見出し画像

オープンワールドの社会性

 ある朝のこと。突然車内に怒声が飛んだ。
 混雑した電車の中で脚を組んで座っている方もそうだが、それに対して「おい、こら、おめぇ脚なんか組んでんじゃねぇぞ、え?」と言う方も言う方。社会正義のつもりで注意しているという自負は立派だが、見知らぬ他人に突然投げつける言い方としては相当におかしい。ただ個人的な怒りをぶつけているだけにしか聞こえない。
 つまり、どちらも少しずつ社会性が欠如している。

 赤の他人同士が同じ時間と場所を共有しているのが社会だ。いがみ合うのも一つの手法ではあるが、それはでは身体が幾つあっても足りない。お互いに何らかの妥協点を見出しつつ極力衝突を避けるように努めなければ、すぐさま紛争が勃発する。武器を手にして立ち上がれというのが残念ながら世界の主流だ。それはつまり殺し合いを意味する。
 だからこそ世界では、紛争被害を最小限に抑えるためのあらゆる対応が講じられ、そのための世界的な団体が組織されている。裏を返せば紛争そのものは依然として無くなる気配を見せていないということでもある。世界では、社会性を維持するのに相応のコストを要するということだ。

 対して日本は治安がいいと言われてきたが、それは言い伝えられてきた暗黙のルールを共通意識としていたからだとも言えるだろう。家やムラ、空気や忖度といった社会性を維持する装置があちこちに備わっていて自動制御されていた。こうした仕組みが出来たのはそんなに古い話では無いはずだ。ともかく近代以降の日本では、殺し合いよりも共存の道を選んだと言えよう。そんな稀有な国だったのだ。
 暗黙の了解を前提とするクローズドな関係性の中でのコミュニケーションによって上手く回っていたのは、多くの人がそれなりにハッピーに暮らせていたからだろう。

 しかしこれがいま揺らいでいる気がしてならない。暗黙のルールを生成していたご近所や村という意識が希薄になり、家族主義や仲間意識は無くなっった。特に都会ではそうした感覚は皆無になったと言っても言い過ぎではないだろう。他人とは近づくよりもなるべく一定の距離感を保つ方を好む人が多い気がする。コミュニケーションが密なクローズド・サークルの半径はかつてないほどに小さくなり、小さなバブル状のコミュニティが散在している。そのバブルはコミュニティにすらなっていない、ただの独りの場合も多い。

 分断や格差という言葉が象徴するように、日本を日本たらしめていた、そして日本人を日本人たらしめていた社会性は、過去のものになりつつある。みんなが目指すようなひとつの目標などどこにもなく、ただただ隣の人より速く座ることだけを考えて毎日を過ごしている。
 世界に誇れる日本という国があったとしても、それを築いている一員であるという自覚は無いに等しい。行き着いた先にあったのは、バーゲンセールのカゴの中に無造作に積まれた日本の断片だけだ。

 私たちは、小さな社会の中での立ち回り方は多少心得ていたとしても、オープンワールドでは途方に暮れるだけ。ここは日本だから日本流で何が悪いと言う張本人が日本流を見誤っているくらいなら、刀を持って世界に伍すことを考えるよりも、ピストルを手にした方が早いかも知れない。
 もちろんそうなれば、本物の殺し合いの世界が待ち受けている。

おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?