'24 なりたい自分になりたいの!

やだっ!なりたい自分になりたいの!

と違国日記の朝は叫んでいた。おちびさんと呼ばれたくない朝にとって、背が高くなりたい、というのはなりたい自分になりたい、という思いととても近いところにある。

私は今何にでもなりたい。私が生きていても何にもならないのに毎日何してるんだろーーーーと思っていた時期もたくさんあって、その点がながーい点線になって私は今年大学4年生なわけだが、今は「何にもならない」とまでは思わなくなった。人一人いれば何かにはなるのだ、何かになれる場所を自分で作ったっていい。簡単じゃないけど。自分でいられる場所は探してもいいし作ってもいい、見つけることも作ることができないならできるまでやれー!という謎の筋肉精神で最近は生きている。せっかく生まれてきたのに自分なんかつまらないやつだと一生思い続けるのはつまらない。

と、強気なことを書いてはいるが、実際は混迷しまくりである。最近は、大学院に行きたくないかもしれない、と思い始めた。私がしたいことは研究ではないと思う。これは大学院を受験したいと思った時から分かっていたことなので新情報ではないが、まあまあ大事なことである。演劇や歌舞伎のことをもっと知りたい、語りたい、調べたい、考えたい、というのはどれも研究したい、ではない。全部本当の気持ちだがたぶん研究ではない。

私は歌舞伎の輪郭が知りたい。どういう歴史があり、どういう人々がかかわり、誰を救い、誰を傷つけ、今日の姿になったのか。今日の歌舞伎の姿とは一体どういうものか。歌舞伎の歴史の中で、私がいる現在地はどこか、どういう場所か。それは外の文化から見るとどう見えて、どう似ていて、どう違うのか。私はそういうことが知りたい。歌舞伎という、関わりのない人なら本当に知らないことだらけの日本の古典芸能を、もっと皆で共有していけないものか、もっと楽しめないものか、これから先に繋いでいけないものか。なぜ共有し、継承しないといけない?歌舞伎を観て何が楽しい?そういうことが知りたい。

それが、なりたい自分と関係があるのかは正直分からない。私もまた私の居場所を探している。できることを探している。仕事を探している。でもそれが歌舞伎なのかは自分でもまだ分からない。
これまで関わった少ないながらも優れた人たちを見ていると、おそらく私の席はなく、自分で椅子を持ってくるしかなさそうだ、だが椅子を置かせてもらえるかどうか、分からない。

演劇がある人生は楽しい。演劇好きな人全員と仲良くなれるわけではないけど、私では到底受け止められない人の存在も、演劇は受け止めてくれているのだという事実が私はただ嬉しい。隣の椅子に座る人と私とで馬など合わなくていい。ただ私もその人も今日そこにいて、同じものを見て、別の場所へ帰る。そのとき私たちはそこにいて良い人になれる。ときどきとても心が狭く、人に冷たくしてしまう私には、演劇が持つ乾いた優しさがとても愛おしい。

だから、私は演劇に関われるのなら何でもやりたい。何のジャンルであるか、何という肩書きであるか、何の仕事であるか、はあまり関係がない。何でも好きだ。私を救い上げてくれる演劇や演劇に関わる人々の力になりたい。そういう意味で、私は今何にでもなりたい。私にできることなら精一杯やってみせたい。

でも、願わくば私の得意なことがいい。私にできることがいい。
できるふりや分かったふりはもうしたくない。あらゆる方面に見栄を張って、できない、分からないと誰にも言えなくなりたくない。
できることならば、その過程でできないことに直面した時に、私は素直にこれはできない、教えてほしいと言える。要は、できる、と思っておくと心にゆとりができて、できないと言いやすいのだ。この傾向に最近気づいた。

できることを増やしてみたい、という思いもあって、そのために行ってみたい別の学科がある。ただたぶん今年は受かれないぞーということで、さてどうしたものか、という感じである。
最近、妥協で大学院に行くな、妥協で行ったり受けたりする所じゃないとアドバイスされて、それは間違いなくそうだと思った。就職できなさそうだから行く所じゃない。別にそこまでナメていたわけでは勿論ないけど、全否定はできない気持ちがあった(ある)。
就活落ちて、よし院に向けて100%気持ち切り替えるぞ、とは思えなかった。院進どうしよう、と相変わらず踏み切れないままであるあたり、なやんでるなぁーという感じ。

と言いつつ、今の大学に入ったときも、正直迷いながらやっていた。ずっと兵庫に行かなくていいのか気がかりだった。でも周りや環境に背中を押されて今の大学に入ったし、兵庫行けば良かったと後悔した瞬間はほんの少ししか記憶にない。大学が思いの外楽しくて、充実していて、本当に今までで一番人生が楽しい。だから大学院に行きたいとも思ったんだけど。

大学院で学術的なことを学ぶというよりは、もっと技術的なことを学んで自分の感性やスキルを磨きたい・増やしたいという気持ちも今は強い。研究ではなくもっとシンプルな思考力や判断力という意味では、あとはもう自分でやるしかないなと思っている。ので、仕事にそのまま生かせるような力が今はほしいな。そんな夢のような、というか楽な道はあるのか?甘えが見え隠れ、というか丸見え…。

人の役に立つことがしたかったかな

と言った実里に対して、「お母さんが本当にやりたかったことの話」「そういう作文に書かされるみたいなのじゃなくて」と返す朝は本当に子どもらしくとても聡い。
朝の言葉は核心をついていると思うからこそ私の胸にグサグサ刺さるが、私は最近、誰かの役に立ちたい、と本気で思う。自分のできることが誰かの役に立つことだったらそんな幸せはない、と思う。私が今それを作文に書いているとしたらたぶん本気で、2Bの鉛筆で濃いめに書いていると思う。
というのは、私が誰かにとって必要じゃない、いつも自分は選ばれない、と思ってきたからで、今もそういう気持ちがある。そうじゃなかったら高校でわざわざ生徒会長なんかやらない。内申(に本当に影響があったのかは知らんけど)のためだけに立候補するようなもんじゃないぞあれは。
今でも、誰かに呼ばれたりすると私はガチで心底嬉しい。誘われたり混ぜてもらったりするのが実は大好きである。でも一人でいる時間がないと死んじゃうのも本当なので、その塩梅が自分でもガチで難しい。ちなみに、呼ばれても行かない方が良いこともある、お呼ばれする場所は選んで良いと知ったのは冗談抜きで超最近である。

なんか話がそれた。

だからーつまりー。私は誰かの役に立ちたい。大好きな演劇に関わりながら、演劇や自分の嫌なところとかとも向き合いながら、それでも誰かがいる場所で誰かのために動けるなら、私は今すぐ就職でもいいしそのための努力をする時間が始まったって全然いい。人と違う道であることに憂いはないけど、自分が自分らしくなくて自分なんかこんなもんだ、こんなことしかできないとまた思い込みかけるような事態は絶対に憂いて憂いまくる。

こんな悠長な話をしている時期では絶対にないんだけど、そんなことはわかっているから毎日ストレスで死にそうなんだけど、私に何もできないわけないので私はこの時期をめちゃくちゃ大事に過ごそうと思っている。何にでもなれるぞ!!今なら!!今最高に道に迷っているけど今までで一番自由だと思う。自由じゃないことで泣いてたことに比べれば全然余裕よ!

なっがくなっちゃったので今日はここまで〜。
本当は、自分があまりにも恵まれているんじゃないのか、ということがとても気になっている話とか、最近すごく専攻ジャンルの外に気が向いている話とか、でもそれはただの目移りとは何か違う気がしてるっていう話もしたかったんだけど、もう3000字なんだ…長すぎた…。

ではまたじかい。今日の山田裕貴さんのANNがめっちゃ面白い。



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