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慮りたい

 かつて、これほど空気を読むことが人々に浸透していた時代は無いのではないかと思う。あらゆる場面で空気を読むことが板に付いてしまっているから、本人にはそんなつもりが無かったりする。
 それでいて、もっと寄り添いましょうと言うのだから、なかなか辛い世の中だ。

 空気を読むことが社会のためになると言うのであればまだマシだが、私にはどうもそうは思えない。空気を読めない人が排斥されるような内に閉じた社会が健全に発展するとは思えないからだ。
 空気を読む集団の単位は日本全体というような大きなものでは無く、比較的少人数のグループで、要するに内輪の話。外に開いたものでは無い。だから部外者に対して空気読めない奴とは言わない。

 空気を読むようになった原点には稲作があるという。ひとつの場所に定着し同じメンバーで構成された集落が拠点となり、田植えや収穫の際は人々が協力し合わないとならない。食べる分を作るだけならそうはならなかったかも知れないが、年貢として収めなければならないから、同じ集落内の他人の行動には敏感にならざるを得なかっただろう。

 こうしてみると現代は、稲作の集落が会社に、年貢が売上ノルマ等の評価対象業務に置き換わっているようで興味深い。古く農村で行われていたことと、カイシャで起きていることはそんなに変わっていないのだ。
 個々人が集団の中で目立つ存在になりたがらず、あからさまなのは角が立つし出る杭は打たれることにもなるという価値観は全てを覆い尽くしているかのようだ。


 稲作農家が激減している現代について空気を読むなら、もっと稲作農家に寄り添ってパンではなく米を食うとか、農家に手厚い制度を作るとか、田植えや稲の刈り取りを手伝うボランティアなどするのが良いだろう。しかしそこは誰も興味がないようだ。誰も農村の空気から逃れて、汚染されて空気が悪い都会に希望を求めて出ていく。しかしその都会でも空気を気にして生きなければならずうんざりしていることだろう。

 そんな今だからこそ、空気を読むのではなくおもんぱかることを心掛けたい。空気を読むのが自分に重きを置いているのに対し、慮るのは相手に重心がある。寄り添うのは自分視点だが、慮るのは相手視点。忖度にも似ている。忖度はすっかり悪いイメージが付いてしまったが、元々は気持ちを推し量ることであって、その事自体は悪いことではない。
 最終的には自分が利するために空気を読んで考えを巡らせるのではなく、みんなが無私の心持ちで配慮が出来れば、もっと暮らしやすい社会になるのにと夢想する。

おわり


 

 
 
 

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