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合議制の頼りなさ

 それぞれの意見を尊重し話し合って決めることが重要と思われがちだ。でも本当に何かを決めなければならない時、それは必ずしも正しい方法とは言えない。少し考えれば分かると思うが、重要な事であればあるほど他人とは意見が合わなくなる。別の人間である以上、究極的には利害が一致することは無いからだ。

 あなたは友人と二人で旅に出たが、荒野で道に迷って助けも呼べない状況にあると想像してみて欲しい。手持ちの食料もいよいよ尽きて、カロリーバーが一欠けだけ残っているとする。二人とも空腹に飢えていて内心自分がそのカロリーバーを食べたいと思っている。しかも、食べないと生き延びられない。これまでは半分に分けあって来たが、もはや割るほどの大きさは残っていない。
 この場合、どちらがそれを食べるかについて、話し合いでは決まらない。

 世の中の多くの仕組みは、最終的に決断する人と決められたことに従う人を分けて考えた方が上手くいく事が分かっている。決める人の事は決裁者と呼ばれる。
 本来、責任者には決裁権限が与えられているものだが、日本の多くの組織ではそうなっていない。「責任」がある立場が設定されていても、何かを決めることが出来る訳でもないのに、何か都合の悪いことがあれば罪を被ることになっている人のことを責任者と呼ぶことになっている。大抵の管理職にも大した決裁権限は与えられず、責任だけを負わされている。

 逆に言えば、管理職や責任者は何も決める必要がないとも言える。それは課長や部長にとどまらず、多くの場合は役員や社長も例に漏れない。
 そんなことは無いはずだと思うだろうか。
 だとしたら、何故あんなにも多くの不毛な会議が行われるとお思いだろうか。何も決められない人たちが集まって長時間、複数回の会議を行うのはどうしてか。彼らが決められないのは能力の問題だと思っているだろうけれど、そうではない。誰かが決める仕来りになっていないからだ。納得感のある合意形成を行うというプロセスこそが重要視されているからだ。
 この「納得感」という言葉が象徴するように、みなが納得することを合議の条件にはしていない点に注目したい。実に日本らしい言葉だ。

 こんなにも決められない組織形態が隅々まで広まったのにはきっと理由があったはずだ。誰かの独断で決める仕組みには確かに危うさがある。正しい判断が出来る人が上に立つことが絶対条件になるのにもかかわらず、人は、常に正しい判断を下すことは出来ない生き物だからだ。
 仕組みが正しく整備されて運用されている企業であれば、社長の間違った判断により業績が悪化すれば、社長を取り替えれば良い。しかし、多くの企業ではそこまできちんとしたコーポレートガバナンスが効いている訳では無いので、社長だけが咎められることがあまり無いようになっている。それは、内閣総理大臣にも当てはまる面がある。

 独裁を勧めようというのではない。
 日本のあらゆる組織は、もう少し現実感を持った形態にした方が良いというだけだ。物事を決める権限とその所在を明確化し、責任の取り方も予め明確にしておく。ここで言う責任の取り方というのは、ミスをした場合の罰し方よりも、成果が出た場合の褒美にウェイトを多く置いた方がいい。ミスをしないようにする組織よりも、ミスを恐れずに前向きに取り組む組織の方が強いからだ。

 もっとも、そうした企業運営が成り立つためには、労働市場の流動性が重要になる。組織形態と労働市場の流動性は鶏と卵の関係であり、ともに変化する必要があるから、変革はかなり難しい。
 顔色をうかがうという言葉の意味が分からなくなる時代が、いつやってくるか個人的には楽しみにしている。

 ただし、身近な人の顔色をうかがうことは、決してやめてはいけない。それだけは間違えてはならない。

おわり

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