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時代差に溺れない

 年を取るに連れて1年の長さは年々短く感じられるようになり、20年前という時間の長さはそれほど昔のことのようには思えなくなる。若者にとっては驚異的で非現実的でしかないこのタイムスケールは、しかし誰にでもやって来る普遍的な現象だ。

 遠い過去のことが昨日のこととさして変わらずに感じられるようになると、つい昔語りになる。きっと若い人が聞けば、また昔話が始まった、と呆れられるのだろうと思い込んでいたのだが、よくよく話してみると実はそんなことはない気がしてきている。
 多くの先輩諸氏が過去を語ることを敬遠したおかげか、いまや昭和の時代の話は若い世代から見ると希少で興味深い話になっているようなのだ。

 毎日の変化は少しずつ過ぎて気付きにくいものだが、この二十年の世の中の変化は、良し悪しは別として目覚ましいものがある。その中心にあったのは紛れもなくインターネット、すなわち通信インフラの進歩とそれに纏わる半導体関連技術の進歩だ。ここで言う通信インフラとは、単に通信回線のことを指すに留まらず、わたしたちの通信との付き合い方の変化を通じた、コミュニケーションの仕方の変化までをも含む。

 物心ついた頃からインターネットやスマホが身近にあった世代にとって、そうしたインフラが出来る前の時代の話にはどこかタイムスリップ感があるようで、まるで生きた化石と会話しているかの様に私の話に目を輝かせる若い人は意外に多いのだ。

 むかしの先輩諸氏が私に語った昔話は、とかく昔は良かった昔は大変だったというようなことに終始していたが、現在と比べると当時はまだコミュニケーションを軸とした社会の変化が緩やかで、それほどの隔世感は無く同じ時代を生きている感覚があった。変化の只中で、それについていけるか否かという違いはあっても、人と人との繋がり方や距離感は共通したものがあった。

 それに対して、今の私と今の若者とではあらゆる意味で生きた時代が違っていて、身の回りの持ち物も価値観も異なっている。将来への展望も違えば、語る夢も違う。考え方も違う。
 同じ人間だからと、つい同じ年齢の頃は同じ様な考えを持つものだと思いがちだが、実際にはかなり違う。今の二十代が考えていることは、私の二十代の頃とはまるで違うのだ。

 だからこそ、年上の世代が自分たちの年齢だった頃に世界はどうだったのか、何が起きてどう考えていたのかが興味深いらしい。その頃の勤務環境や職業観、世界観がどうなっていたのか、聞くのが楽しそうだ。
 例えば、昔は夜遅くまで残業するのが普通の企業でフツーに見られたと言えば、なぜそんなにブラックな環境で皆文句を言わなかったのか。昔はオフィスのデスクで普通にタバコが吸えたと言えば、眉をひそめてまるで煙でも払うかの様に顔の前で手をパタパタさせて見せる。

 パソコンが無かった頃はどうやって仕事をしていたのですか? メールが無くてどうやって連絡したのですか? ネットバンキングが無くてどうやって振り込んだのですか? 給与が現金支給だったって本当ですか? カメラのフィルムってどういうことですか? 
 スマホが無くて外からどうやって連絡するのですかの問に、電話ボックスと答えたときの反応が妙に薄かったのは、電話ボックスというものが想像出来なかったからなのかも知れない。今これを書いていてそう思った。

 逆に言えば、今の仕事のやり方はたとえ事務仕事でなくともかなり変わったのだと気付かされる。私が得意気に教える仕事の心得は、彼らに響くどころか惑わせるだけだろう。そんなの古いと思われる以前に、何のことを言っているのか意味を捉えるのが難しい可能性すらある。
 それでも信じたいのだ。人の行いで重要な点は今も昔もさほど変わらないのだと。仕事での要点は変わらずにそこにあるのだと。変わらない何かが無いのだとしたら、自分の存在意義を見失ってやるせなさに溺れてしまうから。

おわり

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