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気配りは、花束を渡すように

気配りとは良く言ったものだ。
気持ちを配るということは、自己犠牲の一つの形だ。
人間の心の美しさを彩る要素の一つではあるが、これは様々な「教え」の中で提唱されている。宗教などは最たるものだ。

しかしそれらが多く提唱されるという事は、「人間は自分のことばかりを優先し他者を傷つけるもの」という事実に対するアンチテーゼであることがわかる。

日本では他人に対する思いやりの心に溢れている。
「おもてなし」という言葉は日本特有の気配りを表現した言葉だ。
宗教ではなく、国民全員が相通じる理念を共有していることは、他国からすれば脅威的でもある。

再度逆説を並べてしまうが、このおもてなしも「後天的」なものである。文化といってもいい。やはり、人間には先天的に「自分のことばかりを優先し他者を傷つける」という機能が備わってしまっているからだと思う。

だから、限界を超えた気配りで疲れ果てる人は数多くいる。
自分のことばかりを優先して疲れる人など、まずいない。
もちろん「気配りしている量」なんて計れないから、その限界値なんてわかるはずもない。周囲の人が気配りの限界に気づいてあげて、未然に防ぐことなんてできるわけもない。
気配りは皆喜んで受け入れるが、傷ついたあなたは誰も受け入れてくれない。

自滅してまで気配りする必要はない。
じゃあ、どの程度気配りすればよいのか?

花束を渡す程度でよいと思う。

あなたはどんなシーンで花束を渡すだろうか?
・将来を共に過ごしたいと願うプロポーズ
・長年連れ添ったパートナーとの記念日
・卒業や発表会などへの成果の労い
・長期にわたる仕事への労い
・今生の別れの日

これが正解だと断言しているわけではない。
花束を渡す時と同じくらいに気配りできれば、という一つの提案。

だから、自己犠牲もほどほどにしないとね。

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