだか嬉しくなってしまい、身を乗り出してもう一度訊ねた。
「えー……、あぁ、全く聞き取れんなぁ。わなげと……どんぐりナイト?」
お父様がそう言うと、食卓はさらに笑い声に包まれた。
「何よ、輪投げとどんぐりナイトって。どこのお祭り?」
お母様が目尻に涙を浮かべて、歯を見せて笑った。
「そんなんで、よく商社マンやってこれたよな」
「役員クラスとか、ほんと信じらんない」
お兄さんとお姉さんがからかうように言う。
「まぁ、英語はほら、頼もしい部下が話してくれるからさ、お父さんが喋れなくたって仕事は回るし……。適当に誤魔化しながら、なんとかここまで来れちゃったなぁ」
そう言って笑うお父様は、とても幸せな顔をしていた。
Your English is quite good tooあなたも上手に喋れてますよ !」
絵理はお父様のグラスにビールを注ぎながら、同時に彼を擁護ようごした。
「オ、オー!センキュー、センキュー!」
お父様はグラスを片手に、わざとらしい調子で返してきた。
Hey !ちょっと I'm not joking !本当ですってば
まだ夢でも見ているみたいだ、と絵理は思った。
生きていて、こんなにも緊張の糸が解れるひと時など、今の今まで一瞬たりとも味わったことがなかった。お金も争いもビジネスも絡まない、ただただ愛おしい空間。他愛もない話を好きなだけ喋って、ただ笑って、何も生まれていないのに、泣きたくなるほど満たされている。そんな時間を過ごしていることが、にわかに信じられなかった。
呵々かか
ずっと孤独に生きてきたからこそ、絵理には強い確信がある。家族でなくとも、赤の他人同士であっても、人間が生きていくためには、この時間が必要なのだ。誰かを愛し、誰かから愛され、お互いがここに居ていいのだ、と認め合える場所が、人間には必要なのだ。
裏切りと欺瞞に満ち溢れた、残酷な世界である。こんな虚しい荒野で、誰からも愛されずに独りで息をし続ける・・・・・・・・・・・・・・・・・・だなんて、そんなの、できるわけがないのだ・・・・・・・・・・
「ねぇ、やっぱりイギリスのご飯って不味いの?」
生まれも育ちも違うことで盛り上がり、お姉さんが興味津々に訊いてきた。
「んー、あんまり味を気にして食べることがないから、そう言われてみれば、たしかにちょっと味気なく感じることはありますよ。わたしは別に、不味いと思ったことはないですけどね」
「駅前の大通り沿いに、フィッシュアンドチップスのお店あるじゃんね。今度、みんなで行かない?」
お兄さんの提案に、ウタさんが乗る。
「ああ、いいね! あたし、昔から気になってた!」
「じゃあ、絵理ちゃんにクオリティ審査してもらおう。どれぐらいジャパナイズドされてるのか―――」
ああ……。
この人たちなら、信じてみてもいいかもしれない。
日本に来てから幾度となく抱いた期待が、性懲りもなく、ざらついた脳裏をかすめる。
「あの―――」
盛り上がる二人を遮って、絵理は口を開いた。
場がふと静まり、土山一家の視線が絵理に集中する。
「あの……、ちゃんと自己紹介しても、いいですか」
歪んだ発条が回る項に手を添えて、誰もいない虚空にそっと置くように、絵理は言葉を吐いた。
「うん、聴かせてほしい」
その絵理の言葉を、ウタさんが拾った。


6. ここにしかいない「わたし」 


砂山絵理です。
嫌いな四字熟語は、「自己紹介」と「人間関係」と「砂山絵理」です。
よろしくお願いします。

相手に自分を紹介する時、わたしはいつも戸惑います。
「砂山絵理」という生き物の、どれの何から話し始めるのが、「わたし」にとって自然なのだろう、って考えてしまうのです。
わたしは砂山絵理のはずなのに、砂山絵理はわたしではない、みたいな……。上手く言えませんが、「砂山絵理」と「わたし」のアイデンティティのようなものが、いまいちしっくりと噛み合っていないような、そんなぎこちない感じがするのです。

不自然かもしれませんが、名前のことから話します。
漢字表記は、砂山絵理。
英語表記は、Ellie Sunayama。
日本語の漢字は、誰が名付けたのか知りません。
英語のスペルは、仲良しだった教会のシスターが決めてくれました。皮肉にも、“Ellie”には「輝く光」という願いが込められています。
“Eri”じゃなくて“Ellie”だから、「スナヤマエリ」というより、「スナヤマエリ―」のほうが、感覚的にはしっくりくる気がします。
名前について、わたしが知っていることはこれぐらいしかありません。

ウタさんも言ってくれたとおり、わたしはイギリスという島国で生まれました。中でも、ウェールズと呼ばれる南西地方の、さらに南部の港町で生まれた、と記憶しています。

十七歳になる年の八月に―――その時点ではまだ十六歳でしたが―――わたしは初めて日本に来ました。
それまでイギリスで何をしていたのか、よく憶えていません。
……何をしていたのでしょうね。
具体的なことは何ひとつ思い出せません。本当に記憶がないのです。

ずっと、息を殺していたような気がします。
部屋に閉じ籠って、あるいは、街の路地裏を彷徨さまよって、ずっと、息を殺していたような気がするのです。

いや、部屋には、閉じ込められていた・・・・・・・・・ような気もします。

物心ついた瞬間から、母親と二人暮らしでした。
父親は、顔も名前も知りませんが、「わたし」の姿形を鏡で観察してみる限り、彼も純血の日本人である可能性が高いと思われます。

母親は、わたしに陶器の皿を投げつけてくる生き物でした。
顔を合わせるたびに、喧嘩をしていたような気がします。殴ったり蹴ったり、髪の毛を引っ張り合ったり、今では口にすることもはばかられるような暴言を吐き合ったり……。幼い頃は一方的にされるがままでしたが、中学生の頃はひたすら反撃していたのを憶えています。一度だけ、包丁を持った母親に組み伏せられ、「ごめんね」とひたすら謝られたことがありますが、さすがにその時は無抵抗に大人しくしていました。

他の家族というものを知らないので断言はできませんが、母親との関係は悪いほうだったと思います。

しかし、同じ屋根の下に居ても生かしてはくれたので、そこは優しかったのだと思います。
視界に入ると一触即発の関係であることはお互いが熟知していたので、基本的に別々の部屋で一日を過ごすように“協力”していました。わたしは自分の部屋に、母親はリビングに居ることが常だったような気がします。

毎朝、学校へ行く時だけリビングに入ります。
すると、ダイニングテーブルに五ポンドの紙幣が一枚だけ置いてある日があったり、なかったりしました。
日本円に直すと、千円前後ぐらいの価値はあるでしょうか。テーブルに置いてある日は、それをポケットに突っ込んで学校へ行き、下校する道すがらにサンドイッチかハンバーガーを食べて、帰ったらそそくさと自分の部屋に引きこもる―――そんな生活を十六歳までしていたような気がします。

イギリスの義務教育期間は日本よりも二年長く、五歳から十六歳まで、合計十一年もの年月をかけて教育課程を修めなければなりません。
気づいたら、中学校を卒業する間近で、わたしは日本へ逃げる決意を固め、準備に取り掛かっていました。十一年間もあったはずなのに、何をしていたのか、楽しい思い出はひとつも記憶に残っていません。

小学校、中学校での思い出は、いじめられていた記憶しかありません。
目尻を指で引っ張って、アジア人特有の細い吊り目を揶揄してくる生き物は、もう見慣れました。
日本語の読み書きも憶えようと漢字で記したメモを、ひたすら馬鹿にされることも日常茶飯事でした。
授業のノートを貸したらビリビリに破かれて返された日もあります。
廊下を歩いていたら、白人の女子に背後からいきなりお尻を掴まれて、家に帰ってスカートを脱ぐと、触られた箇所にチューイングガムがべっとりとくっついていた、という日もあります。
男子トイレに閉じ込められ、二人の白人の同級生からおしっこをかけられた日もあります。
自分専用のロッカーを開けたら、中でネズミが死んでいた日もあります。
取るに足らない蔑視べっしや嘲笑を含めれば、もうキリがありません。

それでも、学校には通い続けました。
家に居ても仕方がなかったし、街に出てもやることがありません。非行に走って人生を終わらせる空想を描きながら、毎日毎日、教室の席に座って黙って過ごしていました。そこに居座り続けることが、自分ができた唯一の、ささやかな抵抗だったのかもしれません。

わたしには、人間が理解できません。
感情と理性をあわせ持つ、同じ生き物に見えません。実はわたしだけが人間で・・・・・・・・・・・他は悪魔なのではないか・・・・・・・・・・・・・・、と思うことさえあります。
世界は多様性を尊重するよう歩み寄っている、ように見えますが、あれは上辺だけのキャンペーンであり、一種の宗教のようなものであり、巨大なビジネスです。「多様性」という言葉で引かれた外枠の、その奥に一歩でも踏み込めば、そこでは当然のように人種差別が横行しています。人間社会がどれだけ表面に線を引いたって、その深淵に蠢く人間一人ひとりの行動を縛ることは不可能だと、わたしは思います。

わたしには、「多様性」と「差別」が同じ意味の言葉に聞こえます。
未だに、どうしてわたしがいじめられていたのか、その真相は判然としません。イギリス生まれイギリス育ちのイギリス人であるわたしですが、見た目がアジア人だったからなのでしょうか。同じ英語を喋っていても、ウェールズ辺境のなまりが酷かったからでしょうか。あるいは、非合理的な不運がなんとなく重なっただけで、そもそも、いじめには原因など存在しないのでしょうか。

何をもって、人間は「いじめる側」と「いじめられる側」に選り分けられるのでしょうか。

運が悪かった・・・・・・、というだけの話だったのでしょうか。
父親はいないし、母親は情緒がおかしいし、外に出れば差別され、侮蔑され、排斥される毎日で、もう……、散々でした。
地球上には、豊かで幸せ人がいれば、豊かで不幸な人も、貧しくて幸せな人も、貧しくて不幸な人もいます。相対的に比べても仕方がないと思いますが、「あの時のわたし」はどれだけ運が悪かったと言えるのか、時々考えてしまう瞬間があるのです。

それでも、幸いなことに、親切にしてくれる人もいました。
その一人が、“Ellie”という名前をわたしにくれた、教会のシスターさんです。お金がなくて夕食にありつけない日は、孤児院を訪れて、彼女からご飯を少し分けてもらって凌いでいました。
「母親から距離を取り、日本へ行きなさい」と言ってくれたのも彼女でした。はじめは、この人にも見放されるのか、と思いました。しかし、そういうことではなかった、と今は信じられるのです。

「日本の高校に行く」と母親に伝えました。
いつの日だったか、まだ中学生になって間もない頃のようだった気がします。母親がどんな反応を見せたのかは、よく憶えていません。

そして中学校を出た、その夏のことです。
母親の姉にあたる叔母おばを頼りにして、あと三ヶ月ほどで十七歳の誕生日を迎えるという頃のわたしは日本へ逃げ込んできました。
羽田空港のターミナルに一人で降り立った瞬間に湧き起こった感情を、わたしは鮮明に憶えています。
思わず、立ち竦みました。それはそれは驚きました。行き交う人々が、みんな、わたしと同じ肌の色をして、わたしと同じような体型をして、わたしと同じような顔をしているのですから、感動すら覚えました。

真っ赤な半袖半ズボンを着て、小さな巾着袋を背負って、ボロボロのサンダルを突っ掛けて、全身に返り血を浴びたかのような目立つ格好をしていました。
すると、すぐに叔母から声を掛けられました。驚いたことに、どうやら、母親から叔母へ、わたしの容姿や服装のことが伝わっていたようなのです。
「あいつに娘がいたなんてね」
開口一番に叔母は言いました。
叔母は独身で子供がいませんでしたが、別段、わたしは歓迎されるわけでも忌避きひされるわけでもありませんでした。それでも、空港まで迎えに来てはくれたので、優しい人だったと思います。

高校を卒業するまで、を条件に、わたしは叔母の子になりました。
満十七歳の年です。しかしながら、当然、全日制普通科の高校二年の二学期から編入する、という未来は叶いませんでした。
そもそも、叔母もわたしも教育費をまかえるだけの貯蓄がなかったので、わたしも働く必要がありました。そのため、日中は派遣業務をこなしながら、翌年の春から四年制で定時制の夜間高校に通うことにしました。

順当に進学した日本の同級生が高校三年生を迎える四月、ようやくわたしの高校生活は始まりました。
日本での学校生活には、少しだけ憧れていました。勉強をして、部活動に励んで、文化祭や体育祭、球技大会や芸術鑑賞会なんかもあると聞いていました。
しかし、夜間の学校は高校卒業の学歴を手に入れるためだけの、いわば資格取得の専門学校のような雰囲気でした。働きながら学ぶ場所だったので、わたしより年上のお笑い芸人が同じクラスに居たりしました。

しばらくは、叔母の家と派遣先と高校の三地点を往ったり来たりする淡々とした日々を送りました。最初のほうは、日本語の読み書きにひどく苦労した記憶があります。

ある日、どういう話の流れだったかは憶えていませんが、担任の先生が全日制の陸上部の顧問も受け持っている、ということを知りました。「夕方の練習に間に合うようであれば、入部の手続きもしてやれるぞ」と言ってくださり、わたしは憧れていた部活動を経験することができました。
たくさんの同い年の子たちと話しながら練習をすることは、楽しかったです。しかし、全日制の子たちはすでに輪が出来上がっており、定時制のわたしが飛び入り参加をしても、みんなどこかわたしに対して他人行儀でした。幼少期に受けた仕打ちに比べれば、別に、どうということはありません。多少ぎこちなくても、ちゃんと人として「わたし」と向き合ってくれる、同じ人間だったと思います。

自殺すること。
自分の身体を売ること。
他人から借金をすること。
この三つだけを、叔母からは強く禁止されていました。
「自身の理にかなった大義があるのであれば、物を盗もうが人を騙そうが殺そうが、他は何をしたって構わない」とまで言われました。今思えば、母親とは別の意味合いで、叔母も変な人だったと思います。
全日制普通科へ行くという選択肢を棄てて、派遣先で教育費を稼いで定時制高校に通うことにしたのも、その叔母との約束を守るためでした。
大学へ進学する道も頭を過りました。しかし、奨学金の制度を調べていくうちに、死ぬまで返せない借金になってしまうことを悟り、諦めました。返済不要の奨学金があることも、知ってはいましたが、すでに社会に出て働いていたので、大学は中高年になっても行けるし、好きな勉強は独学でも突き詰められるだろう、とわたしは考えました。

叔母は読書家でした。
リビングの隅の壁際に聳えた背の高い本棚では、自然科学の本から小説、エッセイ本など、多種多様な書籍がぜにひしめいていました。叔母の家では自室に閉じ込められることも、そもそも「自室」と呼べる部屋もなかったので、わたしは自由に本を手に取って、読み漁りました。

とりわけ、わたしは小説が好きになりました。
日本語には美しい表現も沢山あるのだ、と知りました。母親との会話に綺麗な言葉はひとつもありませんでしたし、日本に来てからも、小説の文章に触れるまでは、日本語が綺麗だとは思えなかったのです。
ただ、叔母の言葉遣いは、聞いていて心地良いと感じました。陸上部の仲間にも、夜間学校のクラスメイトにも、派遣勤務先にも、丁寧な言葉を使う人が何人かいました。
言葉遣いが綺麗な人たちは、共通して読書家でした。
わたしも、丁寧な言葉を話したい、と思うようになりました。
同時に、自分でも小説を書いてみたい、と思うようにもなりました。

十八、十九、二十、二十一と四年間を費やして高校を卒業して、約束通り、わたしは叔母の家を出て一人暮らしを始めました。
それから約三年が経ちました。現在、わたしは自宅のアパートの近所にあるガソリンスタンドでアルバイトをしながら、普通に暮らしています。
朝、起きて、歯を磨いて、働いて……。
昼、食べて、歯を磨いて、読んで、働いて……。
夜、書いて、食べて、サウナ行って、読んで、歯を磨いて、寝る。
これが、今のわたしの、一日のルーティンです。
極限まで切り詰めれば、月に三冊、文庫本を買えるか買えないか、ぐらいのお金は手元に残りますが、あまり無理はしていません。よく寝て、よく運動して、健康な物を食べて、ちゃんと歯を磨く。これだけを心掛けていれば、大して生きるのにお金は要りません。

大きな病気をわずらった時、わたしはどうなるのでしょう。
上手く想像できません。保険適用外の手術どころか、虫歯の治療さえも大きな痛手です。恐らくどうすることもできないまま死ぬ、というのが現状ですが、平穏な毎日を送れているので、充分に満たされていると感じます。読書や執筆という性に合った趣味を見つけられたことも、幸いでした。

日本では、割と多くの人が自殺しているような気がします。
それに対して、特に何も言うことはありませんが。

わたしは「砂山絵理」の人生しか知らないので、他の方々がどのような苦しみを背負っているのかは想像できません。羨ましく感じることは多々あれど、悲しみに暮れることも、哀れに想うこともありません。わたしから見れば、日本は不気味なほど安全で幸せな国に思えますが、それはわたしの眼が偏っているだけなのかもしれません。

言葉を紡いでいると、おもしろいことがあります。
何も考えていないはずなのに、自然と自分の体験した史実と重なる瞬間があるのです。
厭なことをされると人間は悲しい気持ちになる、ということを、わたしはよく知っています。だから、厭なことをされた側としての信念・・・・・・・・・・・・・・・に従って、小説を書いています。そして、厭なことをした側の大義を理解できる日が来ることを願って、世界を見ています。

ひとつだけ、怖いと感じることがあります。
自分が生きている世界を信じられなくなってしまった人が、いなくなってしまうことです。
よく分からないけど死にたくなる、という感覚や現象を、わたしはいまいち理解できません。だって、わたしは、今日で本当に死んでしまう・・・・・・・・・・・・と思って昨日までを生き抜いてきたのですから、理解できるはずもないのです。

「よく分からないけど死にたくなる人」に対して、わたしは二律背反の心情を抱えています。
ひとつは、わたしの手で今すぐにでも殺してあげたい、と思うわたし。
もうひとつは、なんとしてでも生きているうちに会って話がしたい、と思うわたし。
なので、呆れるほど極端な物語を書くことが多いです。
理不尽に人を殺したかと思えば、人間の孤独を抱きしめて離さないこともあります。ある小説で一人を徹底的に護ったかと思えば、別の小説で同じ人物を徹底的に蹂躙することだってあります。

これは推測に過ぎませんが、日本生まれ日本育ちの日本人と比べれば、結構、わたしは壮絶な人生を歩んできたのではないかと思っています。

好きだった恋人に振られた、家にも学校にも職場にも居場所がない、どうして生きているのか分からなくなった……。どうして生きているのか分からなくなった人は、そうなる以前は、自分がなぜ生きているのか、その理由が分かっていたのでしょうか。

よく分からないけど死にたくなる、の「よく分からない」部分は、人それぞれあると思いますが、生憎、わたしの中に同情の余地はありません。

この度、わたしは死にかけていたウタさんを助けました。
「もう、殺して」と言われても、その命が救われてほしいと願いました。
しかし、もう一度、同じ言葉をウタさんの口から聞いたら、今度は徹底的に死に際へ追い詰めて、わたしの明日への糧にしてしまうかもしれません。

それでいい・・・・・、と「わたし」は信じています。

わたしは今、お金はないけど不満もなく、安閑とした日々を生きています。
「あなたは運が良かった」
と言われれば、
「そうですね」
としか返しようがありません。
母親に殺されなかった「わたし」は運が良かった。
人種差別に耐えられた「わたし」は運が良かった。
あの教会のシスターに出会えた「わたし」は運が良かった。
淡白だけど“toxic parent”でもない叔母に受け入れられた「わたし」は運が良かった。
運良く読書家だった叔母を通じて美しい言葉に出会えた「わたし」は運が良かった。
修学費を賄えるだけの給料を稼げた「わたし」は運が良かった。
家具家電付きで賃貸の審査が通った「わたし」は運が良かった。

運悪く生まれ落ちてしまった・・・・・・・・・・・・・、というだけで、それ以降のことは全て運が良かったように思えます。

母親が今、どこで何をしているのか、わたしには皆目見当もつきません。
まだイギリスで働いているかもしれませんし、もしかしたら日本に移り住んでいるかもしれません。
いずれにしろ、興味はありません。訃報ふほうを受け取ったとしても、お金がもったいないので葬式はしないと思います。

言葉に直してみると、嘘みたいな話です。
わたしもそう思います。自分の辿ってきた人生が、信じられません。

もしかしたら、人生を小説にしてしまわないと、“ここ”で生き延びるなんてこと、到底やっていられないのかもしれません。

傷を負った人で、かつ、わたしの手が届いた人、かつ、こんなに長ったらしい自己紹介に最後まで耳を傾けられるほど辛抱強い人。
わたしが傷痕を見せ合えるのは、「あなた」だけです。
お互いが間に合わせて、ようやくここで出会って、傷を見せ合う。そのうえで、「あなた」が『ここから消え去ってしまいたい』と嘆くのであれば、ここにしかいない「わたし」にはどうすることもできません。

わたしは、這ってでも生きます。
こんなに安全で恵まれた国で生きていくなんて、わたしには容易いことです。

友達、恋人、仲間、家族、お金……。
何も要りません。本当に、生きていくには何も要らないと思っています。
何かの間違いで子供を授かるようなことがあれば、恐らくわたしは、「護らない」という選択をしてしまうでしょう。
何かの間違いで母親と再会することが、ひいては父親と相対することがあれば、恐らくわたしは、叔母から禁止されなかったことを言い訳に、彼らを殺してしまうでしょう。

土山ウタさん、あるいは、土山詩夢つちやまぽえむさん。
わたしのことは、どうか、「エリー」と呼んでいただけますか。「絵理」よりも「エリー」のほうが、なんだか、「わたし」に近い感じがするのです。
そして、「ぽえむ」より「ウタ」のほうが「あなた」に馴染んでいるのであれば、「ウタさん」と、そう呼ばせてください。

わたしには、「エリー・スナヤマ」という生き物の存在をただ認めて、致し方なしと受け入れて、自ずと死ぬまで淡々と生きていく未来しか、あり得ません。その長いようで短いような生命の最中で、また一瞬でも「あなた」とめぐり合う機会があれば、なんの生産性もない無駄話を延々と聞かせ合う時間を過ごせたらと思います。

あまりにも近寄られると傷つけてしまうかもしれません。
あまりにも離れられたら見棄ててしまうかもしれません。
お互いの顔がぼやけるぐらいの適度な距離感で仲良くしていただけたら、もしかしたら、わたしたちは上手くやっていけるかもしれません。

死にたくはないが、生きていたくもない。
そんな「あなた」は、小説の中でだけでも、ここにしかいない「わたし」の手で殺して差し上げましょう。

そして、死んだようにでも生きていられたなら、またどこかで、たまに会いましょう。
本当に間に合わなくなってしまう前に、会って、そして話をしましょう。

それでは、また―――


7. 


<To: marionetteonwires@tkgtkmail.com>
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玄関のチャイムが不意を突いて、心臓が跳ね上がった。
背後の布団にスマホを放り投げ、パジャマ姿のまま玄関へ向かう。三和土へ降りる玄関の段差を踏み外して、二、三歩ほど踏鞴を踏み、その勢いのままサンダルを突っ掛け、エリ―は依り懸かるようにして扉を開けた。

「エリー、おはよ」
「ああ、おはよう、ウタさん」
杖を突いて扉の前に佇む大切な人にそう返して、エリーはスマホ首で凝り固まった項を揉み解した。

日本のフィッシュアンドチップスはどんな味がするのだろうか、非常に楽しみである。
きっと、美味しい、と感じるのだろう。
ウタさんと食べるのだ。そんなの、美味しいに決まっている。


* 作中に登場する題材は虚実混淆きょじつこんこうですが、物語自体はフィクションであり、実在する人物や団体などとは一切関係ありません。


大切な「あなた」が、隣でヘラヘラと笑っている。
その笑顔の隙から、とんでもなく深い闇が垣間見えることがある。
こんなにも近くに居るのに、こんなにも遠いと感じてしまう。

この物語のおかげで、あなたには手が届いたのかもしれない。
でも、「あなた」は救われた心地がしなかったのだとしたら……。

次こそは、そこにしかいない「あなた」に触れられる物語を―――

「あなた」の在る世界が、
ここにしかいない「わたし」に、
まだ、
こんな「ことば」を紡がせている。


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