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人を殺してみたかったという動機

 人を殺してみたかった。
 この様な動機が報道されているのをしばしば耳にする。若い殺人犯に多い気がする。
 人を惨殺しておいて何という言い草だと一瞬思うものの、よくよく考えると理解ができなくもないと思ってしまう自分におののくばかりか、これは社会として熟慮すべき現象ではないかと思い至る。つまり、それだけ自分と他人の距離が遠くなった証であり、生きているとはどういうことかが分からないものになっているということでもある。そして驚愕すべきは、その犯人こそが生に対して並々ならぬ興味を持ったのであって、それを忌み嫌う私達こそ疎かにしている視点かもしれないことだ。

 殺人が悪であり、社会的な懲罰対象であることは全くその通りだと思っている。それとは別に、この皮膚の内側がいったいどうなっていて、どうなると生命活動が止まるのか、何故殺すと生き返って来ないのか、どこまでなら死なないのかといったことは、生命の本質に繋がる疑問だろう。
 だからと言って、実行して良いことと悪いことの違いを理解出来ていないのだとしたら問題だし、理解していてなお実行したのだとしたら到底許容されるものではない。
 要するに、想像力が欠如してしまっているか、あるいは極度に陰湿な攻撃性を持っているのだとすれば、そうなった要因を突き止めてその事を社会で共有するのは大切なことだ。しかし少なくとも報道では、そうした根本原因に踏み込んで社会問題として、他人ごととしてではなく自分事といったアプローチを試みた例を私は知らない。

 殺めた上で首を切り落とすという凄惨な事件は記憶に新しい。しかも犯行には両親の協力があったどころか、父親は医師だという。遺体を切り刻むなんて想像するだけで吐き気を催すが、犯行事例として少なくはないだろう。その事件のその犯人だけに特有の現象ではないということだ。つまり、社会が抱える闇が表面化したのであって、私たちがいつそうなってもおかしくないということでもある。

 牛や豚は殺して平気で食べているのに、人間を殺して切断するなんてグロいと言うのはある意味身勝手だ。肉を何の躊躇もなく感謝もなく食べられるのは、生命の尊さなど微塵も感じて生きていないということだろう。見えないところで加工されてパックに入れられると、無邪気に美味しそうと言っても許される。

 醜いものは見えなくして、出来れば目につかない遠いところに追いやるのが都市だ。だから都市には煩わしいご近所付き合いも無ければ、みんな互いに何でも知っているということのないプライバシー空間で守られている。隣の人がどんな人だか分からないし、それでも一向に困らない。
 都市が巨大化し、都市に住むことに憧れるのが当たり前になって久しい。いまや、多くの仕事は都市にある。若者は都市に出て行き、都市以外の地域は疎になる。生まれたところと働くところが違うのが標準の価値観と言ったら言い過ぎだろうが、そうした結果として都会に澱が溜まる構造になってしまったのだとすると、都市しか知らない人たちにとってはアイデンティティを失いかねない。

 社会や技術の変遷に伴って疎外が高じて、行きつく先が人を殺してみたくなるのだとしたら、あなたがいつ人を殺したくなってもおかしくはない。もちろん、この私もだ。

おわり

 

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