疲れたら目を閉じて耳を澄まそう
私たちは毎日、膨大な量の映像や画像を見ている。周囲の景色や風景や光景、テレビや映画に映る映像、スマホやタブレットに表示される画像や動画。
それらのうち、私たちはどれくらいの量を記憶しているのだろうか。
イメージの記憶は確かにある。
旅で訪れた場所の風景や幼少の頃に何処かで見た光景が不意に蘇って来ることがある。久々に訪れた場所で、昔を思い出すこともある。
しかし、覚えているのはごくわずかだ。むしろ殆どのことは見たそばから忘れてしまっている。見た映像は一体どこに消えてしまうのだろうか。そして、思い出せる映像はいつどうやってどこに記憶されたのだろうか。
ユーチューブが広まって人々は沢山の動画を観るようになった。インスタグラムが普及して人々は写真を大量に見るようになった。加えて私たちは、スマホのカメラでいつでもどこでも写真を撮るようになった。私たちの周りは映像だらけになっている。
どうせ直ぐに忘れてしまうのに、私たちはどうしてこんなにも映像を欲するのだろうか。
私たちが欲するものは、私たちの脳が欲するものだ。それを与えると脳は喜ぶ。もっとよこせとせがんでくる。しかし満たされると急に見向きもしなくなって他の欲求に向かって行くのが普通だ。しかし私たちは何となく風景を眺めることも含め起きている間はほぼ全ての時間を見ることに費やしている。
これほどまでに見ることに執着するのはどうしてだろうか。
本当はもっと耳を澄ませて音を聞くとか、肌に触れた感触を味わうとか、漂ってくる仄かな香りに身を任せることをした方が良いのではないか。
視覚の発達こそが人類の脳をここまで進化させたのかも知れない。遠くまで見通せる視覚の発達こそが行動範囲を広げて無駄な争いを生む原因になったのかも知れない。明かりの発明は夜でも見えるようにするためだ。人は太陽のある昼間に飽き足らず、夜でも目を使うことに執着したのだ。
まるで目から養分を得ているが如くスマホを覗き込む私達は、いつか目を閉じていても見えるデバイスを開発してしまいそうだ。
目を閉じて楽しもうと音楽を掛けてみるが、聞き入っていたつもりがいつの間にか寝入っていた。目を使わないのが眠っている時に限定されるとなると、明かりを消して布団に入るのもありか。
目に頼らない楽しみを夢の中で探すことにしよう。
おわり
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