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レピュテーション社会からの脱出

 そろそろ謝罪会見はやめてもいいんじゃないか。頭を下げて申し訳御座いませんという映像を放映してもらうためだけに行われる茶番。
 二度とこのようなことが起こらないように気を引き締めて細心の注意をもって取り組みますという笑劇場。
 再発を防ぐためには口を酸っぱくして言い続けるしか無いという瞞着。

 謝罪会見をやらないことで押し寄せるクレーム電話の嵐や説明責任という追求の欺瞞。
 こうした喜劇で暇を潰している輩の餌を供給し続けるのは阿呆らしいではないか。

 それでも皆が謝罪会見をやめないのは、日本がレピュテーション社会だからだ。実際の利害関係や事実関係よりも第三者の評判や噂が重視されるからだ。
 そして謝罪会見にマスコミが飛びつくのは、情報を伝えることに報道の「真実」があるのではなく、噂を広めることにあるからだ。
 これによって起こるのは、当事者の真空化だ。
 本来対応されるべき人や謝られるべき人が蔑ろにされ、虚無の領域に追いやられる。本来やらなければならないことが後回しにされ対策が後手に回る。

 関係のない野次馬が群がるのはイジメと同じ構図だ。小火で済む火事に着火剤を大量投入して炎上させているのは当事者では無く他ならぬ野次馬だ。そして消防が現場に辿り着けないよう道を塞いでいるのも他ならぬ野次馬だ。
 野次馬達が現場を取り囲んで去らないのは、そこが面白いからだ。大変なことになっている当事者が右往左往しているのに、野次馬のせいで成すすべもなく壊滅的な状況に追い込まれて行くのを見るのは楽しいことなのだ。人は誰しもそういうダークサイドを持っている。
 きっとダークサイドを露骨に見せびらかしていることに気がついていないのだろう。分かっていたら恥ずかしくていられないはずだ。それとも恥という言葉はとっくの昔に死語になったか。

 子供のイジメが無くならないことを嘆く前に大人のイジメを無くさなければならない。しかしそんなことはきっと無理だろう。
 子供のイジメがある種本能的なものであるのに対し、大人のイジメは意図的、計画的だからだ。つまりわざとだからだ。
 人の心の闇は他人の心を食い潰す事に快感を覚える。餌にありついた猫が喉を鳴らすように、イジメ心は人の魂を震わせる。もっともっとと際限無く追い求める渇望は終わることなく次の標的を追い求める。

 そんなんじゃ無い。きっとそう思いたいだろう。でもそれが真実だ。
 たとえ自分では手を下ださないにしても、あなたの心に巣食う闇は無くなりはしない。
 だからこそ謝罪会見はニュースバリューがあるのだ。不倫やイジメは報道され続けて一方的な言い分だけの週刊誌は売れまくる。
 邪悪なものほど人気があるのだ。

 他人を引き摺り下ろせば相対的に自分の位置が高くなると思うのかも知れないが、足の引っ張り合いは不毛なだけだ。
 そろそろ他人の噂話ではなく実のある話をしようではないか。

おわり


 

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