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生きる場所

 反りの合わない人を排除する様に、「悪い」部分を組織から取り除く。元々は身体の一部だったものを別物と見做して切除する。あるいは高エネルギー線や薬物によって死滅させる。
 これが癌の治療として行われていることだ。

 私も含めこの様な治療法は至極真っ当なものと思って来た。
 しかし、ふと思ったのだ。
 身体の一部を悪いものと決めつけて取り除くのは、良いことなのだろうかと。

 未だに原因が良く分かっていないとされる癌は、それを身体にとっての外敵と見做した時点で解決困難になってはいないだろうか。
 本当のところは分からないが、ある種の魔術的な治療で癌が縮小したという人を知っている。身体は複雑なシステムで、気の持ちようで良い方向に変わることが無いとは言えない。
 急激に増殖して神経や他の組織を圧迫し、痛みや悪影響があるのなら、その痛みなどを軽減するために取り除くことは、ありかも知れない。
 しかし根本原因を絶たないかぎり解決には至らないだろう。切除は対処療法であるように私には見える。

 長生きすることは、誰しもが何となく抱いている思いであるに違いない。それが高じて、長生きすることそのものが目的化していることは沢山ありそうだ。そのせいで「今」が疎かになっているとしたら、どうなのだろうか。

 積極的に考えたいことではないが、癌がもし、人が死ぬための機能の一つだとしたらそれを受け入れるのが一番良い、と言えるだろうか。
 当人や家族にしてみれば、とんでもないということになるだろうが、局部を忌み嫌って身体をズタズタに切り裂くことが果たして正解なのか私は自信が持てない。 

 死は悪いことでも何でもなく、人間を含めた生物の必然だ。言い古されたことではあるが、死があるから生がある。免れようとしたり、なるべく先延ばしにしたりするような類のものではない。死は生と共存しているもので、生きている限り常にここにある。そう考えれば良いだろうか。

 
 一緒に自殺してくれる人をツイッターで募る人があるという。しかし会ってみると思い留まる人が多いようだ。勝手な推測だが、きっとその人は「死にたい」気持ちを誰かと共有したいのだろう。生きることの意味を見出そうとしてそれが出来ず、死に答えを求めているのだろう。生きることに意味などないのにそれを求めてしまうのは、無償の愛に飢えているからではないか。救いを求めているからではないだろうか。
 
 究極の話、何によって救われるかは運による。
 親、家族、仲間、友人、自分自身、あるいは宗教などによって救われることが多いだろうか。
 救いは、生きる場所と言い替えても良い。
 役に立てる場所と言っても良い。
 頼り頼られ、助け合う関係性の範囲が広がれば広がるほど、生きる場所は広がる。
 何かを排除すれば解決するという考え方からは生は見いだせないだろう。
 唐突なインスピレーションだが、死を恐れるよりも、生きることにフォーカスして行こうと思っている。

おわり
 
 

 
 
 

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