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パーソナルスペース

 個人が持っている心理的な距離空間のことをパーソナルスペースというのは古くから知られている。他人にそれ以上近づいて欲しくない距離があるということだ。

 パーソナルスペースの具体的な境界線距離はシチュエーションや相手によって異なり、最も遠い場合が全くの赤の他人しかいない公衆の場で、3メートルを超えると言われる。それよりも近いのが、例えば同じ学校、同じ会社、同じ地域などの場合で、1〜2メートル。気心がしれているとまでは言えないが、友達でも無いケースだ。ここまではある種の公的空間の場合。
 友達など個人的な関係性がある場合だと50センチ〜1メートルに縮まり、それより近くに立ち入ることが出来るのは極めて親密な場合だけだ。

 そんな中、日本の都会の公衆空間では、理想的なパーソナルスペースを確保するのは不可能に近く、特に電車やバスの中では友達しか立ち入れないはずの距離まで接近し合うことが普通だし、通学通勤時間帯になれば極めて親しい間柄しか許されないはずの距離を強いられる。
 パーソナルスペースを侵害されると人は不快に感じる。しかしそう感じることが許されない環境に毎日長時間に渡り身を置くことはストレスにしかならない。

 そのストレスに対する防御反応なのだろう。都会に生活する人々は、肩を触れ合いながらも、あたかもそこに自分しかいないかのように振る舞う。つまり周囲の人とのコミュニケーションを断つ。見えているが見えていないのと同じ様に振る舞う。
 そのために視線をスマホ上に固定したり、耳にイヤホンを挿してノイズキャンセリング機能や音楽で周囲の音をシャットアウトする。まるで人混みの中に仮想のプライベート空間を作り上げているかのようだ。

 パーソナルスペースとは別の話だが、プライベートとパブリックの二つについて、その区分けがボンヤリしている人が意外と多い気がする。私はそうではないと思う人も、不倫など他人のプライベートな問題に興味が湧くかどうか考えてみると良いだろう。ワイドショーネタに飛びつく人は他人のプライバシーを侵害する心のハードルが低い可能性があるから注意した方が良い。

 そもそもプライベートとパブリックを区分する明確な社会的コンセンサスが薄い。ここから先の話題は踏み込んではいけないという暗黙の基準が無い。ねぇそれくらい教えてよと土足でズケズケとやることに抵抗感がないばかりか、当たり前に聞いていいことだと思っている。それこそが親密な証だと。
 さらには、友人や恋人といった親密な関係の間柄でのプライバシーについて疎い場合がある。ご主人の浮気を疑ってスマホを盗み見るのは正当化されるとあなたは思う方だろうか。

 相手の懐に入るなんていう表現もあるくらいだから、距離を縮めることは良いこととすら思われているのだろう。仕事の後のちょっと一杯、飲みニケーションこそが重要だと酔った勢いでプライバシーに斬り込むのは、今の時代がどうこうと言う以前に、よろしくはないことなのだ。
 仕事上の付き合いとプライベートの付き合いをごちゃ混ぜにして考えるのが、ハラスメントの遠因になる可能性がある。

 もっとも、同じ会社の人と酒を交わしてのコミュニケーションを完全否定するのも正解とは言えない。もし全くそういう気になれない人が仕事仲間なのだとしたら、あなたは職場の選択を間違えている可能性がある。良好で親密なコミュニケーションがあった方が仕事が上手く回ることが多いからだ。仕事は一人では出来ないものだ。

 上司に言われた通りのことをやるだけの仕事に、余計なコミュニケーションは不要だと思うのだとしたら、仕事に対しての考え方を改めた方が良いかも知れない。その考え方に立って出来る仕事の単価は高くはならない。しかもこの先仕事が無くなる可能性が高い。
 パーソナルスペースを確保することばかりに気を取られていると、逆にパーソナルスペースは縮小する。広い心で見渡すことが出来なくなるからだ。大切なのは、仲間と思える人を増やしてパーソナルスペースの距離を広げること。そうすれば自由度が広がり閉じ籠もる必要が無くなる。
 私は、そんなことにようやく気づき始めたところです。

おわり

 

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