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ブラウン運動と平衡状態 多様性の尊重と新たな社会

中学の授業で聞いたことのあるブラウン運動という言葉。
学習のねらいは、化学変化を原子や分子のモデルと関連づけてみる微視的な見方や考え方を養うことだという。

身の回りの物質は分子で出来ており、分子は原子の組み合わせで構成されている。
固体も、液体も、気体も分子で出来ている。

固体が液体、液体が気体となるにつれ、分子の持つ熱エネルギーは高くなる。
熱エネルギーとは、分子の運動量の総和のことだ。
熱エネルギーの大小は、一般的には温度として表される。

何だか難しい話から始まってしまったが、何も化学の話をしようというのではない。
しようとしているのは、化学のアナロジーの話だ。

それぞれの分子は、それぞれの運動強度で、誰に言われるでもなく勝手気ままな動きをしている。分子に意志があるわけでもない。
あるひとまとまりの分子の集合は、ミクロにみると各分子が勝手に動いていながらも、全体としては大きな動きがないように見える。
そこに何らかの外的要因が加わって、分子の運動に一定の方向性が出来ると、動きが生じる。

例えば、部屋の空気は何もしなければ風が起きない。しかし局所的に暖めると対流が起きて風が起きる。換気扇で強制的に吸い出しても、窓を開けて外気と触れさせても風が起きる。

しかし、窓を閉めて換気扇を止めてカーテンを閉め、室内の温度が均一になれば風は起こらない(逆に分子の動きがないことを温度が均一というのだが)。これを熱的平衡状態という。

部屋の温度が20℃でも熱的平衡状態になるし、50℃でも熱的平衡状態になる。部屋の中の温度のバラツキがなければ、温度そのものが何度であるかは関係がない。

このとき、部屋の中の空気は、全体としては止まって見えても、部屋中の空気を構成する気体分子は、それぞれが勝手気ままにあらゆる方向に動き回っている。各分子がバラバラの方向に動いているからこそ、全体の方向性がプラス・マイナスゼロのような状態になって空気は止まって見えるのだ。

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個性が尊重される時代だ。
型に嵌めるような考え方をしないようにしましょうという時代だ。
あなたらしく生きましょう。
少量多品種生産の製品が好まれ、個性的であることが昔ほどは奇異に見られない時代になった。

皆が揃って同じ方向を向かなくて良い社会は、安定した社会と言える。社会的平衡状態とでも言おうか。

平衡状態だからといって、社会がハッピーかといえばそんなことはなく、経済状態が悪かったり、先行きが暗いということはあり得る。

皆がバラバラの意見を持っている状況では、ひとつの方向に向かって動くことは出来ないのだが、同じ意見を持たなければならないということでもない。皆が共通の価値観を持つべきだというのでもない。
バラバラの方向を向いていて良いんだけれど、バラバラの方向を向いているということは、方向性を持った社会の強い動きは生じないだろうというだけのことだ。

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敢えて短絡的に言えば、西欧近代化の流れの中で個人が開放され、家族が開放され、社会が開放され、自由が尊重される中で、差別や格差といった「差」が目につくようになった。
「差」と「多様性」は表裏で、多様性があるからこそ差が生まれる。でも、多様性があることと、多様性を認め合うことはまた違う。
元来、人も自然も多様なものだ。つまり、差はもともとある。重要なのは、その差をお互いに認めて尊重することだ。差があるのはおかしいのではなく、正常なことだ。
差別とは、差を受け入れないことに他ならない。受け付けないから異物として吐き出そうとするし、拒絶反応を示す。こちら側とあちら側を分ける仮想の境界線を引いて区別しようとする。

反対から見れば、差の裏側には同質性が隠れている。
同質性に身を任せていた方が安心出来るのかもしれない。差を直視することは人を不安にさせるのかもしれない。
本当は多様な方が全体としては安定するのに、人と違うことに不安を覚える人が多いのだとすれば、そこに差別やいじめの根っこがあるのではないか。

空気を読むというのは、同質性を担保することだ。
個性的でありながら空気を読まなければならない、そんな難しい綱渡りをしながら日々を過ごしていたら、疲れない訳がないと思うのは私だけだろうか。
個々人が心底自由に活躍出来る社会であれば疲れなくなるのだろうか。

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多様性を大切にしながら、社会的に困難な状況を社会が乗り越えていくのは簡単ではないし、これまでの道理は必ずしも通用しない。
その意味で、今後の社会をより良くするための方法を新たに構築していかなければならない局面なのかもしれない。

おわり


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