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せっかくの休日には腰を落ち着けて考えてみたい

 一部分を切り取って都合の良く編集し、受け取り手をミスリードするのはマスコミの得意な手法だった。話の前後を削除すると、人の話は如何様にも解釈できるものに出来る。どんな話にも文脈があるし、言葉の意味は文脈によって決まるから前後関係こそが大切なのだが、これを意図して省くことで受け手は足りない部分を想像して埋めることになる。プレゼンの際に前後にどんな話を持って来るかによって、切り取られた発言の意味を変えることが出来るのだ。
 こんなことはみんな百も承知なのだが、まんまと騙されてしまう。なぜなら人は自分が見聞きしたものが正しいと思うからだ。切り取り発言の前後を埋めたのが自分であれば、その話を信じない訳が無い。

 切り抜き動画やショート動画が分かり易いと受け入れられている事は、両手を挙げて喜べることではない。面白可笑しい分にはまだ良いが、本来の意図や趣旨とは違った引用のされ方を簡単にされるから、ちょっと見ただけで判断しない方が良いのは言うまでも無い。つまり、あまりに分かり易いものには気を付けた方が良い。
 
 ところが、現代の私たちは言葉の感度が衰えていて、話が長くなると途端についていけなくなるし、難しいワードが飛び出すと意味不明に陥る。簡単に説明して貰わなければ理解出来ないようになってしまっている。だから、端的を極めた切り抜き動画は視聴者の心にスッと入っていく。これが問題なのだ。
 特に人の考えや思想はよくよく話を聞いてみなければ分からないものであるのに、話が長くなると迷子になるのだから、とどのつまり何も理解することは出来ないのだ。

 そうなると、文脈というのは極力無視される方向になる。意図して無視するのではなく眼中にないのだ。瞬発的なギャグはうけても、後からじんわり来るような皮肉な笑いは大衆には好まれない。せいぜいが嫌味な奴と思われるくらいなものだ。
 こうした傾向は劣化なのだろうか。
「分かりやすく」切り抜かれたものを見て分かった気になる。強い言葉による煽りに同調して盛り上がる。自分には何のエビデンスも無いのに、だったら証拠を示せと相手には迫る。思考が短絡的なのだ。

 切り抜くことやミスリードする編集が悪くないとは言わないが、それよりも危険なのが、簡単に鵜呑みにして分かったつもりになってしまう側だ。反対、反対と叫ぶだけの野党政党に信頼が置けないように、単純思考に絡め取られる民衆ほど怖いものはない。
 結論を急がずにじっくり腰を据えて考えることが今の時代何よりも大切な気がしている。

おわり


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