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感動することを忘れる時

 1980年代に90万人いた大工が今では30万人以下、2040年代には10万人程度になると言われているという。工業化によって職が奪われただけでなく、職人の技術が継承されなくなった。私たちが人の手によって作られたものに触れる機会が減少したということでもある。それは不可逆な変化であるから、今の大工がどんなに努力しても当時の大工と同じスキルを身につけることは出来ない。

 家屋は2つとない特注品だから、図面通りに家を造るのは説明書通りにプラモデルを組み立てるのとは大違いだが、現在ではかなりプラモデル的になっている。それでもまだ細かな納まりなどで現場加工が必要だから大工としての仕事が要求される。しかし今後ますますプラモデル的になって行く傾向は止められないだろう。何せ職人技が活かされた手造りの家を建てようもんなら職人を集めるのに一苦労だし、それ故に価格がバカ高くなる。本当の意味で自分だけの家を造るなんて言うのは余程の変わり者か大金持ちということになる。普通の人はオプションカタログから選ぶ組み合わせの妙で悦に入るのがせいぜいだろう。

 工業化によって私たちが便利で快適な暮らしを手に入れたのは確かだが、知らない間に失っているものがある。大工や建築に関わる職人技以外にも沢山ある。町工場はもとより大工場の生産ラインでも、長年の経験や勘に基づく知恵は貴重なものだった。それを後代に受け継ぐことは重要な任務の一つだった。それはとっくに途絶えている。

 経験とか勘とか言っていないで機械がやれば良いじゃないかと思うかも知れない。実際に企業ではそうやって合理化を進めてきた。そこでは経験はデータに、勘は論理に置き換えられた。しかし経験から導かれる勘とデータから論理的に導かれるものは本質的に違う。その事に気付いていないのか、あるいは分かっていても敢えて効率化のために省いてきたのか。

 経験とデータの違いは、生演奏と録音の違いに似ている。
 高ビット・高サンプリング周波数の録音によって瑞々しい高音質録音が可能になった今でも、録音が生演奏と同じだと言う人はいないだろう。
 データ化はある種の変換だから、現実をデータにする時点で必ずオミットされるものがある。そうして集めたデータを逆変換して元に戻そうとしても出来ない。不可逆なのだ。かなり上手くいくようにはなったが完全ではない。

 現場で培った経験をデータ化し、それに何らかの加工を施すと勘が生まれてくる、なんてことにはならない。どんなに優れたAIが出来ようとも、失ってしまった経験と勘と、そしてそこから湧き出る知恵の泉はもはや取り返せない。
 そして、多くの経験者を既に失ってしまった現代、そして未来は、勘に頼ることを期待することは出来ない。

 現代の私たちはきっと、科学や技術によって磨かれた万能感に頭の先から爪先まで、全てを支配されてしまったのだろう。今どき、勘に頼ろうなんて言えば白い目で見られる。気がふれたと真顔で二度見される。そんなこと言っていないでエビデンスを出してください。どこに書いてあるんですか。どういう理屈ですか。そんな風に言われる。得てしてそういう人は空っぽだ。万能感という外殻を持ったハリボテだ。

 勘がどうやって培われどうやって発現するのかは解明されていないだろう。ひとつ26グラムの餃子を寸分違わず手で作れるようになる。それはもちろん機械でも出来るが、その機械を作れるのは人間だし、機械はひとつのことしか出来ない。餃子を作る手はラーメンも作れればチャーハンも作れる。それどころか、子供をあやすことも、映画を見て感動に涙することも出来る。AIや機械にはそんなこと出来ないだろう。AIが流す涙を本物だと信じ込む人が増えたら、その時人は感動することを忘れているのだろう。

おわり

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