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不満の矛先を向ける先

 政治屋の一掃を掲げて選挙に打って出た人がいた。
 政治屋の定義は何ですか、政治屋とあなたの違いは何ですかというインタビューが一時世間を賑わしたあの人だ。
 きっと本人は、これまでの政治とは違うものが求められているということを訴えるために政治屋という言葉を用いたのだろうと私は理解していたが、そうした意図は今の国民には伝わらないとインタビュアーは考えたのだろう。もっと丁寧に寄り添った説明をしないと殆どの人には理解出来ないと思ったのだろう。もしそうだとしたら、あのインタビューでバカにされたのは落選した候補者の方ではなくて、国民の方だったのかも知れない。お前らには分からないだろうから、分かるような答えが出るようにオレが質問してやるよ、と。

 政治が不信と言われ続けて久しいのは、その実、誰も不信とは思っていないことの裏返しだろう。信じる信じない以前に関心が無い。殆どの人にとって関心を持つ必要が無い。
 関心を持たなくても日本という国はそれなりに回って来たし、これからもそれが続くと思っているからだ。
 優秀な官僚が黒子のように裏で活躍している日本の政治は、さながら人形劇みたいなものだ。人形劇を観るくらいならミュージカルやミュージシャンのライブに行った方がマシだと多くの人が思うだろう。道端で友人と政治について語るくらいなら好きなアイドルの話でもしていた方が楽しいに決まっている。

 人々が関心を抱かないのは政治そのものが悪かったからでは無く、逆に関心を持たれないから悪いことをしても気付かれず、次第に悪いという感覚も薄れてしまっただけだ。関心を持たれなかったのは単純にその必要性が無かったからだ。
 高度経済成長の後に低迷していたとはいえ、日本の経済は低空ながらも安定していた。急降下はしても墜落はしなかった。成長なき持続は欧米の資本主義とは異なる経済観念を持つ日本国民の意識の現れでもあったのだろう。
 生活を営む上で、多くの人の関心はお金のことに終始するようになっている。国や地歩自治体という枠組みはあくまで与えられた条件であって、その中で生きるという感覚はあれども、自分たちこそが自治体や国を作っているという感覚はほぼ無いに等しい。
 政治や行政は自分以外の誰かがやってくれるものだというのが多くの人の感覚だろう。

 人が多かったからだと思う。
 政治や行政に積極的に関与する必要がないくらいに人が溢れていた。一人一役の役割分担で良かった。
 政治行政に関わらず無駄に頭数を投入する癖が未だに抜けないのも、人が余っていた時代の名残りだ。それは責任の所在を曖昧にさせる日本的な組織を形成するに至ったが、そんなことが出来たのも一人ひとりに大きな責任を負わせる必要が無いほどに人がいたからだ。

 しかし、日本を駆動するための人の数が多かったのには理由がある。地方から駆り集めた人を大都市圏に大量動員したのだ。地元には跡取りとなる長男を残して、他は都会に出て一旗揚げるのが夢であり目標となった。そうして集められた人々は、成功をつかむまでは地元に帰るわけにもいかず、それが原動力となって活躍した。
 その結果は見ての通りだ。
 地方からは人が消え、消滅しそうな自治体で溢れかえっている。都会で成功した人々は地元に戻ることなく都会に居続けた。もはや戻るほどの魅力がある場所は何処にも無い。戻って魅力ある場所にしようという気力も湧かない。

 生まれ故郷を離れた都会での生活は、その場所のコミュニティを作る一員としてではなく、受け皿となる街への仮住まいであって、政治行政は既にそこにあるものに過ぎない。そこに根を生やす気は毛頭なく、嫌になれば他に移り住めば良い。
 こうした感覚は、世代を超えて受け継がれているのではないだろうか。そうだとすれば、政治や行政に興味や関心を抱く理由が無くてもおかしくは無い。

 問題はこの後だ。
 日本の人口は間違いなく縮小していく。遠い未来の話ではない。もう始まっている。自らの食い扶持のためだけに働けば良い時代はこの先には無い。政治や行政を他人事には出来なくなる。そうなれば、不満の矛先は自分だった、ということが起こり得る。

おわり
 

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