見出し画像

230222『博士の愛した数式』

東京芸術劇場へ。寒かったけれど空が澄んでいていい天気!

今日はシアターウエストでの『博士の愛した数式』。80分しか記憶が持たない数学博士に挑むのは、まつもと市民芸術館長も務める串田和美さん。何と現在80歳だという。小川洋子さんの繊細な物語を濃く、そして優しく描き出す80分間。

本から登場人物たちが飛び出してきた、というのとは少し違う。作品の設定を借りたというのとも。小川さんの言葉は選び抜かれていて隙がなくて、だからか劇中ではほとんどそのまま、かぎかっこの外にある描写すらも語り手が大切に発していく。原作の存在が舞台上にあって、言葉たちが動いていくイメージだった。舞台化、という言葉以上の、本に書かれた言葉から生まれた演劇であるという意識が強かった。
だからこそ、原作にないものがそこに現れたとき大きな驚きがあった。子どものルートから、それまで語り手を務めていた俳優さんが大人のルートとして博士に向き合う場面は、衝撃と納得感と、ここまで舞台で見届けられて良かったという幸せと安堵で胸がいっぱいになって、そのときの気持ちはいまでも言葉にならない。
ルートと名付けよう、何度も何度も聞いてきた。何度もそうしてもらった、飽きるほど。嫌になったり怖くなったりする日もあった。誕生会のあの日、そう言った博士の声は震えていて、冷酷だった80分が崩れ始めたことを突きつけられた「私」とルートは言葉を失った。それでも、何度でも80分を積み重ねてきた。たった80分、気が遠くなるような道のりで、80分をこつこつと積み重ねて、身体中びっしり貼ってあったメモは朽ちてしまった。博士はどんどん小さくなる。いつかルートを背負ってくれた背中はあんなにも大きかったのに。それでも変わらないものもある。ルートという誇らしい名前。博士の胸に輝く江夏のレアカード。見守る未亡人の眼差し。「私」の気持ち。ルートの気持ち。
何度でも何度でも、これからもルートと名付けてほしい。あなたと友達になれて良かった。あなたがこの80分間だけでも、そう思ってくれますように。
すべていつか終わる。仕事も、記憶も、感情も、命もすべて。どんなに手放したくなくても、忘れたくなくても、これが一番だこれだけでいいのだと思っても、呆気なく消えてしまうものや忘れてしまうものばかりだ。虚しくてやるせなくて、忘れたことにも気付かないようなこともある。
それでも、忘れたくないものに出会えて良かった。忘れても、もう二度と出会えなくても、もう二度と手にできなくても、今ここであなたと生きられて良かった。十分だ。

こんなに忘れたくない80分間は他にない。でもそんなことも、思い出したいときにはきっと思い出せないし、思い出したところで、それが何だ今こんなに苦しいのにと投げ飛ばしたくなったりするのだ。だからここにこうして書いておく。いつかたまたま、思い出せますように。文庫本を開けますように。そしてまた、忘れたくない時間に向かって歩き出せますように。綺麗事だ。私はこの作品にいられるような美しい人間ではない。それでも、私は演劇の今ここにいるあなたへ、という力を信じていたいし誰かに渡したい。だから今日のことは美談でも大切にしたい。

だいぶ話がそれてしまった。脚本が本当に素敵だと思った。小川さんの紡いだ言葉や話の筋をとても大切にしながら、80分にするために選んだり選ばなかったりする作業は、本当に大変なものだっただろうと想像する。回文のくだりをかなり縮めていたことに驚いたが、それでも最後の場面の回文が面白く映るようにぎりぎりの量で残されていて感嘆した。
回文を博士がスラスラと述べて「博士の頭がおかしくなっちゃったよー!」と笑うルートにとって、80分しか記憶が持たず、話題に困ると数字のことを早口でまくし立てる博士は、決して頭がおかしな人ではないというのも、嬉しくて、泣けてしまった。

大切な部分を語り手の力を大いに活用しながら言葉にして伝えていたので、原作の感動が薄まることなく、描かれなかった部分すらも舞台上にあったと思えるほど、脚本演出が丁寧だった。言葉があたたかくすーっと身体に溶けていって、幸せで、終わってしまうのが寂しくて、これが80分で記憶が消えてしまう寂しさや不安感に通じる部分がきっとあるとも思った。言葉がひとつひとつ頭に浮かんでは消える。書き留めようとしても感情の色までは書ききれない。観劇体験というよりは読書体験だった。感情以上言葉未満の感情を、それでも言葉にしてみたいと思わせてくれるのは本だと思っていたけれど、演劇でもこんな気持ちになれる。

感情的になってしまって上手くまとまらない。いつかまた観たい。ないと分かってみても今はそう書いてみたい。またこんな気持ちになりたい。難しいと知っていても明日もこんなに気持ちになれるかなと期待してみたい。忘れてもいいのだから。そんなことは問題ではないのだから。さあ、明日はメモに何を書き取ってみようか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?