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マネタイズ出来る価値
賽銭箱に投げ入れるとき、そのお金には人々の穢れが託されている。
普段私達が使っているお金は、主に経済的交換価値をそこに託している訳だが、お金は価値以外のものも引き受けることが出来ると思われているということだ。
"プロフェッショナル"という単語が神の御言葉を告げる聖職者を意味した時代から遠く、仕事を通じて提供した価値の見返りとして、現在の私達がお金を受け取ることが出来るのは、目に見える形で価値を示すことをお金に託しているということになる。
賽銭の場合は金額の多寡と託す穢れの量は相関しないから、より多くのお金を投げたからといって浄化される量が多くなるということではないらしい。
プロフェッショナルが提供する価値についても、定量的なようでいて実はそうでもない。専門領域が特殊であればあるほど、価値と時間と金銭的価値の関数は発散してしまって時間単価は無限大となり、標準的な定価は無きものとなる。簡単に言えば、プロ性が高くなるほど市場価格よりも高額な請求が出来るということだ。
そのことは、専門領域の間口の広さだけではなく、その人が"誰"であるかが影響する。
人は誤解しがちだが、知識や技術的要素よりむしろ名前的要素の方が経済的価値を生み出し易いのが現代だ。
どういうことかと言うと、人はそのモノ自体がどうかということよりもバイネームでその価値を判断するということだ。
最初に物とお金が結びつき交換価値となり、その後に労働力とお金が結びついて労働価値(時間価値)を生み出すといった経緯で、経済的価値はお金に載って流通してきた。
今では、価値は交換価値からも時間価値からも飛躍して、ブランド的価値と強く結びついている。つまり、人気があるものが人気になる。
それはうっかり信用や信頼という言葉と置換されることもある。フォロワー数という計り方で評価されることもある。
だからこそ、どんなに面白い作品であっても無名の作家が描いた漫画は幾らにもならず、有名な作家の漫画は無条件で面白いように感じるし、大きなお金を生む。有名人であるということだけで付加価値は何倍にもなる。名が売れた芸能人がブランドを作ってものを売ったり、店名に自分の名前を入れるのはそういう理由だ。
結局のところ名前が重要な世界なのだ。
その人が”誰”なのかということが、その人の周辺の価値をも決める。
有用な情報を提供することよりも、希少なモノを売るよりも、その人の"名前"が何かということの方が価格により多く転嫁される。
つまり、マネタイズ出来る価値は"名前|《ブランド》"に宿っている。
一方で、バイネームによる価値が過度に重用され過ぎると、そのもの自体が本来持っている価値が分かりにくくなる。
そのもの自体の持っている価値が分からない時に名前に頼ることは安心感にもつながるが、ブランド品が高品質であるのは当たり前として、高品質であればブランド品であろうが無かろうが、その良さに気付くことが出来る選択眼を持つことが出来るようにしたいものだ。
名前の向こう側にある個人としての真の価値が見出されることで、個人が持つ素のブランド力を発揮する機会が公平になるはずだからだ。
ネットによって個々人の持つ価値を発信するチャネルは増えたが、ネットの便利さはむしろブランドへの求心力を高めてしまった。
個人は強大なブランドの影では霞むばかりだが、少なくともネットの無かった昔よりも個人の発信力は社会的な意味を持つまでになった。
個人が持ちうるブランドのマネタイズ可能な価値化を実現するためは、仏のような包容力と曇りのない眼が必要だ。
それを取り戻したいと切に願う。
おわり
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