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米津玄師「毎日」が光る。

ー amehurisanpo  ー

 米津玄師ヴァージョンの「春と修羅」の一つとでもいうか。彼の若者特有の青臭さがなくなり、結実して、さらに熟成し、爽やかに軽く爆ぜている。彼が食した文学世界をよーく噛み砕いて反芻し消化し、栄養として心身に取り込んだ挙句、歌として、遊ぶように転がり、踊り跳ねてほとばしっている。その軽快さが耳に心地よい。

 あまりに軽やかに、あっという間に歌い上げるものだから、うっかり聞き逃してしまうところだ。

 「光ることがすべてならばこの世界はあまりに暗いのに」
 の歌詞だ。

 NHKに喧嘩売ってんのか?とミスリードしてしまいそうになったがいやその逆だろう。

 「光る君へ」はNHKの大河ドラマで大石静脚本、吉高由里子が主演。「源氏物語」の作者である紫式部を描く。正月に始まり半年経つ。源氏蛍が光る季節になっても、主人公は未だ朝廷という表舞台から遠い。光ってはいない。思いびとである藤原道長も、国を動かせる立場でありながら、周囲の意見の調整役でしかない。平安時代の華やかさ、めくりめく愛憎劇を見たい視聴者からは冴えない展開だ。視聴率も低迷している。

 さて。大河はともかく、「光る」とはどういうことか。

 太陽や星々は意志を持って光っているとはいえない。蛍はどうだろう。求愛のため、生きるために光っているから意志を持って光っている。では電燈はどうだろう。人口的な光であるが意図を持って光っている。街燈であれば道ゆく人を照らし、守り、導いている。参考までに、電燈は「春と修羅」のモチーフの一つだ。米津玄師も「旅人電燈」というタイトルの楽曲で、自らが電燈となり歌を歌うために旅立つと決意表明している。

 今の世の中、遠方の戦争が影を落とし、経済的に苦しい人々は少なくない。光は乏しく、今にも消えてしまいそうだ。

 明滅する世界で米津玄師が、消えないで、と切に願っているのはリスナーの心の燈である。そのリスナーへ「爆ぜるまで抱きあおう」と常軌を逸する愛の言葉を投げかけた上で、私たちに行動を促す文句が続く。

 「逃げるだけ逃げ出して」、「捨てるだけ捨てよう」
 「駆けるだけ駆け出して」、「少しだけ祈ろう」

 彼はつまり、逃げて捨てて駆けて祈って一緒に光ろうぜ、と誘っているのである。具体的な行動はさておき、何か行動しようということだろうか。いくら今をときめく米津玄師といえども、暗いこの世で一生一人で光り続けられない。

 MVはコメディタッチだが、シニカルさもある。7人のダンサーを白雪姫の小人に見立て、「クソボケナス!」と投げつけるのは毒リンゴだ。リンゴ一投に対し無数のリンゴを投げ返されるあたりはSNSの炎上の様でもある。

 頑張ろうと意気込んでも結果が出ずに落胆したり。良かれと思ってやったことにケチつけられたり。プレッシャーで押しつぶされそうになったり。病んで死ぬほど薬を処方されて逃げたくなったり。碌なことがない日々。だからこそ、心躍る光を欲する。それが「毎日」である。

 あまりにも軽快でカッコいい楽曲を痛快に歌っておきながら
 「光ることがすべてならばあまりにもこの世界は暗いのに」
 の一句は、際立つほどに光っている。

 そして。アルバムリリースが発表された。後にはライブの告知もあるだろう。角度を変えれば、ゼニを払って家から飛び出し駆けつけてくれってことか。カートに積まれ、ニヤッとした米津玄師が目に浮かぶ。アルバムはずいぶん高額じゃあないか。そしてライブチケットを手にするには抽選がある。頑張っても報われない毎日は続くってわけだ。はい。ジョージアをゴクリ。一週間が始まる。

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