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収斂していく視野

 スマホは便利だ。
 便利過ぎて、これが無かった時代には戻れないくらい。水道が無かった時代とスマホが無かった時代のどちらかを選ぶとしたら、と聞いたら、水道が無い方を選ぶ人が一定程度いるのではないだろうか。それほどスマホは手放せないもののように思える。

 それでいて、歩く時も電車に乗り込む時も食事の時も、終始スマホ画面から目を離さない人を目にすると妙にイラつく。もっと周りを見なさい、と思ったりする。するときっとこう言うのだろう。見えてます、と。チラチラとテレビを見ながら調理している妻にもっとちゃんと手元を見るように言うとやはり、見ていますと言うのと同じ様にキレ気味に。
 しかし、視界の端に入っているのと、ちゃんと見ているのは全く違うのだ。

 スマホを凝視して視覚情報として上がってくる様々が脳内を占める割合は現在バク上がりなはずだ。自ずとスマホの画面以外の範囲は見ているものから見えているだけのものに格下げになる。私たちの「意識」はスマホの登場以来、対角線が6インチほどのこの四角形の範囲内に収縮していっているとも言えるだろう。

 意識が人の行動を司る元になっていることを疑う人はいまい。私たちは「自分の意識」によって自分を認識し、まるでその自分が体を操っているが如くに思ったりしている。
 意識が造られるのは脳内の現象によるものであるが、脳内での化学反応を起こさせるきっかけの一つは視覚情報だ。

 だからもし意識がスマホ画面の中に収縮していけば、広い意味で人の視野は狭くなる。広い意味とわざわざ書いたのは、見える範囲のみならず思考の幅も狭くなるという意味だ。
 便利な道具としてスマホを利用している分には良いが、スマホというデバイスを通してのインプットが増えるほど、人の考え方やものの見方は収斂していってしまうだろう。

 多くの情報を取り入れることで人は賢くなると思われがちだが、賢さは情報の蓄積量だけではなく多彩さに宿る。クイズ王が賢そうに見えるのはそのせいだろう。
 脳にとって情報とは知識だけではない。まして、ネットやスマホの中だけから得られるものではない。そして、脳にとっての情報とは外部からインプットされるものだけではなく、脳内で情報が処理されて生まれてくる新たな状態も含まれる。

 昔、テレビばっかり見てないで、と親に良く言われたものだ。当時は稀だった自分の部屋にもテレビがあるという友達が羨ましかった。親の真意は自分の見たい番組が見られないことの不満だったのかも知れないが、何台もテレビは要らないとも言っていたから、テレビは害悪にもなると本気で思っていたのだろう。
 
 それが今はスマホに置き換わっている。テレビは大きくて持ち運べないのでテレビばっかり見ていたのは家の中だけでの話だったのに対し、スマホは手軽に持ち運べるから、そこが即プライベート空間になる。周りに誰がいようが、私のスマホ時間を邪魔しないでオーラが出まくっている。テレビが害悪だったとしたら、スマホはその何十倍も悪影響がありそうだ。
 車窓から見える美しい夕焼けに気がつくこともなくスマホに夢中なことが、ある種異常だと気づかなくなってしまったのだとしたら、悪影響を超えて人そのものが既に悪になっていたとしてもおかしくない。
 ちょっと背筋が凍る話だ。

おわり




 

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